サクリファイス

 エースとは絶対的な存在だ。

 自転車のロードレース。参加するチームには何人ものメンバーがいる。しかしエースはたったひとり。そしてチームはすべてがエースをトップに押し上げるために存在する。

 エースが走行中にパンクをすれば、近くを走っているエース以外の選手が乗っている自転車からタイヤを差し出し、エースを先へと送り出す。タイヤを差し出さずにそのまま走り続ければトップを取れたかもしれなくても、エースのためには自分の成績を犠牲にすることを厭わない。厭ってはいけない。

 絶対にして不可侵。それが自転車レースのエースという存在だ。

 だからエースは傲慢だ。無情で無慈悲な存在だ。他を犠牲にして恥じず、怯まず、君臨し続ける神の如き絶対者だ、と、傍目には見えるだろう。同じチームにあってもそう思う人は出てくる。そして疎まれる。憎まれる。絶対者であり続けるために何かを犠牲にしているのではないかと疑念を抱かれ続ける。

 近藤史恵の「サクリファイス」(新潮社、1500円)に登場するロードレースチームのエースも憎まれ、疎まれ、疑われた。石尾豪。山岳で強靱なパワーを発揮し、平地でもそれなりの力を持っていて、国内では長くトップレーサーの地位を保ち続けている。30歳を超えてやや衰えが見えて来てはいても、他を圧する力は健在で、未だにチームのエースとして君臨し続け、そんな彼をチームは支え続けている。

 上に立つ者の宿命として、下からの突き上げは当然のように喰らう。若い才能の登場によって、その座を脅かされることもある。過去にも次代のエースと目された選手がチームへと入ってきて、石尾選手のエースンの座を脅かした。けれどもその若い選手は、とあるレースの下り坂で石尾選手と交錯する形になってクラッシュし、背骨を強打して半身不随となって引退を余儀なくされた。

 エースの座を脅かされることを許さなかった石尾選手が、レース中なのを良いことにわざと妨害したのではないか。エースの座にこだわり続ける石尾選手の態度から、そんな疑いが周囲には浮かんだが、石尾選手は事故だと言い張り、相手には謝り、けれども一切動じることなく自転車に乗り続けて、今もエースとして君臨している。

 まさしく鬼だ。あるいは修羅だ。エースとはレースのためなら何でもする悪魔なのだ。そんな苦い感情が浮かんで、読み手の心を黒さに浸す。

 主人公の白石誓は、石尾のいるチームに入った2年目の若手選手。陸上競技の中距離で嘱望されながら、自転車にひかれてロードレースに転向した。性格的にも実力的にもエースを脅かすほどの自転車乗りではなかったものの、そこそこの力は持っていて、エースをサポートするため集団を引っ張っるようなアシスト的な役割を割り当てられて、順当にこなしてチームに貢献をしている。

 どんな時でもエースとしての立場を崩さず、アシストたちにその立場を強要する石尾に過去の経緯から疑いを抱くこともあった。とあるレースでパンクし出遅れたエースに「行け」と言われず「戻って来い」と言われたことに内心では不満を抱いた。それでも白石はエースはエースなんだと石尾を立て、アシスト役に徹し続ける。

 同期でエース候補の伊庭は、そんな白石の態度に苛立ちを見せる。自分こそが次代のエースなんだと思いながらも、チームが決めたことだからと渋々従っている。先輩の中にも石尾の過去を憤りつつエースだからと沈黙し続ける者がいて、それらがかえって石尾の傲岸ぶりを浮き立たせる。

 かつての白石の恋人が、石尾との交錯によって選手生命を奪われた男から石尾の非情さを聞き、白石に伝えにやって来る。さらに白石の所に、スペインのチームからアシスト役として加わらないかと声がかかる。白石は迷う。国内ではトップでも、世界的に見れば島国の王様でしかない石尾に、グラン・ツールと呼ばれる欧州の3大レースに参加可能な立場になる白石はどう見えたか。不穏な空気が浮かび上がって石尾を、白石を包み込む。

 そして迎えた欧州遠征で起こった悲惨な出来事。エースはやはり傲岸で非情で悪辣な存在だったのか。だからそうなったのか。それとも他に何か理由があったのか。すべてが明らかにされた時、読者は人間の何かにかける純粋さというものの凄みを知るだろう。高潔さとはこういうことかと慟哭するだろう。

 エースはそれ故にエースなのだ。と、強く思い知らされるだろう。

 自転車のロードレースに関心を抱く人なら、読み始めてたちまちのうちに引っ張り込まれる傑作小説。注目を浴びるに連れて商業主義にまみれ、人と金と薬にまつわる噂で喧しいロードレースの世界に膿みつつある人は、心をさらりと洗われアスリートの純粋さに希望を見いだしたくなるだろう。自転車レースに関心はなくとも、あらゆるシーンに共通する信じることの素晴らしさ。頑張ることの大切さを強く激しく感じさせられるはずだ。


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