生存賭博

 生まれたからには生きたいと思うし、生きているからには生き続けたいと願う。それが人間。たいていの。そして生き続けるからにはやはり安楽に、安穏と、安寧をむさぼりながら、死ぬまでの時を過ごしていけたらと夢を見る。

 それが果てしない夢であることは、この現実の世界を見渡してもすぐに分かる。比較的に裕福な日本でも、日々の糧に欠き、生きることに困難を来している人は大勢いる。いわんや戦火にあえぐ国では、飢餓に苦しむ地域では、生まれてもすぐに失われてしまう命がたくさんある。

 そう思えば、たとえ悪徳がはびこり人心がゆがんだ世界でも、生きようとして知恵を巡らせ、力を振るえば生きられる世界ははるかに幸福なのかもしれない。それがたとえ、他人を押しのけて、それらの命を危険にさらすようなものだったとしても。

 吉上亮の「生存賭博」(新潮文庫NEX、630円)には、生きるため、生き延びるため、生き続けるために懸命に、そして賢明に道を探ってあがく少女が登場する。半世紀ほど前、世界を脅かし、人が触れると塩の柱に変えられてしまう怪物“月硝子”が出現するようになった世界。出現元となっているドイツ中部の地方都市・ミッターラントに隔離された人間は、“月硝子”を食い止めるための戦いを続けていた。

 最初のうちは人類の存亡を賭け、家族を守るために行われていた“月硝子”との戦いだったけれど、そこにいつの頃からゲームとしての要素が入り込むようになった。それが「生存賭博(アインザッツ・カヴァーリア)」。暮らしに行き詰まった人間たちが、“月硝子”の出現する旧市街地に入って、軍警が到着するまでの時間稼ぎを兼ねた戦いに臨む。

 次々に“月硝子”に襲われ塩に変えられていく中で、最後まで生き延びたひとりだけが大金を得る。市民の方でも最後まで残るひとりが誰なのかをが賭けて賞金を狙う。そんな「生存賭博」はミッターラント市の一大娯楽産業となっていて、街を仕切るギャングによって運営されており、G・ヴァイゼマンという筋骨隆々の男がボスとして頂点に君臨していた。

 その一方で非合法のノミ行為も行われていて、瑠璃=A・ミュウハウゼンという少女もそんなノミ屋のひとりとなって、まだ幼い頃に身に着けた、1度記憶すれば決して忘れない能力を生かしながら賭場を開帳していた。うまく立ち回り、それなりの大金を得て安楽に浸れる。そう思っていた矢先、「生存賭博」が揺らぐ事態が起こって瑠璃を窮地へと追いやる。

 “月硝子”の現れる地域で「生存賭博」のコマとなって命を賭けて戦っていた人々が、これまでのように“月硝子”に襲われ1人、また1人と塩に帰られていく場面に現れた謎の<騎士>が、軍警でしか相手に出来ないはずの“月硝子”を倒してしまった。これでは、最後のひとりが誰になるのかに賭ける賭博が成立せず、瑠璃には払い戻しの義務が生じた。

 ギャングが運営している公営なら力で異論は抑えられても、非合法のノミ行為をやっていた瑠璃にはそれが出来ず、払い戻しのために全財産を失った上に、隠れ家にしまっておいたはずの大金も奪われ一文無しになってしまう。命すら狙われるようになって、絶体絶命の窮地にあった瑠璃。そこにつけ込むように持ちかけられたのが、「生存賭博」への参加だった。

 逃げれば確実に捕まって殺される。「生存賭博」に参加しても死んでしまう確率は高い。選ぶに困難な道から瑠璃は、「生存賭博」の場に現れて“月硝子”を倒してすべてを台無しにした謎の<騎士>への接触が打開策につながると踏んで、戦いに臨む道を選ぶ。

 そして入った「生存賭博」の現場で<騎士>と接触した瑠璃は、自分の不思議な能力がどうして生まれたかを知り、<騎士>の狙いを知り、そして巨大種という“月硝子”でも飛び抜けて強力な怪物を相手にした戦いへと引きずり込まれていく。それは人類の生存を賭けた戦いであると同時に、都市の最高権力者の座を賭けての戦いでもあった

 展開から浮かぶのは、人の命を賭けの対象にする「生存賭博」というゲームが、どこか非人道的に見えながらも、実は最小限の犠牲で人類を“月硝子”の脅威から救っていたという欺瞞的な状況だ。命を賭けて“月硝子”との戦いに参加する者も、瀬戸際だった人生を変え、生きていくことが出来るようになるのだから異論はない。その意味では完成されたシステムだったとも言えるだろう。

 それでも、誰かの犠牲になるよりは生きたい、生き続けたいという思いの方が強いのもまた人間というものだ。そんな思いを誰よりも強く抱いた少女がいて、「生存賭博」のルールを変えてしまうような力も加わったことで、完成されたシステムが大きく揺らぐことになった。

 絶対の正義を振りかざして調和を求める勢力が、長く紡いできた安寧に対して、這い上がってでも自分が権力となって生き延びようとする勢力が、被害を顧みないであがいた結果もたらされた混沌。そのどちらを是と見るべきか。結局のところは、自分がどちらの立場になるかによって答も違ってくるのだろう。正義というものの意味、権力というものの価値について考えさせられる作品だ。

 そしてもうひとつ、巨大種との戦いのシーンでの仕掛けにも注目したい。何とまあバカバカしいその仕掛け。人類の危機を防ごうとするなら、そんなゲームに興じている場合ではないだろうとすら思わされるけれど、それが戦いへのモチベーションとなって人の力を発揮させるなら、あって良いものなのかもしれない。

 本能ではなく意思で、あるいは欲望で動くだけの知性を得てしまった動物なのだ。人間は。だから生きようとする。生き延びようとする。生き続けようとする。そんな性質につけ込んで繰り広げられる「生存賭博」の物語。読めばきっと知るだろう。生存のために足掻く醜さと、そして尊さを。


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