pulp1

 雇い主と雇われ人の関係が色濃い地方の企業城下町なり、幕藩時代の主従関係が今に残る城下町で起こる、企業の創業者一族なり旧家の跡継ぎなりといった支配者層の専横に、肉親を失って怨みを抱いた市民なり、都会から来たジャーナリストなり流れ者の快男児なりが挑み悪事を暴いては、支配者層の崩壊に一役買う。

 そんな設定を持った小説が、昭和の時代に数々書かれたもので、横溝正史なり森村誠一なり西村寿光なり大藪晴彦といった面々の、ミステリーなりハードボイルドといった作品の中に、そんなモチーフを持った作品の1つや2つや3つ4つは含まれていたと記憶する。もっともこれらの大半は、古いしきたりが残っていたり、企業絶対の風土が醸成されていた時代が舞台となっていた。しがらみもほつれれば企業の力も弱まった現代を舞台に、こうした設定が果たしてリアリティを持ち得るのか? そんな疑問も浮かぶ。

 ライトノベルの世界だったら、権力者の側に魔物なり妖怪といったバックを付け、反旗を翻す側にそれを討伐するために古くからの力を受け継ぐ一族なり、天使から力を授けられた少年なり少女といった、傍目には奇想天外ながらも若い読者には胸躍る設定を加えることができる。そして伝奇アクションなりファンタジーの形を取って物語が成立する。

 けれども森橋ビンゴの「plup1」(ファミ通文庫、600円)は、ライトノベルでありながらも超常的な設定は存在しない。現実世界と同じ法則に法律で支配された社会で起こる出来事を描こうとした内容であり、そのために設定には現実世界から逸脱しないリアルさが要求されてくる。

 社会的権力者による陰謀に、一部の市民が立ち上がり立ち向かうという、というのが「pulp」のメーンストーリー。妻を事故で失ってから抜け殻のようになって生きている元ジャーナリストの男。その娘として育った少女は、父親の暴力に耐えつつ自分を傷つけては生きている感触を得ていたが、そんな暮らしを更に脅かす事態が街には起こりはじめていた。

 増える通り魔事件に荒れる社会。歯車がどんどんとズレていくような日々の中で、少女も通り魔に襲われ死にかけたところを、刀を持った1人の少年に助けられる。すわ伝奇的なヒーローの登場か、街に巣くい人心を蝕み始めた悪霊を討つたために使命を帯びて現れた陰陽師の末裔か、と誰もが思った期待をスルーするかのように物語はリアルを離れずに進んでいく。

 少年は陰陽師ではなく魔法使いでも退魔師でもエクソシストでもない普通の人間。もちろん助けられた少女にも秘められた力なんてものは存在せず、そんな社会や権力に対して無力に等しい2人が、仲間を得て社会を蝕む悪に戦いを挑んでいく。ライトノベルには意外とも異例ともいえる展開だ。

 権力とはこれでなかなかやっかいなもので、密かに反攻しようとしても遠からず察知され、捕まるなり排除されるなりして社会的に抹殺される。だからハードボイルドの世界では外国帰りの元傭兵、自衛隊の秘密部隊を経験したコマンド、身内に権力者なり権力機関を背負った風来坊といった”条件”を加えて、その活躍を邪魔させない。あるいは邪魔され滅びていく哀しみを描いて、横暴な権力への読者の憤りをかきたてる。

 ライトノベルの世界ではそうした”条件”に内閣直轄の悪を退治したり悪霊を調伏する機関なりを設定して、リアルの枠組みを広げようとする。もしくは年齢を下げて児童文学にして、「まちのあくにんとたたかうただしいぼくら」といったレベルで読む子どもたちの納得を誘う。もっともこの手段は、ある程度社会の仕組みに感づいたティーンを相手のライトノベルではもう採れない。

 現実世界を舞台にした、リアルな人々による物語となっている「pulp」が、物語としてのリアリティを維持しながら世界を構築しているのか。読む人によってはそこに嘘臭さを見て投げ出してしまうかもしれない。

 もっとも作者とてそうしたことへの理解は決して無いわけではないだろう。その上でリアルな社会を描きつつリアリティを持った勧善懲悪のドラマを描くという、思い切り力量を試されるジャンルに挑んだのだろう。その心意気をまずは買う。そしてこれからの展開に期待を抱く。

 そこには悲しいエンディングが待っているのかもしれないし、どこかで幸運が起こって大団円へと向かうのかもしれない。権力装置による包囲網がじりじりと社会に迫り脅かしつつあって、にもかかわらずそれに誰も反旗を翻せなくなっている現代だからこそ、そうした状況を打破する道筋を、単なる不満のはけ口ではなく未来を取り戻すための道筋を、「pulp」によって若い人たちに与えて欲しいと切に願う。


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