月虹 −セレス還元−

 アメリカとソビエトが覇権を競い合っていた時代に比べると、核戦争によって世界が滅亡することへの恐怖が、あまり感じられなくなっている。実際のところ、拡散した核がちょっとした小競り合いで使われてしまうなんてケースが、実に容易に起こり得る状況にあるはずなのに、不思議と緊張感がない。代わりに浮かんできたのが、自然を破壊して行くことによって起こる生命の、人類の、地球全体の緩慢な死への恐怖だ。

 油にまみれた海を見るまでもなく、世界の汚染は止めようのないスピードで進んでいる。人は余りにも多くのものを消費しては、次々と山や河や海に棄て、あるいは焼却することによって大気に熱として放出して、少しづつ地球を痛めつけている。一握りの心ある人が必死で頑張ったところで、転がり始めた巨大なリングは少しづつ、しかし確実にその下にあるものを押しつぶして進んでいく。輝く光の中での瞬間の死を、たとえ逃れることが出来たとしても、子供か孫か、あるいはずっと先の子孫が、暗い太陽の下で凍えながら死んでいく時が、いずれかならず訪れることだろう。

 その時が来たとき、仕方がないと甘んじて運命を受け入れるのか、それともあきらめないで生き延びる路を探るのかは解らない。解らないがしかし、生命と、人類と、地球の生き延びたいという意志が発現したとしたらどうだろうか。とるに足らない小さな生命でも、細胞分裂を繰り返し、あるいは生殖によって、何千何万何億年も生きることが出来るのだ。生命と、人類と、そして大いなる地球の「意志」によって、あるいは「箱船」のようなものが築き上げられるのかもしれない。

 水樹和佳が81年に発表した「月虹−セレス還元−」(創美社コミックス、1000円)に登場する盲目の美少女ソミューと、謎の力を持ったプラズマと呼ばれる男は、かつて天空に栄えた惑星セレスが、太陽に呑み込まれて崩壊する際に生み出した、「箱船」ともいえる存在だった。地球にたどり着いた2人のうち、ソミューは転生を繰り返して、今は亡命科学者の姉と一緒に暮らしている。地球は砂漠化が進み、エネルギーも食糧も枯渇しているのに、国家はプライドをかけて未だ覇権を競い合って、宇宙ではビーム衛星を飛ばし合い、地上では核のボタンに指を置いたままにらみ合っている状態。焦りと緊張の中で、若者たちは「マッドラーズ」と呼ばれる集団を結成して、夜毎街の破壊を繰り返していた。

 喧噪の地上を散歩していたソミューは、事故に巻き込まれて絶体絶命の危機を迎える。そんな時に突然現れた男が、人間に有らざる力を発揮してソミューを救い、彼女に「時間だ、ソミュー。セレスの記憶を開放してくれ」と告げた。ソミュー・ロストフとしての記憶した持たない彼女は戸惑う。しかし家に帰ったソミューのもとを再び訪れた男が、指先からエネルギーを発してソミューの顔を撃った瞬間から、封じ込められていた彼女の記憶が蘇り始めた。

 失われたセレスを取り戻すには、地球を分解してソミューの記憶とプラズマのエネルギーを開放する必要があった。しかしセレスの記憶を取り戻しながらも、地球人としての感情も合わせ持ったソミューは、核戦争の危機が日毎に高まる中にあっても、地球を見捨てることができない。やがて日本に帰ってネオ・ルネッサンス運動に身を投じた後、消息を絶った姉の恋人羅貴・砂原を、姉のために探すために、ソミューとプラズマは日本へと旅立つ。彼らが日本について間もなく、世界はビーム兵器と核爆弾のボタンを押し、滅亡への路を選択した。

 「自分たちの故郷を死に至らしめるような種族は滅びて当然なんだ」とプラズマは叫ぶ。永遠の時を生きる彼には故郷はセレスしかなく、地球人は唾棄すべき存在でしかない。しかし地球人として地球上で転生を繰り返したソミューにとって、地球はセレスと等しく愛すべき存在、いや、姉がいて友人がいる地球は、セレスにも増して愛し慈しむべき存在になっていた。

 惑星セレスの「意志」を越えてなお、彼女に地球の分解を思いとどまらせたもの。それは漂着した彼女を迎え入れ、育んだ地球の「意志」だったのではないだろうか。かつてセレスがプラズマとソミューを復活のための「箱船」として送り出したのと同じように、地球もまたソミューに、地球の記憶を守り伝えていく「箱船」としての役割を託したのではないのだろうか。自らを傷つけ、死に至らしめようとしている人類の記憶も含めて。

 突きつけられた命題は余りにも重く、それを守るために果たさなければならない課題は余りにも多い。転がり始めた巨大なリングを止めることは可能だろうか。止めるためにはどんな力が、何人の力が必要なのか。事は余りにも大きく、今すぐ結論を出すことは難しい。時間はほとんどなく、すでに手遅れなのかもしれない。だがしかし、「月虹−セレス還元−」が困難な今の時代に再び刊行された事に、地球の「意志」を感じるとすれば、あるいはまだ間に合うのかもしれない。

 何か出来るのかを考えよう。何か出来ることを始めよう。天空でティラーンとシィノーンが見守ってくれている。


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