先輩と私

 ぴゅっ、と出してそこまでな男性の快感とは違っていつまでも、いつまでも深く潜り浅く漂いしつつ、甘美な海を泳ぎ続けることが出来る女性の性的な快感を、男性が経験するのは不可能かというと案外にそうでもないようで、道具を使ってとある部分を刺激することで、ぴゅっとは出さずドライなままで永続的な快感を味わう方法というものが開発されているとかいないとか。

 道具など使わずとも、根気よく触れてさすり続けながら女性がそれをされるシチュエーションを頭に思い浮かべることで、心が脳の中にあるだろう快感の源へとつながってやがて刺激が快感をくみ出すようになる、といった話もある。快感などしょせんは脳が発する信号に過ぎない、訓練次第でどうにでも改造できるのだ、といったことなのか。

 とはいえしかし、いくら似た快感を味わえるようになったところで、それはあくまで似たものでしかない。手術によって外見を整え感じる神経を整えたところで、やっぱり事情は変わらない。持って生まれたあの体、あの形。それらからくみ出される快感の種類はやはり、ああした体のああした形を持つものだけにしか味わえない。つまりは人類の半分近くは永遠に味わうことが叶わない。

 何という不公平。何という絶望感。それでも人類には想像力がある。共感の機能を持った心がある。物語を読んでそこから想像をかきたて我が身になぞらえ、女性に特有の快感に少しでも、あるいは間際まで迫るくらいは不可能ではない。そしてそんな可能性を示唆してくれるのが、性モラルの解放とセクシャリティの自在化を叫んで久しい作家、森奈津子の「先輩と私」(徳間書店、1600円)だ。

 高邁で崇高な魂を持った先輩に憧れる下級生の静かに燃える(萌える?)恋心。表紙絵だけを見ればそういった話かと受け取る人もいるかもしれないが、ページを開いてすぐに気づく。これは恐ろしく深い啓蒙性を持った書物であると。好色な文学を研究する、部長と部員のたった2人のサークル「好色文学研究会」に入った秋吉光枝という名の部員が、羽田阿真理という名の小柄ながらも体型は抜群な先輩に憧れつつ、けれども先輩のオナニー至上主義という壁に阻まれ近づけないまま悶々としながら創作に励み、そして自らを慰める行為にも勤しんでいる。

 そこに現れたライバル、というか阿真理先輩が前にいたエロティシズム満載な文学を研究するとは名ばかりで、レズビアン少女たちの集うエロティック文学研究会からかけられたちょっかいに光枝は誘われ、サークルをのぞいて小早川華代というお嬢様の会長に慕われて、それをどうにかして振り切ったものの光枝への誘いはなかなか止まなかった。

 そこに起こる下克上。エロ研の方で華代会長が自分に振り向いてくれないとサディスティックな性格を持った加々美瑠璃が逆ギレ。華代会長を拉致して脱がして四つんばいにさせてテーブル代わりにしたり、部屋の中を引っ張り回したりとやりたい放題。既に瑠璃に弱みを握られその場に呼び出された光枝は、華代との絡みを強要されつつ嬉しさも半分くらいに絡んだところを写真に撮られ、阿真理先輩に送られてしまう。

 自慰こそが女性を解放させる行為だと頑固に主張する阿真理の方針とは正反対の、相手との絡みを通して快楽を汲み取ろうとする光枝の振る舞いに、阿真理先輩から退部を迫られ泣く泣く光枝は好研から身を引き、瑠璃が仕切るようになったエロ研側へと参画する。

 拉致された華代はしばらく瑠璃にしたい放題にされていたものの、いつまでも悪いことは続かない。反抗があってそして激しくも猥雑にして耽美な官能のスペクタクルが繰り広げられ、ようやくにして光枝と阿真理との関係に新たな進展が生まれるという、終わってみれば確かに「先輩と私」のタイトルどおりの甘いラブストーリーとして巻を閉じる。

 とはいえそこに至る過程で繰り広げられる官能描写の何という激しさ凄まじさ。カバーを外したら表紙とはまた違ったイラストが描かれているけれど、そんなものすら大人しすぎて甘すぎるくらいに汗ほとばしり、肉揺れ、液垂れるシーンが繰り広げられる。そこにあるのは女性たちの間に渦巻く快楽の情動。読めば男でも下半身から浮かび上がるくすぐったくて甘酸っぱい感覚を味わえるだろう。言葉の力、恐るべし。

 女性が自慰行為によって感じる官能の深さ、遠さ、広さ、激しさ、際限のなさは想像によって感じ取ることはできても、行為としての妥当性については男性には確かめようのない描写もあって悩ませてくれる。瞬間接着剤を使うと本当にそんなことが出来るのか? 驚くよりほかにないけれど、試してみたくなっても独り身の男性では不可能。かといって相手がいても可能かどうかは難しい。

 誰かに頼んでみるか? 殴られるのが落ちだろう。つまりはそれほどまでに凄まじい行為。作者は自分で試したのか? そしてどうなったのか? 聞いてみたくてもやっぱり殴られるのが落ち。ここは永遠に謎のままとしておくのが良さそうだ。

 かくも官能的で淫靡な描写に溢れていながら一方で、女性の自立や創作にのぞむ態度の崇高さについての描写もあってと社会的な物語でもある「先輩と私」。読んでも読み込んでも女性的な快感の素晴らしさに近づけない人にとっても、世界に男がいて女がいて快楽の交換に励んで、それが人々を動かし歴史を動かして来たものが、自慰行為によって代替され得るとなった場合に起こる、人類史的な変革を想像する楽しみはある。あるいは創作における想像か実践か、どちらがより重んじられるべきなのかについても。

 しかしやはり感じたくなる女性の快感。間際まで近づいてさらに憧憬も募る。感覚交換マシーンの登場を切に、切に願う。


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