世界はを救わない

 たとえささやかな力でも、うまく使えば世界征服ができるのか。そこを軸にして取るに足らない異能力の持ち主たちが、創意と工夫で本当に世界をとってしまう展開になるのかと思ったものの、さすがにそこまでの力はなかったといったところか。それでも日常に変化はもたらされ、個々に心の安寧は得られた。そういう意味で彼女たち彼らの世界は“征服”されたのかもしれない。

 海老名龍人による「世界は愛を救わない」(講談社ラノベ文庫、640円)に登場する少年や少女には、“グリッチ”と呼ばれるちょっとした異能が備わっている。石野美香はミントガムを噛みながら手鏡を割ると姿を消せる。阿久津吾郎は手順どおりに指を動かすと差し出した手と誰もが握手をするようになる。

 壇上貫也は誰かが持っている“グリッチ”が、いったいどういうものかを見抜く能力がある。気配を消してどこにでも潜入できて、強制的に握手をさせられて、そして異能力の持ち主を見つけ出せるのなら、組み合わせれば世界はともかく学校くらいは征服できるだろう。そう思ったものの、“グリッチ”はやはり取るに足らない力だった模様。そうでなければ政府が存在を知りながら野放しにしているはずもないか。

 ガムの味がなくなると姿が見えてしまうから美香は長時間は姿を消せない。握手できたってそれが何かの契約に向かう訳ではない。能力者を探すには相手の名前を知っていてはいけない。制約が多々ある異能力を、それならと石野美香は能力を使って憧れの先輩のストーカーを続け、貫也は探し出してきた開田環子という少女が持つ能力を利用してあることをしようと考えている。

 環子の能力こそは本当にいろいろ使えそうだったにも関わらず、阿久津吾郎も壇上貫也も他者にそれを利用はしない。では誰のため。そこに見え隠れする少年少女が抱える心の問題。思うだけならそれは自由でも、行動に移したときに決して理解されない感情を3人とも抱えていたりして、それをどうにかするために環子の能力が利用されることになる。

 それはでも正しいことなのか。抱えたままで居続けることはできなかったのか。歪んだ感情であってもそれも含めて人間なのだという主張がある。感情が暴走するからといって、脳のある部分を切り取ってしまうロボトミーが何を招いたか。知る後世の人間たちは歪んだ感情も含めて人間性だと理解することくらいはできる。

 とはいえ、人が絶対に壊れないという保証はない。暴走するかもしれないな。それならやはり消すしかなかったのだろうか。考えさせられる物語だ。

 ところで、当初に掲げられていた世界征服はどうなってしまうのだろう。たとえ環子の異能が発動したとしても阿久津吾郎も壇上貫也も石野美香もその能力まで消してしまった訳ではない。改めて利用する中、プロジェクトは動き出すのかも知れない。その時は、より広い範囲からさまざまな“グリッチ”が集い派手な異能バトルが見られるかもしれない。

 もちろん、そうした異能バトルには向かなくても、ちょっとした“グリッチ”をひとつの媒介にして、青春のもやもやを浮かび上がらせ、その始末をどうすべきかを問いかける文学だと思うことも出来るだろう。文庫サイズでイラスト付きのライトノベルとして刊行されず、異能のある青春を描いた一般文芸として刊行されて、多くの人に印象を聞いてみたい気もしないでもない。

 それでも、やはりライトノベルだからこそ伝わるメッセージがあり、届く世代がある。そうした世代にどんぴしゃの物語でもあるのだから。レーベル名に「ラノベ」を持った講談社ラノベ文庫の目目躍如、といったところかもしれない。


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