RUNAKO’S KITCHEN
瑠奈子のキッチン

 穴があったら突っ込みたい、というのは何も男の本能に限らない。たとえば朝な夕なに家族の食事の支度に追われる主婦だったら、毎度まいど大量に出る生ゴミを、目の前にある穴すなわち流し口へと突っ込んで、知らぬ顔していたいだろう。けれども今の日本の家庭では、流し口からゴミを流すなんて法律的にはともかく道義的には御法度。」だからこそ毎週の決まった日時になると、黒だったり地域によっては透明の、ポリ袋を手にさげてえっちらおっちら収集場へと向かわなくてはならない。

 ところが海外には、流し口に生ゴミを突っ込んでも平気な国がある、というか生ゴミは本来流し口に突っ込むものだと習慣づけられている国がある。別に道義的に生ゴミを下水道へとばんばん流しても平気という訳でない。むしろ環境問題にはことのほかうるさそうな印象さえある。ではなぜ日本では難しいことが海外ではごくごく当たり前に出来てしまうのか? それはひとえにディスポーザーという機械が取り付けられているか、いないかの違いにかかってくる。

 「ディズポーザーって、なに?」。疑問質問ごもっとも、日本人でその大半はおそらくこの機械の事を知らないだろうから。説明すればこのディスポーザー、流し台にある流し口に生ゴミを放り込んだらあら不思議、ギュイーンと音を立てて回転する刃が林檎の皮だろうと出涸らしのお茶っ葉だろうと大根の尻尾だろうとすべて粉々に砕いてしまう、実にワイルドな家庭用電化製品なのだ。「えっ、ってことは下水道に生ゴミを流しちゃうってことなの?」。ピンポン、そのとおり下水道には粉砕された生ゴミがまんま流れ込む。日本人のほとんどはそれをあんまり良くない事だと思いこんでいるらしく、だからどこの家庭も冷蔵庫とか電子レンジとか食器洗い機とかって家電製品はど採り入れても、ディスポーザーだけは付けなかったし第一どこのメーカーも製品化なんかしなかった。

 そんな”幻”の家電製品、ディスポーザーの存在を、松尾由美さんの「瑠奈子のキッチン」(講談社、1800円)に主役として登場する、一介の主婦に過ぎない瑠奈子さんが知っていたのは、かつて海外に留学、というかアメリカ人と結婚した叔母の家に半年間居候していた時に、流し台でぶん回るディスポーザーを見ていたから。ある日突然やって来た、家電メーカーの人間らしき男がディスポーザーを日本にはまだない夢の家電だと言った時にも、だから瑠奈子さんは実感をもってその便利さを思い浮かべることができた。そして男が実は家庭でディスポーザーを使うことを禁じる法律はないと言い、食器洗い機を手みやげに、日本にディスポーザーを普及させる秘密組織に入って下さいをお願いした時も、割とすんなり申し出を受け入れてしまった。

 口コミによるディスポーザーの普及を目指すとう名目で、集められた瑠奈子さんを含む何人かの人たちは、月に何回か集まって口コミのための方法を訓練することになった。その第1段階が集められた人に交じっていた、瑠奈子さんとは彫金のスクールで顔見知りだった老人に向かって、ディスポーザーの便利さを教えることだった。だが歳なのか惚けているのか老人は言われた事をすぐに忘れてしまう癖があって、手を変え品を変え、瑠奈子さんをはじめ会合に集まった人たちは言葉を弄して老人の説得に務めるが、老人は一向にディスポーザーの便利さを理解しようとしなかった。

 そんな瑠奈子の前に、ディスポーザーの普及を妨害しようとする「伏流水協会」と名乗る団体が現れて、秘密組織の活動を妨害しようと瑠奈子に協力を求める。いっぽうで会合にいっしょに来ていた美青年の後を追った瑠奈子は、銀座の地面の下にこちらはディスポーザーの普及を推進しようとする秘密クラブに迷い込む。そしてディスポーザーの普及が実は、目の前にある嫌なことから目を背け、面倒事は誰かにまかせてその日を楽しく暮らす怠惰な人々、企業の言いなりになって物をどんどんと買う人々を数多く生み出すのだという、遠大かつ深淵な目的をはらんでいたのだということを知る。さらに秘密組織がどうして瑠奈子をターゲットに選んだのか、その理由までもがつまびらかとなり、これまでの生涯で自分が知らず行って来た行動が、狙われたのだと知って大きく惑う。

 結局のところ人間は、穴があったら突っ込みたいし放り込みたいんだと考える、本能的には怠惰な生き物なのかもしれない。けれども楽をすればその分苦労があるのが現実の世の中だと、長い社会生活の中で培った理性が教えてくれるのだろう。だから人は面倒でも、突っ込むならば手順を踏むし、放り込まずに袋に入れて指定日に収集場へと担いで行く。管理され秩序を押しつけられるのはちょっぴり癪に触るけど、苦労を厭う人ばかりになれば多分、世界はやがて大混乱から崩壊への道を歩み始めることだろう。ディスポーザーの陰謀を叩き潰した瑠奈子さんが、世界の危機を救ったというのも、まんざら大袈裟な比喩ではないのかもしれない。そして瑠奈子さん自身を救ったのだということも、間違いのない事実だろう。

 それでも楽をしたいという誘惑から、人は永遠に逃れることはできない。ディスポーザーの誘惑は、それを1つのメタファーとしてなにかにつけて人間の前に立ち現れて来ることだろう。瑠奈子さんを真似て瓶詰めにして封印、なんてできない以上、人はそんなディスポーザーの誘惑に、乗るか、拒否するか、利用するか、背を向けるかしか道はない。決めるのは「瑠奈子のキッチン」を読んだ一人ひとり。答えは……。


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