サーチエンジン・システムクラッシュ
Serchengine Systemcrash

 イエスかノーか。○か×か。善か悪か。生か死か。この複雑な世の中を2分する明確な線など存在しないことを知りつつも、大人はそうすることによってシステムを組み上げ転がして来た。迷ったら止まってしまう。壊れてしまう、置いていかれてしまう。進むか止まるか。2つの選択肢の中で大人たちは常に前進の道を選んできた。

 けれども本当にそれしかなかったのか。もっと別の、5次元10次元100次元のさまざまな評価軸を任意に選んで、それぞれにその時々に正解を判断する手段はとれなかったものなのか。アナログ世代の癖をして、0か1かを選ぶデジタル的な選択を常に迫られ、前向きにひたむきに生きて来た大人たちが、価値観の大きく揺らぎ始めたこの世紀末に、ふと立ち止まって虚無感、喪失感のようなものを感じている。

 そんな状態を象徴するのが、宮沢章夫の芥川賞候補作「サーチエンジン・システムクラッシュ」(文藝春秋、1143円)に引かれる、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか?」という言葉だ。一所懸命頑張って来たのに、強かった経済は疲弊し華やかだと想像していた未来が案外としょぼいものだったこと気づいて、大人たちは「こんなはずじゃなかった」と嘆いている。居場所のなさに不安を覚え、浮游感、酩酊感の中で茫然としている。耐え切れなければ退場するか、耐えられる世界へと戻すしかない。

 編集プロダクションを営む男は、大学時代の同級生が、妻のある身でありながら若い女性を殺害したことを知る。理由は不明だが、あるいはそこには0でも1でない、曖昧で混沌とした世界に自らを置こうとする意思が働いたのかもしれない。地位とか体面とかを気にせず、人の死を自分の興味の範囲内で楽しめる次元に飛びたかったのかもしれない。断罪されて当然の手法だが、気持ちは分からないでも……ない。

 同世代ならなおさらなのか。男は同級生の起こした事件に触発されて、かつて7年前に同級生とすれ違った池袋の店を探し回る。ようやく見つけたピンサロのようなその場所で出会った女は、彼を別の人間と間違え、ビデオの配線を頼んで彼に艶っぽい期待を抱かせる。けれども彼は池袋の街へとコードを買いに出た挙げ句、道に迷って東口から西口へと池袋の街をさまよい歩く。

 かつて大学で学んだ授業に出ていた別の同級生が、畝西だったはずの教授の名前を違うマダラメだと言いはる。「虚学」と名付けられたその授業が本当に存在したのかすら虚ろになっていく展開に、主人公に成り代わり、わずか10数年前の学生時代が本当に自分にもあったのかと問い掛けられた気持ちになり、足下がガラガラと崩れ落ちる感覚を味わい、虚無の世界へと放り出される恐怖感を覚える。

 白か黒か。生きているのか死んでいるのか。打ち込めば必ずや何らかの答えを出してくれるサーチエンジンが破壊され、時間も空間も止まっているのかさえ分からない曖昧な状態をつきつけられて、人はようやくシステムの歯車ではなく自分自身を、自分の存在そのものを認識できるのかもしれない。宗教めいた雰囲気のあるクラブに分け入り、発見した「ここではありません」という標識。男は納得して、ふたたび女のアパートを目指して池袋の街へとさまよい出る。

 現実があって始めて認識可能な虚無を覚えることすらありえないくらいに、遺伝子レベルから現実と非現実が混然とした曖昧な状況に浸り切っている若い人たちにとって、この物語はどう映るだろうか。耐えるも耐えないもない、曖昧さは日常なのだと気にもとめないのだろう。そう考えると、この作品が芥川賞の候補になったのも、選ぶ人たちの世代が仲間意識として選んだような気がしてならない。

 だからといって、老人の繰り言めいた教訓本として捉えられるのもつまらない。モーレツだった若い時代から10数年を経て、中年になってしまって思うに任せない日々が続いている大人たちは、そうそう曖昧さを許してくれない日常からの乖離を見せられて、何らかの示唆を与えられるだろう。

 「ここではない」のなら別のどこかを探すまで。与えられた目的が消極的でも前へと進む気持ちを震わせる。それだけでも、どうしようもない今を動かす、少しは力になるだろう。


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