臨機巧緻のディープブルー

 好奇心は猫をも殺すというけれど、知的好奇心は人類を殺しもするし、生かしもする。

 「コロロギ岳から木星トロヤへ」(ハヤカワ文庫JA)で人類と、紫蘇漬け大根ならぬ時空を超越して存在する異種生命体との出会いを描いた小川一水。「臨機巧緻のディープブルー」(朝日新聞出版、1000円)とう小説でも、宇宙へと進出していった人類と、未知の生命体とのコンタクトが描かれる。

 といっても、そこには手探りすら憚られるくらいに慎重さを極める、本当の意味でのファーストコンタクトのようなスリリングさは既にない。過去に幾度か異種の生命体と接触していた人類は、相手と良好な関係を築けた場合もあれば、功名心に煽られた不用意な接触から攻め込まれ、多数の人類が命を失ってしまった場合もあったりと、様々なコンタクトを経験することで、どのように“最初の接触”を図れば良いのかを学んでいた。

 そんな人類が、スムースな推進と瞬時の遠距離への移動を可能にするテクノロジーを駆使して、宇宙を旅をした先で辿り着いたカラスウリ星系で出会ったのは、惑星の周回軌道上にあって星を守っているように艦隊を配置した異星人たちだった。戦闘能力も持っていそうなその艦隊に対して人類は、プレゼントボックスに知性があれば理解できるような情報を入れて流し、相手の出方を見ることにした。

 成立した一種のコミュニケーションから、艦隊を率いる異星人たちがバチス・シュワスヒン族と自称し、地球の鳥類のような姿をしていて、名誉と誇りを重んじる習性があって、そして海が広がる惑星を何かから守っているらしいと知り、なおかつ彼らからすぐに引き下がるようにとの警告も受ける。

 人類は迷う。バチス・シュワスヒン族らの言うことを聞いて引き下がるか、彼らに守られているらしい異種生命体とのコンタクトを計るべきかを。

 そこで頭を持ち上げる人類ならではの知的好奇心。そもそも人類の艦隊は、何のために星の海を渡ってそこまで来たのか。それは、ありとあらゆる異種の生命体を相手にコンタクトを計り、新しい知識を得ることによって好奇心を満たすことだった。地球圏におけるあらゆる事象を知り尽くしてしまった人類は、かつて好奇心を拠り所にて地球の海と大陸を周り、数々の発見を成し遂げたダーウィンの名を冠したプロジェクトを立ち上げ、学者と軍人による艦隊を組織して宇宙の彼方へと送り出した。

 地球の資源が足りなくなって、宇宙へと人類を送り出すストーリーならいくらもあるし、増えすぎた人口を宇宙の彼方に移民として送り出すストーリーも枚挙にいとまがない。そうした作品に対して、ただひたすらに知識を求めて突き進む旅があり得るのだと指摘し、そこに人類の特質があるのだと示唆するのがこの「臨機巧緻のディープブルー」。小川一水のSF作家としての炯眼が光る。

 当然のように人類は、新たなる知識を求めて、バチス・シュワスヒン族の警告を振り切って惑星ヤヤンディへと降りて、そこで魚に似た体躯を持った、地球で言うところの人魚に似た存在と出会う。そして知識を交換しようと持ちかけるものの、ルイタリ族はなぜか知識を遠ざけることを己に律して、一切の交流を拒絶してきた。

 飽くなき知的好奇心が人類を宇宙へと羽ばたかせ、さまざまな異種生命体との交流を実現させて来た。酷い出来事もあったけれど、それでも宇宙に出ていくことを止めなかったのは、知るということがもたらす価値を、可能性をとても大切に考えていたからだろう。対してヒヤヤンディ族は、知ることを極端に恐れていた。なぜなのか。ストーリーから浮かび上がってくる、そうした境地に至るまでにあった出来事が、知識がもたらす驚異というものを感じさせる。知らないで済ませれば良いこともあるのだと思わせる。

 それでも、やっぱり人類の知りたいという気持ちは止まらない。艦隊に撮影係りとして乗り込んでいたカメラマンの石塚旅人と、その相棒で知性を持って自在に喋るカメラのポーシャのペアが、誰にも優る探求心を発揮し、ちょっとした冒険を経てルイタリ族が半ば監禁しているヨルヒヤという名の女性型の人魚と接触し、さらにバチス・シュワスヒン族とも接触を果たして、それらが持つ秘密や考え方を確かめていく。

 好奇心は石塚旅人を殺しかけ、そして人類に新たな出会いをもたらし、結果として旅人を生かした。誤解と曲解から起こった、いささか不幸な戦闘を経た先で、手を取り合うことを実現させた人類とバチス・シュワスヒン族との関係からは、分かり合い認め会う大切さが立ち上る。それだけに、ルイタリ族にももっと胸襟を開いて欲しいもの。知り過ぎることは時に不幸をもたらすかもしれない。けれども、それを振り切り、乗り越えていくのもまた知識なのだから。


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