パドルの子

 願ったところで世界は変わらない。駆けっこが苦手で運動会でビリになるのが嫌だから、明日は雨が降って欲しいと願っても雨なんて簡単には降らない。そもそもが運動会なんて行事があるからいけないんだと思ったところで、世界から運動会というものが消えてしまう訳でもない。存在しているものはずっと前から存在していて、そしてこれからもずっと存在していく。それが世界のあり方。僕たちが生きている。

 けれどももし、運動会というものが前は存在していなくて、そして駆けっこが得意な誰かがそういうものがあって欲しいと願ったから、運動会が存在するようになったのだとしたら。なおかつ雨というものが存在していなくて、運動会が存在する世界になって後に、それが中止になるために必要なものとして、駆けっこが苦手な誰かによって願われたものだったとしたら。

 願望によって書き換えることができる。そして書き換えた本人だけが何が変わったかを知っている。そんな不思議な現象が起こり得ると知ったら、あなたはいったい何を願うだろう。そんな問いかけを放って来る物語が、第6回ポプラ社小説新人賞を受賞した虻川枕の小説「パドルの子」(ポプラ社、1400円)だ。

 水無月中学に通う2年生の少年・水野耕太郎が昼休みの時間、取り壊しが目前に迫っている旧校舎の屋上へと出る階段の踊り場にいたら、サバーンという水の音が聞こえてきた。のぞくと屋上に水たまりが出来ていた。泳げるくらいに大きなもので、そこてバタフライで泳いでいる人がいたから驚いた。

 学校でも評判の美少女という水原さんで、どうしてそんな場所に水たまりがあって、そこで泳いでいるのか水野は分からなかった。水原さんが言うには、その水たまりに入って潜る“パドル”という行為をしていると。少し不思議なことが起こるらしい。誘われて水野は水たまりに潜ってパドルをして、上がって外に出て公衆電話に100円玉を入れると、50円玉と10円玉でお釣りが出るようになっていた。

 以前の水野の記憶では、公衆電話に100円玉を入れてもお釣りなんて出なかった。だから水野は変化に気付くことが出来たけれど、水原さんは公衆電話でお釣りが出るのは当然といった雰囲気だった。というか、このご時世にお釣りを気にしながら公衆電話で連絡を取るとはいったいどういう状況あろう。水野にはそれが当たり前のことだったけれど、水原さんの口からは「ケータイ」う単語が出て水野を奇妙な気持ちにさせた。

 何かが前とズレている。あるいは前からズラされている。誰かには自明だけれど誰かには違和がある変化が、屋上にある水たまりで“パドル”をすることで起こるらしい。それはなぜ? はっきりしたことは分からないけれど、そのことに気付いた水原さんは以前からパドルを行っていた。そこに水野も加わって、あと1週間と少しだけ存在している旧校舎の屋上へと通い始めた。

 自分が世界を変えられる。自分で世界を好きなように出来る。それはとっても魅力的なことで、そして恐ろしいことでもある。水野の担任は大森といって、教師でありながらも学校に対してある種の権力を持っていて、授業をサボるような水野を目の敵にして、虐めともとれることを繰り返す。水無月中学の卒業生で、かつては野球部に所属していた大森は、部員が自殺を起こした際にひとり記者会見の場に立ち、詫びを言って正直だと喝采を浴びた。そのことも今に影響を与えて、大森を不可侵の権力者にしてしまっている。

 もっとも本当に大森は英雄なのか、といった懐疑もあって、それがパドルの俎上に載った時、世界は変わって水野の担任は大森から自殺したはずの小林という人物に変わった。それは素晴らしいことなのかもしれない。けれども恐ろしいことでもある。大森が得たはずのある種の栄誉はどこへ行ったのか。そもそもその存在は保たれているのか。ひとつのことを願ってそれが叶えられた時、別の何かが喪われている可能性に水野は気付く。実際にそうした事態も起こり始める。

 すべてを叶えることなんて不可能だ。誰かにとっての最善を目指せば誰かにとっての最悪が起こりえる。それでも選ぶべきか、それとも選ばざるべきか。人生において絶対的に不可逆の時間というものの岐路に立って、ひとつだけ選ばなくてはならない思春期の少女や少年に、大いに迷えと促しつつも懸命に考え抜いて道を探れと諭す、そんなメッセージが感じられる物語だ。ラストシーンで突きつけられる寂しさ、浮かぶ哀しさもあるけれど、それを越えなければ人は未来を選べない。だから決めよう、覚悟を。そして歩もう、選んだ道を。

 「パドルの子」で素晴らしいのは、誰かによって選び出された世界がとてもユニークなこと。その世界では雨が降らず、代わりに水は水源と呼ばれる地球に空いた穴からわき上がってくる。海から海岸へと迫り川を遡って山上へ。そうやって地球の水は保たれている。元からそうだったのか、それとも雨を厭う誰かのパドルによって変えられてしまったのかは分からない。こうして僕たちが生きている世界とは大いに違う。けれども。

 この世界が本当にずっと雨が降り川を流れて海に溜まり、蒸発して雲となり雨として降ってくる繰り返しだったのだとは限らない。誰かによってパドルされただけかもしれない。だとしたらいつかまた、水が海からやって来るようになるかもしれない。それとも空から飛行船によってまかれる世界へと、気付いたら変わっているのかもしれない。

 世界は本当はどんな姿をしているのだろう? そこはどんな風に営まれているのだろう。現実とは異なる世界の有り様を想像し、計算して構築する展開はSFに近い読み心地。その世界はどうで、別の世界ならどうなのかを想像したものを突きつけられ、SF的な思考実験を味わいつつ、自分だったらその世界がどうなっているかを考えてみても良いだろう。


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