ぽっぽや
鉄道員


 荒木経惟が死んだ妻の陽子を写真に撮って「冬の旅」としてまとめたとき、荒木とも陽子とも長く親しい友だった篠山紀信は、お棺に入った陽子の写真を指して「お涙ちょうだいだよ」と強く非難した。「死」はそれだけで人の涙を誘う。ましてや親友の妻であり自分にとっても親友だった女性の「死」だ。涙という表層的な現象以上の衝撃を、きっと篠山に与えたことだろう。そしてあろうことか、その悲しみを写真に撮り、写真集としてまとめようとした荒木の行為に「商売」っ気を感じて、激しい怒りを覚えたのだろう。

 後に荒木は、篠山との対談を振り返って、「おれは商売って言われて頭へきたんだね。嫌なんだよ、だって、おれ、商売と思って、写真を撮ったことはなかったもんな。自分の妻を撮って。それで死だよ」(「アラーキズム」370ページ)と、彼にしては珍しい強い怒りを示している。篠山が感じたようには、荒木は陽子の「死」を利用して人々の関心を買い、涙を誘うおうと思ったわけではないようだ。

 お棺に入った陽子の写真は、それ1枚だけなら篠山も指摘する「単なる陽子さんの死」であり、「彼女の死ということの悲しさが勅裁に伝わってくるだけ」の写真に過ぎない。だがこの写真が、前半に荒木と陽子との出会いを撮った「センチメンタルな旅」を収め、最後の最後に雪のバルコニーで跳ねる「チロ」の写真を配することによって、「生」は「死」の始まりであり、「死」は「再生」への序章であることを示す重要なパートとして、まさしく「生きて」来るのである。

 「死」はあらゆる創作者にとって取り扱い要注意のテーマだ。「死」を単に涙を誘うだけの道具立てとして利用するなら、そこには必ずや「お涙商売」の臭気が漂う。「死」にまつわる悲しい描写に思わず涙を流した人も、それが誘い導かれた涙だと気づいて、後味の苦さをかみしめることだろう。だが「死」を感情の純度を写す鏡として用い、対象への思い入れを再認識させる現象として用いるのなら、「死」を対比としての「生」を感じさせ、「新生」への道筋を指し示す要素の1つとして描くのなら、涙は自然とわき起こる。その後味は酸っぱくて甘く、そして美味しい。

 浅田次郎の短編集「鉄道員(ぽっぽや)」(集英社、1500円)にも、そんな「死」にまつわる甘酸っぱい涙を味わわせてくれる、珠玉の短編が幾つか収められている。例えば表題作の「鉄道員(ぽっぽや)」では、仕事に追われて構ってやれずに娘を死なせてしまった駅長が、間もなく路線が廃止となってしまうある夜に、不思議な少女と出会って不思議な夜を過ごすエピソードが綴られていく。

 どこに帰る訳でもなく朝になると消えてしまう少女を、初老の「ぽっぽや」は誰とも問いつめずに、いっしょにお茶を飲んだり食事を採ったりする。やがてすべてが明らかになった時、それが予定調和の結末だったとしても、人は滲む涙を抑えようと天を仰ぐことだろう。「ぽっぽや」の職業的な使命感が結果的に娘を死なせてしまったことは、それだけで涙を誘うエピソードであるし、雪の中で息絶えた駅長の死も、近代化の波に乗れなかった古い「ぽっぽや」への同情を誘い、涙を誘わずにはおかない。だがしかし、パーツのように配置された「死」のエピソードによって読者は泣く訳ではない。過去の「死」と現代の「死」が、幸福の中で重なり合った一瞬に輝いた幸福の光に打たれて、悲しみではなく歓喜の涙を流すのだ。

 「角筈にて」で語られる「死」は、長く商社の幹部として活躍しながら、1度の失敗で本社を追われてブラジルへ放逐されようとしている1人の企業戦士にまつわる「死」と「新生」のエピソードだ。早くに母親を失った彼は、父親と二人で暮らしていたが、父親は間もなく外に女性を作り、彼を角筈のバス停に置き去りにして蓄電する。伯父と伯母と2人のはとこと暮らしながら、彼はやがて商社へと入り、はとこの女性と結婚して所帯を構え、企業戦士として働き尽くめに働いた。

 ブラジル行きが決まった彼は、妻と最後の東京の1日を楽しんだ帰り道に、かつて角筈と呼ばれた新宿・歌舞伎町あたりを車で通りかかって、そこに別れたあの日そのままの、麻の背広にパナマ帽を被ったモダンな格好の父親を見つける。長く自分は捨てられたのではない、ただ離ればなれになってしまっていたのだと信じていた彼に、父親が告げた言葉はおよそ親愛の情とはかけ離れたものだった。けれども彼は、もう子供ではなく仕事にくたくたになってブラジルへと落ちていく彼は、父親の言葉を聞いて怒りではなく癒しの涙を流せるまでに、しっかりと大人になっていた。

 あっさりと切り捨てられる企業戦士の悲しみや、懐かしい場所、親しかった人が次々と消えていってしまう悲しみが全編に満ち、そこに父親の「死」まで絡んで本来ならば辛く重い話にしかならないこの「角筈にて」が、不思議とさわやかな読了感を与えてくれるのも、企業戦士の「死」、思い出の「死」、そして肉親の「死」といったものをストレートに繰り出して読者を圧倒するのではなく、ちょっとした心の機微をとらえ、琴線をそっと弾くように、優しく柔らかく「死」を扱い、「死」に直面させた後に、彼が人間として「新生」するエンディングを用意しているからではないだろうか。

 死んでしまった祖父が甦り、自分を見捨てようとした夫とその家族の奸計から守ってくれる「うらぼんえ」もそう。形式結婚した中国の女性が、1度も会ったことのない自分を優しい人だと感謝する手紙を残して死んでしまった「ラブ・レター」もそう。ともに、「死」という人間が無条件反射的に涙を流してしまうような主題を織り込みながらも、「死」そのことに人を感動させようとはしていない。むしろ「死」を通じて顕在化して来た人を愛すること、人から愛されることの素晴らしさに気づかせてくれる。そこに読者は感動を覚えて涙するのだ。

 涙腺を擽ってやまない浅田次郎の短編を、その巧みさ故に「お涙商売」と斬って捨てるスレっからしの本読みが、多く出はしないかと気が気でならない。真っ当なものを真っ当を誉めることがカッコ悪いことだと信じ、すべてを皮相的にしか見れない人種が増えているのも事実だからだ。けれども「鉄道員(ぽっぽや)」に収められた短編は、皮相的に見ることさえも恥ずかしくなるほどの輝きに満ちている。まずはページを繰られよ。そして涙を流されよ。与えられ、押しつけられる「死」と「憎」によってではなく、内部から沸き起こる「生」と「愛」への喜びに満ちた、涙の甘露に酔えるはずだから。


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