レキシントンの幽霊

 「現視」と「幻視」。同じ発音の正反対の意味を持ったビジョンを、村上春樹はその小説のなかに実に巧みに現出させる。幻の世界で起こる夢のような出来事に引きずり込んだ思ったら、次の瞬間には現実の世界で出会う、身を切るようなつらい出来事や、ほこほこと心温まる嬉しい出来事を繰り出して、読んでいる者の胸を刺し、背中をザラリと撫でる。

 長編ならまだ、現実と幻が訪れる波長が長く、それなりの心構えが出来るのだが、短編の場合はうねるような波が怒涛のごとく到来し、あっというまに現実と幻の渦巻く世界に連れ去ってしまう。そのなかで読者は、どこまでが現実でどこまでが幻なのかを、もはや考える術をもたないし、考える必要もない。ただひたすらに、村上春樹が描き出す「現視」と「幻視」の世界の間で、醒めそうで醒めない夢に溺れ続ける。

 3部にも及ぶ大長編「ねじまき鳥クロニクル」(新潮社)や、奇妙な味わいのショート・ショート集[夜のくもざる」(平凡社)のほかには、身辺を綴ったエッセイと、海外書の翻訳が主な仕事だった村上春樹に、久々の短編集が登場した。収められた7編のうち5編は、90年から91年に書かれた書籍や、ムックなどに収録された短編の再録という形になっているが、タイトルにもなっている「レキシントンの幽霊」と、最後に収録された「七番目の男」「めくらやなぎと、眠る女」は、雑誌に発表されてからはこれが初めての単行本収録になる。

 およそ5年の年月の差がある短編たちに、大きな変化が見られるかというとあまりない。ただなんとなく、違いのようなものが感じられるのみである。肌触りと言っても良いかもしれない、5年のブランクを挟んだ短編の違いとは、描写の素直さ、語り口の柔らかさではないかと思う。いささかオーバーに言えば、5年前の村上春樹の短編たちには、なにやら妙に奇をてらった所があって、日常生活に侵入して来る不思議で奇妙な出来事という設定を、無理矢理に持ち出して来ていた観があった。その最たるものが「緑色の獣」と言える。

 夫を送り出した専業主婦の住む家に、緑色の鱗に覆われた獣が侵入して来るが、残酷なまでのストレートな主婦の悪意によって、獣は溶融して消えてしまうというストーリー。そこには、およそ現実世界との関わりが感じられない。主婦を過程にしばりつける慣習として獣をとらえ、獣にぶつける悪意を主婦の心の叫びととらえるといった試みがあると言えば言えるが、それにしては教訓めいたものも、啓蒙する意思めいたものも感じられず、ただ世界を異化する目的として、緑色の獣が持ち出されたとの印象も拭いきれない。

 「氷男」もまた、現実的という意味からほど遠い小説だろう。冷たい肌を持ち、手には霜の降りている「氷男」と結婚した主婦が、退屈しのぎに南極に旅行に行くというストーリーだが、戸籍を持たない「氷男」が、どうしてパスポートを取得できたのかというツッコミは別にして、「氷男」という非現実的なキャラクターといい、南極から出られないことを知った主婦がポロポロと涙を流すラストシーンといい、そこには計算しつくされた上での「異化作用」が、働いているように思えて仕方がない。

 5年たって発表された短編群も、5年前と同様に奇妙な設定を持った小説だが、知り合いの家に泊まって幽霊に遭遇する表題作の「レキシントンの幽霊」といい、遊んでいるうちに波にさらわれた友人の姿が心に傷を作り、やがて年輩となって傷との折り合いをつけることに成功した「七番目の男」といい、耳が聞こえない従姉妹を病院に連れていき、そこで大昔に入院していた友人の彼女が話していためくらやなぎの話を思い出す「めくらやなぎと、眠る女」といい、不思議で奇妙な出来事に登場人物が遭遇する設定ながらも、そうした設定を無理に納得させようとする押しつけがましさがあまりなく、スムーズに「現実」から「幻実」の世界へと移行し、また「現実」へと戻って来れる。

 7編のなかでは、「村上春樹全作品1979−1989」に収録されている「沈黙」と「トニー谷瀧」の2編は、幻よりも現実に、「幻視」よりも「現視」の方にウエートがかけられた作品のように思う。とりわけ「沈黙」が繰り出すストレートなリアリティーの重さは、現実の裏返しとして虚構を描き、そこから現実を見つめ直そうとしている他の短編たちに混じると、かえって異質な感じを受ける。

 仲間外れにされて落ち込むものの精神に支柱を見いだして立ち直り、抜きがたい精神の強靭さと、癒しがたい精神への傷を負った男の独白で綴った「沈黙」は、いじめの先陣に立った「青木」の記憶を持つにしろ、いじめに耐え抜いた「大沢」の記憶を持つにしろ、そしてその両方の記憶を持つにしろ、看過できない重さを持って読む者を打ちのめす。村上春樹はどうしてこの短編を書いたのだろうか。「現実」と「幻実」の間に引きずり込んで弄びたいといった意図がかけらもない「沈黙」を書くことで、「現実」の厳しさか何かを訴えたかったのだろうか。

 あるいは今生きている「現在」を「現実」ととらえ、経験している時は長く果てしなく続くように思われていたのに、通り過ぎてしまえば楽しかったこと、辛かったことがギュッと凝縮されて、そこから溶けだした甘美な思い出をなめるなり、突き出した辛辣な刺に突き刺されるなりし続ける「過去」を「幻実」ととらえて、その間に読む者を引きずり込もうとしているのかもしれない。「現」から「幻」への変化を、目や耳から受け取らせるのではなく、心のなかからすくい上げて感じさせる。だからこそその重さが、直接精神へと響くのだろう。

 「沈黙」のような作品が、何編も収められていたら読了後には立ち直れないほどの衝撃を受けていただろう。これが3番目に入り、両脇を90年代の奇妙な味わいを持った作品が挟み、冒頭の1編と最後の2編を、新しい、気楽に異世界に遊ぶことの出来る作品を持って来た配列の妙。村上春樹は短編集全体を通しても、はやり「現視」と「幻視」の世界の間に読む者を引きずりこんで、翻弄していたのである。


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