牢獄のセプテット01

 人の耳に聞こえていなくても、音は世界に溢れている。人の脳が音とは認識できない震えが大気の中を行き来して、人の何かを震わせている。細胞を。あるいは心を。

 「アリス・エクス・マキナ」シリーズの伊吹契による新シリーズ「牢獄のセプテット 01」(星海社FICTIONS、1350円)は、現実とは違ってフランス共和国のパリ周辺、バスティーユ牢獄のあったあたりを中心に誕生していた閉鎖都市を舞台に、日本から赴いたスパイが活躍するサスペンスだ。

 “旋律”と呼ばれる、人の耳には聞こえないけれど、人の心を左右することが可能な音を発する能力を持った人間の存在が、世界の統治者たちの幾人かに認められていて、日本の天皇もそうした能力者のひとりとして、“旋律”の力を行使して大日本帝国を統治している。

 ところが、閉鎖都市・バスティーユにはそんな“旋律”の能力を持った者が8人もいるというから世界は戦慄した。大日本帝国もこれはどういうことかと調べるため、以前からスパイを送り込んでいたものの、“旋律”が人の心を操る力だけに、スパイたちは誰も戻ってこなかった。

 そこで白羽の矢が当たったのが、特別に耳が良いのか、鳴り響く“旋律”を聴き分けることができるという探偵の碓井玲人郎。聴けるのだったら意識しないまま操られることもなく、強い意識を持って“旋律”に逆らうことができるだろうという理由で、元老・山県有朋の直々の命によってバスティーユに送り込まれることになる。

 単身ではなく、英国から来た少女、元村アリサと共同での潜入となったのだけれどこのアリサ、プロのスパイとしての訓練も受けていなければ、探偵としての技術も保っていなかった。それどころか潜入する先のフランス語すらしゃべれないというから困ったもの。それでどうして選ばれたというと、“旋律”が通用しないという“能力”があったかららしい。

 スパイとしての自覚に乏しく、自由奔放で、お菓子が大好きというアリサをもてあましながら、それでもどうにかフランスへとたどり着いた玲人郎だったけれど、バスティーユに入るなり、謎の女性によって窃盗の濡れ衣を着せられ捕らえられ、そのまま奴隷工場へと送り込まれる。

 素早く逃げたアリサは、頼る者もなく彷徨っあた挙げ句、玲人郎が親の敵と狙いながらも逃亡し、バスティーユで“旋律”を操る力を持った支配者の1人になっていた日本人女性の外崎燈子を頼り、その伝手でリリィという同じ支配者の女性を尋ね、彼女の力を借りて玲人郎を救い出す。そして玲人郎は、潔癖さを持ったリリィが目論んでいた支配体制の転覆に協力することになる。

 耳には聞こえなくても、一種の超音波として鳴り響いている“旋律”のような音が、人間を操れるものかどうかは科学的に判断が分かれそうだけれど、高低がある音波としてだけでなく、そこに何らかのメッセージを載せることでサブリミナル的に人を惑わし、動かすということはあるのかもしれない。加えて、そうした“旋律”に大量の情報をコピーして伝播するという異能も示されて、聞こえない音が持つ可能性めいたものへの関心を誘われる。

 物語は、奴隷工場から救出された玲人郎が、権力を維持するために支配者たちが目論むさまざまな謀略をかいくぐってひとり、またひとりと仲間を増やし、味方に引き入れていく展開は、謎解きのミステリでもあり、スパイ小説ならではのサスペンスとも言えそう。

 決して裕福な場所から支配者に祭りあげられた訳ではなく、底辺から施術によって大勢の犠牲を伴いながら支配者へと引き立てられる状況が、個々の支配者たちに様々な心情をもたらす展開からは、生き様によって変化し別れる人の心身といったテーマも浮かぶ。正義を貫こうとする者、地位を失いたくないと抗う者などを見て、自分ならどうなっただろう、そしてどうするだろうと考えてみたくなる。

 心に迷いを抱え、後悔も引きずりながら生きてきたエリーという名の支配者の少年が、ずっと秘密にしていた問題を玲人郎が解決してあげる展開には、あれで玲人郎も優しいところがあったのか、それとも復讐という目的の前に利用できる者は誰でも利用しようとする冷酷さから出たものか、判断に迷うところ。むしろエリーの秘密を玲人郎とは違い直感的に気付き、それを当然と考えたアリサの察しの良さと、ある種の明晰さが気にかかる。

 もちろん、アリサがどうして“旋律”を退けられる体質なのかという理由めいたものもへの興味もそそられる。ともあれ役者も揃った中で、次にどういう玲人郎やリリィ、アリサらの手管によってバスティーユが崩壊への道を歩むのか。その過程でアリサはどういう活躍を見せるのか。玲人郎の敵討ちの行方は。その相手となる外崎燈子の本性は。見極めたい。続きを追って。


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