百日紅

 2015年4月17日、「河童のクゥと夏休み」や「カラフル」を手がけたアニメーション監督の原恵一が、江戸を舞台にした作品で知られる杉浦日向子の漫画「百日紅」(筑摩書房、上下各680円)を長編アニメーション映画にした「百日紅〜Miss HOKUSAI」のマスコミ向け完成披露試写が開かれて、そこに杉浦日向子の兄で、カメラマンの鈴木雅也が来場して挨拶をした。

 2005年7月に杉浦日向子が死去して、2015年はちょうど10年目に当たる。もしも存命だったら、完成した映画を観て「こんな風に作っていただいて、大満足で『大当たり〜!』と言って喜んだだろう」と、妹に成り代わって話した兄の言葉を聞いて、原恵一監督はきっと喜んだことだろう。

 杉浦日向子の漫画が好きすぎて、「合葬」という杉浦日向子の漫画を、映像化したいという企画を自分でプロダクションI.Gの石川光久社長に話し、そこで以前に「百日紅」の企画を動かしたことがあると石川社長から聞いて、その企画を改めて立ち上げ監督に就いたという原恵一監督。傑作ぞろいの杉浦作品でも、完成度の高い「百日紅」をどうやって映像にしたら良いのかを考え、どうやっても粗悪なコピーにしかならないのではないかと悩んだらしい。

 どうれだけ遅くても筆を止めない自信があった自分の筆が一時、ピタリと止まってしまったというから、プレッシャーも相当のものだったと想像できる。それでも書いて描いて作った映画「百日紅〜Miss HOKUSAI」は、杉浦日向子の漫画の世界を立派に蘇らせたアニメーションだった。

 杉浦日向子の描いた江戸と、江戸に生きた人間たちの物語。葛飾北斎と娘のお栄、あるいはお猶といった親と子のドラマがあり、お栄とお猶という姉妹の情感に溢れた素晴らしいドラマがそこにはあった。

 竜を描く話で、天上から竜が降りてくるのをお栄が待って、一気呵成に描き上げるエピソードがあり、枕絵を描いてもそこに色気を乗せられないと版元に言われ、お栄が陰間茶屋に入って初体験をしようとしたものの、相手が眠ってしまいどうなったのか分からずじまいに終わるといった、原作の漫画にあるお栄に関するエピソードを拾いと、それらを連ねて描いていったアニメーションになっている。

 原作ではほかに、葛飾北斎のところに出入りしている弟子の善次郎、後の渓斎英泉が過去に武士として犯してしまったことが語られ、お栄とは別にいた北斎の女の弟子、葛飾北明のお栄にはない色っぽさが示され、北斎自身が公方様の前で立派に絵を描き、余興として鶏を歩かせ川に流れる紅葉と言おうとして鶏が歩かず、代わりにさっと大きな絵を描いて場を収めた話によって、北斎という絵師のすごさを今に伝えている。北斎を中心にした一種の群像劇と言える。

 もっとも、そうしたエピソードはアニメーション映画では語られない。北明は外見と同じ女性が、これも北斎の弟子でお栄も惚れる初五郎、後の魚屋北渓と連れだって芝居に行こうとするのをお栄が見て、自分も女になろうと思い込む場面に登場するくらいで、存在そのものは描かれない。漫画に描かれた、北明であり英泉であり初五郎といった人たちの江戸という街での生き様。それらを味わいたかったらやはり漫画の「百日紅」を読むしかない。

 漫画の「百日紅」は一種の江戸ならではの怪異譚として、これは映画に出てくるお栄が描いた地獄絵図が、あまりに真に迫りすぎていて購入した大店の細君を悩ませ、それを北斎が筆で解決するエピソードがあったり、香具師としてほうぼうを巡って販売の口上を述べる兄と妹がいて、その妹の肩に死んだ母親の両手が食い込んでいて離れず、娘を悩ませているエピソードがあったりして、不思議が現実と背中合わせに存在していた江戸の時代を感じさせてくれる。

 神隠しに遭ったという少女が大きくなり、生まれた子供を連れて雪の三囲稲荷へと降りてきて、子供をお栄に差し出し生家へと連れて行って欲しいと頼むエピソードは、神隠しが“実在”した江戸、里と関わらず山で生きる者たちが居ただろう江戸のビジョンを今に感じさせる。息子といえども山へは置いていないと分かって、生家に引き取らせようとする母親が、子供と雪うさぎを作って遊びながらも、あっさりと手放し山へと駆け戻っていくその姿をドライと見るか、子を思っての行動と見るか。読む人がそれぞれに考えたい。

 そんな豊富なエピソードを、脇に置くようにして、漫画では1エピソードに過ぎなかったお猶の物語を前へと引っ張り出したのがアニメーション映画の「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」だ。人が行き交う大橋の上や、雪が降り積もった向島の三囲稲荷といった場所で、姉妹の仲睦まじさを見せ、そこに加わらない父・北斎の唐変木さを示しつつ、けれどもあいつは涙もろいというお栄の言葉を添えて、北斎が冷徹ではなく深い情を持った男だということを感じさせて、空気をギスギスとしたものにさせない。むしろ素直になれない可愛らしさを感じさせ、人間という弱いけれども優しい生き物の素晴らしさを醸し出す。

 そんなお栄とお猶と父と母の関係が、だんだんと見えてきて案外に良い関係だったかもしれないと思った矢先、あるいは必然として起こった事態を描いた場面に走る戦慄、浮かぶ慟哭は、感情を時間の経過の中に盛り上げていって、クライマックスに爆発させる映画ならではの演出と言えそう。漫画のひとつのエピソードでも漂った切なさと、諦めと、慈しみの心情が何倍もの規模となって身に迫る。それを味わいに何度でも映画館へと通いたい。見ればそう思えるはずだ。

 マスコミ向け完成披露試写会の挨拶で、杉浦日向子の兄はこうも話していた。杉浦日向子が漫画家だったことも、そして杉浦日向子という名前も覚えている人もいなくなっているかもしれない。もしそうだとしたら残念なことだけれど、死去するよりはるか以前の1993年に、すでに漫画家としての筆を折り、その寿命を思いながら江戸を広める仕事に邁進した杉浦日向子の、それでも江戸を知ってもらうために最適だと言える漫画の仕事が忘れられているということだから。

 だからこそ、この「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」という映画の登場を機会に、「百日紅」を始め杉浦日向子の漫画が知られ読まれ驚かれ楽しまれることが何より大事だ。5歳下の妹から多くを教わり、仲が良かった兄の杉浦日向子を忘れないで、思い出して、伝えて広めていってと願った気持ちを受け止め、この映画を世に広め、そして自分でも映画館に通って何度でも観よう。あの戦慄、あの慟哭を何度でも味わおう。


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