サザエ計画

 2012年12月に東京ビッグサイトで開かれた、第42回東京モーターショーでトヨタ自動車のブースに行った。そこには「ドラえもん」が飛んでいた。「どこでもドア」が立っていた。ちょっとしたテーマパークのようで楽しかった。でも悲しかった。

 日本人なら誰でも知っていて、世界でも人気のキャラクター。のび太が困ると、様々なひみつ道具を四次元ポケットから取り出して、夢をかなえてくれるドラえもんは、未来への革新というイメージを託すのに相応しい。

 だからといって、空想の漫画で、現実の産業のイメージを惑わすのは間違いだ。従来、モーターショーで自動車会社がやっていたのは、見せる車そのものの可否を問うことで、麗しいコンパニオンですら脇役に過ぎなかった。それでも大勢がモーターショーにやって来た。スタイリングや性能、自動化や脱化石燃料といった、車そのものによって語られるビジョンに、来場者は興味を覚え、未来につながる夢を描いた。

 ところが今回は、ドラえもんを飛ばしてどこでもドアを置いた。それらから醸し出されるイメージを超える何か、イメージに近づこうとする何かが展示してあったのなら納得もできた。けれどもトヨタのブースには、どこでもドアが示すような、どこにでもさっとたどり着ける夢の技術へのビジョンはなかった。タケコプターのような、どんなところにも飛んでいける軽快さへの提案もなかった。

 かつての隆盛、何百万人もの人が車だけを見に訪れたモーターショーの盛況を振り返って、発想の衰退ぶり、産業としての限界を感じて寂しく思った。

 人気キャラクターのイメージを使うなら、それを超えるビジョンを提案して欲しい。安易にイメージに縋って、本来すべきことをごまかさないでもらいたい。キャラクターが大好きだからこそ浮かぶ、そんな思いに対して、「ドラえもん」に劣らない国民的な認知度を誇る「サザエさん」をタイトルに持った、園山創介の第13回ボイルドエッグズ新人賞受賞作「サザエ計画」(産業編集センター、1400円)は答えているか。そこがまず気になった。

 読んで字のごとく、「サザエ計画」とは各地から集められた7人が、長谷川町子の漫画や、それを原作にしたアニメーションの「サザエさん」のように、ひとつ屋根の下で一家として暮らすというもの。高校1年生の若梅由有菜のところにある日、長谷川家康という総務省家庭環境分析センター研究員の肩書きを持った男がやってきて、「古き良き時代の家庭環境を研究する対象として」協力して欲しいと告げた。

 役人とはいえ得体の知れないところもある長谷川家康に、自身はもちろん家族も警戒するかと思いきや、高額の現金をすでにもらっていて、引き留めもしないで由有菜を送り出す。もう引けないとやってきたその一軒家には、すでに6人の男女が待っていて、そして由有菜を加えた7人と、ときおり姿を見せる白い猫との家族生活が始まった。

 浮かぶのは、アニメのように頑固な父親に柔和な母親、活発な娘に気弱そうなその婿に元気な息子、やんちゃな弟ににこやかな妹と、あとは猫といった家族構成。けれども「サザエ計画」は、そんな一般に広がったイメージ、そして現在の社会では絶滅しかかっている大家族のイメージに、現代っ子たちを無理矢理当てはめ、戸惑わせて笑いを取るようなパロディーには流れない。

 父親は存在感が希薄でおどおどとしている中年男で、母親は50歳代ながらもセクシーさを残した女性、娘は20歳代で眼鏡をかけた文学少女風の女で、婿となる男性は30歳代で、天然パーマが激しいほかはどこにでもいそうな風体だ。その息子はまだ3歳ぐらいで、そんな小さい子供をいったい、誰が許可してこの計画に参加させたのかと、由有菜は不思議に思いつつ憤る。そんな由有菜の兄にあたる少年は、金髪でジャージ姿がいかにも現代の高校生といった感じ。漫画やアニメとは遠くかけ離れた家族の姿が、そこにあった。

 どこか奇妙な人選。そもそも由有菜が選ばれた理由がよく分からない。先に気付いた金髪ジャージの兄からヒントをもらって、「わかうめゆうな」という名前がもしかしたら、理由になっているのかもしれないと思い至った由有菜に、なるほどそうかと読者も引っ張られそうになる。もしそうだったら、「サザエさん」というイメージを掲げて、そことのズレを楽しませるだけの物語として、悲しくはないまでも苦い思いをこの本に、抱いたかもしれない。

 けれども違った。名前に関連する理由があったとしても、それ以上の意味が7人の選別にはあって、疑似家族として半年間を一緒に過ごす「サザエ計画」にはあった。父親役でありながら、父親になりきれない中年男性。快活そうで、どこかに怯えを抱えたセクシーな女性。文学少女は過去に悔い、パーマ男は情熱を頑なに堅持し、金髪ジャージはなかなかうち解けようとしない。

 小さい子供は子供らしい明るさで喋り笑うような姿を見せない。ひとり由有菜だけが、年相応の女子高生をやっていた。そう本人は自覚していたけれど、実は彼女が誰よりも、アニメのイメージにある妹キャラから外れていたことが明るみに出ることで、長谷川家康が示した「サザエ計画」が持っていた、目的の深さが浮かび上がって来る。パロディーとしての笑いを脇に追いやり、原作の面白さを踏み台にして、今を問おうとする意志が見えてくる。

 家族がいれば、家族になれば誰もが痛めていた心を穏やかにして、立ち直れるとは限らない。誰もいないよりは、誰かがいた方がはるかに良いというだけのことでしかない。大切なのは、そうやって集まった人たちが、お互いを意識し、必要としあえるような感情の相互交流を持つこと。実に当たり前のことなのに、当たり前過ぎて忘れられてしまいがちな「家族」の意味に、改めて思い至らせてくれる物語だ。

 「サザエさん」を借りなければ、そんな計画は作れず、それを描いたドラマも作れなかったのかどうなのか。フックとして安易に活用しただけなのではないか。迷いが浮かばない訳ではないけれど、誰もが知っている「サザエさん」だったからこそ、由有菜はすんなりと疑似家族という設定を理解し、関係を認めてそこへと入って、自分を治すことができた。誰もが知っている「サザエさん」だからこそ、読者は面白そうな本だと「サザエ計画」を手に取ることになる。だからここは必然と認め、超えていると感じて讃えたい。

 トヨタ自動車にもだから、次のモーターショーでは、「サザエさん」の世界をテーマに、家族が、あるいは大勢の人たちが、分かり合い認め合って前に進んでいけるような車の提案を、お願いしたいものだが、果たして作り得るか、否か。


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