ルーシーにおまかせ!

 私が私だという私こそが私であって、そうでない私は私だといっても私ではない。それは絶対の真理なはずなのに、私ではない私が私だといって、それを私ではないと否定できないのは、私が私であるという、その私とはいったい何なのかという問題に、答えるのが難しかったりするからだ。

 私とは、この私が私と思考する脳である。その脳に刻まれた記憶であり、経験である。そう断じてしまえば優しいように思えなくもないけれど、では、その脳のどこにどうやって私を体現する記憶は刻まれているのか。どんな形をして収まっているのか。誰も答えられないし、答えようがない。

 そうした細かいことを考えず、脳を唯一絶対のブラックボックスととらえることもできなくはない。けれども、そんな曖昧模糊とした非実在のものを、私と認めて良いのかといった抵抗もやはり引きずる。曖昧ではなく、私はだから記憶の積層したものだいうのなら、それを完璧にコピーして移したそれは、私なのかといった問題も一方に生まれてくる。

 そうやって発現したコピーされた私の自我は、私を私だと認識して、そして同じように私以外は私なのか、違うのかと行った思いに悩む。私とは。一条明という作家が、突然に現れ発表した「ルーシーにおまかせ!」(光文社、1600円)には、そんな、私についての思考が近未来の社会を舞台に描かれる。

 主人公はジュールという少女で、父母に愛され育って迎えた7歳の誕生日に、父母から自分の本当の正体を知らされる。なおかついっしょに暮らしてきたメイドロボットのルーシーの正体も聞かされ、驚きながらもいったい何が起こったのかを知ろうと家を出て街を彷徨う。

 ジュールが抱いたのは、私という存在がかげがえのないものなのか否かという疑問。その存在と同一の個体がかつて存在したという事実が、たとえ7年という時間をかけられ、彼女にとっては唯一の時間を過ごして来たにもかかわらず、私は私なのかという懐疑を彼女に抱かせる。一方で、彼女が追い求める存在もまた、自分探しの果てにひとつの事件を経由して、私というものを突き詰める行動に出た挙げ句に、今のジュールという少女が生まれるきっかけを生む。

 自分は自分なんだからという超然も、自分が終わればすべて終わるんだという諦観ももないのは、そうした超然や諦観を起こさせないくらい、あっさりともうひとつの私を作り出せる環境があるから。そんな環境下でいったい私の本質とはどこにあるのかを探ることで、私とはという問いかけへの答えに迫る。

 難しい話ではない。メイドロボットの中身とかが分かってそうさせられる可能性をわが身におきかけたときに浮かぶ、ちょっとした恐怖とそして身悶え。自分という存在が持つ美を、どこまでもどこまでも保ち続けられるのだったら、そうするのかという誘いへの逡巡。肉体を捨てて、心すらも移し替えて永遠を生きることが可能なら、そうするのかという思索。その時の私はいったい本当の私なのかといった懐疑。

 それらが、ルーシーというメイドロボと、ジュールという元気な少女の冒険によって描かれてあり、その行く先々でいろいろと説明もなされているから、読んでいくうちに自然と、そうした思索が強く意識しないうちに行われ、いろいろな答えが浮かんでくる。

 そんな、自分とは何かを問う主題に加え、おしゃれをすることだけが生き甲斐のビズ・キッズという存在、ネットワークによって監視され、操られている社会といった未来のビジョンに彩られてもいる物語。独特の美的感覚で紡がれた世界が、豊富なSF的アイデアとともに描かれ、かつてない世界へと読む者を引きずり込んで翻弄し、籠絡する。その力量は確か。だからこそ書いた者の正体が気になる。

 果たして最後はすべて解決したのか、それとも後に残している謎がまだまだあるのか。引きもあって続きがいつ、登場しても不思議ではない。そこでジュールは、再びオリジナルと対決するのか。そしてそれはオリジナルのままなのか。思索を要求される果てに見える、答えのないさらなる思索の海を楽しみにして、その登場を待ちわびよう。


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