戦国スナイパー 信長との遭遇

 装甲車やヘリコプターや重火器を携えて、現役の自衛隊員たちが戦国時代に降り立っても、圧倒的な火力で天下を取れるかというとさにあらず。補給のないまま弾薬が尽き、燃料も尽きてガラクタとなった武装を捨てた自衛隊員たちが、屈強な男達の生きる戦国時代で生き延びられないことは、半村良のSF小説「戦国自衛隊」が証明している。

 加えて歴史は絶対に曲げられないという“法則”もある。現代の知識で先手を打とうにも、それが歴史を変えることになっては拙いという“意志”が働き牙をむき、自衛隊員たちを時間の中に飲み込んで痕跡を消し去ってしまう。

 もしも戦国の世に送り込まれたのが、自衛隊に所属する一介の狙撃手だったら、歴史は果たして修正の牙をむくのだろうか。元自衛官という経歴を持った、柳内たくみによる「戦国スナイパー1 信長との遭遇篇」(講談社BOX、1400円)に綴られる物語が、その答えをいずれ証明してくれるだろう。

 愛知県にある陸上自衛隊の守山駐屯地に所属する二等陸曹の笠間慶一郎は、銃の腕前を買われて狙撃手としての養成を受けていた。海外派遣された際に、銃の腕は良くてもフル装備での実戦を経験していない人間は、戦闘には役立たないという指摘を海外の軍人から受けた慶一郎。自ら休暇を取って、海外のキャンプに出むく隊員もいるなかで、害獣の駆除に借り出されることで、カモフラージュの服を着て実戦さながらの装備を身に着ける経験を積もうとしていた。

 そんな折、狙った得物を追って、ようやく仕留めようとしていた慶一郎が、ふと気が付くとそこは携帯の電波も通じない、見知らぬ山の中だった。おまけに目の前では、現代人とは違う服装の男たちが、何やら待ち伏せの準備をし、近寄る人を次々と斬り殺していた。最初は映画の撮影かと思ったものの、いつまでも続く悪行に、これは本当に殺されているのだと感じ、慶一郎はそこが自分のいた時代とは、違う場所かもしれないと思い始めた。

 やがて近づいて来た武者たちの隊列に、待ち伏せていた男たちによって攻撃が加えられた。狙われたリーダーらしき男は咄嗟に抜け出したものの、その先に仕掛けられていた罠にはまりそうになったところを、すべて見ていた慶一郎が割って入って男を助け、そして素姓を聞くと、何とあの織田信長だった。

 時は1570年。朝倉攻めで浅井の裏切りに会い、金ヶ崎の退き口を後の豊臣秀吉に任せて命からがら逃げ戻った京都から、敵の勢力下にある近江を通らず、伊勢を抜けて岐阜に戻ろうとしていた信長が、千草峠で杉谷善住坊という鉄砲の名手によって狙撃された歴史的な事件。そこに居合わせた慶一郎は、信長の知遇を得て誘われ、いったんは自衛隊に帰投したいと守山ならぬ森山の山地に戻ったものの、誰も来ない状況に里へと降りる。

 そこで行われていた、火縄銃を使った的当てに飛び入り参加し、賞賛を浴びつつ怨みも買ってひと騒動を起こした挙げ句、武士ではなく陣夫として借り出された慶一郎は、銃器に関する知識と腕前を見込まれ、佐々成政の配下として活躍を見せ、その主である信長と再会しては、依然として信長をつけ狙う善住坊らしき敵と対峙する。

 戦場へとは赴かず、人を敵として撃つことのない自衛隊員だからなのか、本人の気質なのか、その両方なのかは曖昧ながらも目の前で人が人を殺している戦場で、慶一郎は人を撃ち殺せずにいた。けれども大切な人を守るなり、自分を守るために生き延びなくてはならず、生き延びるためには人を撃たなければならない状況で、慶一郎は初めて人を殺める引き金を引こうとする。

 これが慶一郎の精神にどう影響を及ぼし、そして彼自身の運命をどう変えていくのか。人間の成長、あるいは人間にある生存本能の露呈といったドラマが繰り広げられそうだ。その上で、信長が死去するなら本能寺の変が起こる12年後まで、あるいは鉄砲が鍵となるなら長篠の合戦までの5年を、戦国時代で慶一郎が鉄砲の腕前を活かすなり、知識を広めるなりしてどう生きて、どう変わるのかが読めると面白い。

 現代から持ち込んだ狙撃手用のライフルも、拳銃もすぐに身から離してしまったため、圧倒的な火力で歴史をねじ曲げることはなかった慶一郎だけれど、長篠の合戦で信長が用いたと俗に言われる鉄砲の重ね撃ちを、佐々成政の下で早々と実施してみせたことは果たして、歴史に禍根を残さないのか。それともこれが将来の信長の勝利を生んで、歴史を正しい方へと向かわせたのか。

 そんな、パラドックスであり歴史の牙といった、似た作品につきまとう問題をこの「戦国スナイパー」がどう処理してくれるにかに興味が及ぶ。火縄銃に工夫をこらした上で、自身の腕前もめきめきと上げている笠間慶一郎自身は、戦国の世に受け入れられ、歴史に名を刻んでいくのか、それとも。関心を持ちつつ続く展開を待とう


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