さとし
聖の青春

 1998年8月8日午後12時11分、A級8段の棋士だった村山聖は29歳の生涯を終えた。腎ネフローゼに始まる数々の難病を抱え、入退院を繰り返し時には病院のベッドを抜け出して対局場へと赴く苦労をしながらも、将棋では圧倒的な強さを見せて実に356勝201敗、勝率6割3分9厘の好成績を残した男も、体をじわじわと蝕んでいた癌には勝つことが出来なかった。棋士なら誰もが抱く名人への夢を、夢ではなく現実の物として手中に収める「翼」すなわち天与の才を持ちながらも、翼を羽ばたかせることなく世を去った。

 親族に寄って伏せられた死が数日後に明かされ新聞に訃報がのった当時の所感を、日記(98年8月11日付)から少々長いが以下に引く。

※     ※     ※


 「哀しい、というより寧ろ悔しい。『怪童丸』として名を馳せ、ヴェテランの棋士をして『終盤は村山に聞け』とまで言わしめた将棋界の俊英・村山聖(さとし)8段が8日に死去していたという。享年29歳はかの天才・羽生善治4冠王より1歳上で佐藤康光竜王、屋敷伸之棋聖らとも同世代で、括って10年ほど前に”恐るべき10代””チャイルドブランド”と呼ばれた一群に、当然の事ながら村山8段もその筆頭クラスで顔を並べる。実力たるやかの羽生4冠王を相手に6勝8敗うち1つは今年4月の入院後の大局であったために不戦敗と、およそ5分の成績を残しており、幼くして腎臓を悪くして以来、病気がちで体力的に厳しい中での羽生相手の差し訳は、まさに羽生以上の天才、という称号すら相応しいかもしれない」

 「病気の故か丸々と肥満した体を小さくかがめて、将棋盤に食いつくように胸を寄せた姿を幾度かテレビの将棋番組で見た記憶がある。最近では3月末に放映されたNHK杯決勝で、先述の羽生4冠王と大局して惜しくも破れた姿を見た。A級復帰が決まっていたにも関わらず、悪くなる体に4月以降の休場を決心した時点での大局は、おそらくは再発した膀胱ガンが全身に転移して相当な痛みを伴っていたであろう。にも関わらず並みいる棋士たちが参加する棋戦で勝ち抜いて時の人・羽生と戦う場面へとこぎ着けたその将棋への思いたるや、”執念”という言葉すら軽々しく思えるほどの重く激しいものだったろう。大局後の感想戦で、コロコロとした顔立ちには似合わないものの、歳相応の大人の声で羽生と会話していたのが、今となっては懐かしい」

 「先に挙げたチャイルドブランドの面々が次々とタイトルを獲得して、棋界の頂点を極めようと琢磨している中でただ1人、幾度のタイトル挑戦を経ながらも無冠で終わった事と、時に何10時間にも及ぶ大局で磨耗する体力との関係を結びつけることは難しい事ではない。もしも、という言葉が許されるならば、村山8段がもしも健康な体を持っていたら、羽生、佐藤、屋敷、郷田、三浦、丸山といった同輩後輩の面々にいささかも劣ることなく、14歳にして棋士となり名人竜王の2冠を極めた羽生は別格としても、佐藤あるいは屋敷の上を行き1度ならずタイトル挑戦を果たし、うち少なくとも1つはタイトルの奪取を成し遂げていたであろう。将棋を知らない身にはその棋風のどこが他と違っていたかに言及すること能わずだが、風聞とそして勝率6割3分9厘という全成績から察するに、おそらくそれは事実だろう」

 「優等生気質の多い若手棋士の中でも異色の存在で、部屋には少女漫画少年漫画が山のように散乱し、着る物にも無頓着で部屋には薄い誰もが家に1つは持っているような簡易型の将棋盤を供え、日夜研究に励んでいたという図を「週刊将棋」か何かで見たことがある。他を圧する強さを持ちながらも、同年代になお一層の才を持つ人材が結集したが故に不遇をかこち、為にギャンブルに勤しみ不遇を紛らわせてい先崎や屋敷を無頼と呼ぶのだとすれば、村山にはむしろ修羅という言葉こそが相応しい。修羅として己が命が削れていくのも承知で、一心不乱に将棋の道を極めんと欲した。先を行く羽生、佐藤らに遅れた分をいつか取り戻せると信じて、全身がガンに冒されていると知った4月以降も、棋譜を取り寄せては見入っていたという。薄れ行く意識の中で将棋符合をつぶやいていたというエピソードは、たとえ将棋を知らない者でも何か心打たれるものがあるはずだ」

 「中原永世棋聖の問題で凋落したかに見える将棋への信望の中でも、その風貌に似合わず高潔な文字どおりの『棋士道』を貫いた村山8段に棋界は何でもって報いるか。存命ならばおそらくは枡田幸三、芹沢博文、米長邦雄といったアンチヒーローの系譜に連なる棋士として、あるいは加藤一二三のように孤高の存在として熱狂的なファンを得、新たなファン層を獲得するだけの魅力を発揮したであろう村山8段の”無念の投了”(サンケイスポーツより)をどのように悼むか。先の中原問題、米長問題の時を思い出せば明白なように、メディアなどのとりまきも含めて、およそ閉鎖的なムラ社会である棋界にとって、不謹慎な物言いだが羽生の活躍以上に大きなアピールのチャンスだ。村山8段の偉績を広く一般に知って貰う努力を、ここは棋界にもとりまきのメディアにも求めたい」

※     ※     ※


 その答えとも言える本が、「将棋世界」編集長で現役時代の村山を師匠の森信雄6段とも親しい大崎善生によって「聖の青春」(講談社、1700円)として著された。生まれてから発病して病院で将棋の本に熱中した少年時代から、森との師弟関係を経て、見栄も体裁も一切を気にすることなく勝負に徹底してこだわった棋士時代を、見たままに、そして取材して人から聞いたままに書いている1冊。あまり触れられることのなかった、村山の奨励会入りが1年遅れた理由をしっかり実名を挙げて触れている部分も含めて、生きることに一切の妥協のなかった村山の生き様を、語るに相応しい評伝となっている。

 棋士となってからの爪は切らず髪も洗わないで対局に望んだ「奇行ぶり」は知っていたが、最初の奨励会入りを拒否された時に人目をはばからず泣き叫んだエピソードを聞くにつけ、病院暮らしの中で周囲の同世代の子供たちが朝起きるといなくなっている厳しい現実に見(まみ)え、自分もいつそうなるかという恐怖に脅えながら、打ち込んだ果てに1筋の光明として射した将棋への道を、大人たちの邪な心によってバタリと閉ざされた聖が、抱いた絶望の大きさが胸に響く。

 先輩と自分と後輩の3人で打った麻雀で後輩をこてんぱんに下し、無一文にした後でも後輩にタクシー代を貸すのを「いやじゃ」と拒否し、かといって見捨てることも出来ないのか雀荘を出た後でタクシーを探す後輩と先輩の2人の後をついて行き、先輩がその後の飲み代を支払うということでようやくタクシー代を後輩に貸すエピソードには、寂しがりやで純粋で人間味あふれる村山の人となりの一部が見える。ライバルと目した佐藤康光の車に乗り込み、後部座席を吐寫物で汚して平然とする負けず嫌いぶり。その一方で弟弟子を失った阪神・淡路大震災の被害者のために人が驚く義捐金を即座に申し出た優しさ、強さが村山という人間の凄みを改めて教えてくれる(その上を行く額を即座に寄付した羽生善治もまた凄いが)。

 そして師匠・森6段との、親子とも同志とも言って言い足りないくらいに密着していた師弟関係が数々のエピソードで紹介されて、その1つひとつが胸を打つ。最初の奨励会挑戦が横槍によって挫折した時に、森は村山以上に悩みもだえた。大阪へと出てきた村山の頭を洗ってやり、病院に入院した村山のために慣れない本屋巡りをして少女漫画を買い集め、人なみの生活に憧れた村山がゴルフをしたいと言い出した時には、健康を大事にしろと怒って足を蹴ってまで気持ちを翻意させた。大崎が見たという、そして涙を流しそうになっと告白する、寒空の大阪シンフォニーホール前で村山と出会った森が、自然に村山の手を取りさすってやるシーンが、その地位も打算も一切介在しない、無垢な関係を物語る。

 村山の死を知った当時に抱いた「悔しい」という思いは今もいささかも変わっていないが、大崎による本書といい、山本おさむ絵による「ビッグコミック」連載中の漫画「聖」と言い、村山の偉績が未だに誰も忘れられておらず、むしろその生き様が他の華々しい活躍をし続ける棋士たち以上に知られ、語り継がれていることを心から喜ばしく思う。無論それが名人の地位を夢みた村山にとっても、そんな村山を見続けた森にとっても大崎にとっても、村山としのぎをけずったライバルたちにとっても本意ではないことは承知だが、それを言うのは詮無きこと、せめて刻まれた名前を語り継ぎ、谷川を超えようと頑張った村山の物語に、果たせなかった彼の夢を、名人への翼を羽ばたかせて高みへと上り詰める村山聖の願望を、代わって掴もうと決心する少年が出てくれれば嬉しい。


積ん読パラダイスへ戻る