ポオの館


 自分が小心者のせいか、人前で大言壮語する人間をどうも信用できない。「キマイラ」シリーズのあとがきで「この物語は絶対に面白い」と書く夢枕獏さんは、デビューの頃からずっと読んでいてその面白さに納得していたから別として、初めて読む作家があとがきで自著を喧伝する文章を書いていたら、ちょっとばかり疑ってみるに越したことはない。

 「『純文学』が衰えたのか、最近は推理小説がよく読まれるようである。しかし長編に限って言えば、海外のものを含めても、二回読みたい(二回読んでも面白い)という推理小説はほとんどない」。村神淳という作家の「ポオの館」(鳥影社、1300円)という作品のあとがきで、作者はこう言って最近の推理小説状況に冷ややかな眼差しを送る。

 続けてこうも言う。「たぶん小説の面白さは『言語表現の質の高さ』と『構想(物語のすじ)』によって決まるのではないだろうか」「二回読みたい(二回読んでも面白い)作品が無いのは、たぶん『構想(物語のすじ)』がつまらないからであろう」。自分の作品に自信がなければ、名指しこそ避けているものの、こうまで他の作品を貶すことはできないだろう。

 ならば、という訳で「ポオの館」を読んでみた。あらすじは次のとおり。

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 仮想の視覚を作り出すヘッドセットと、仮想の痛みを体に与えるボディースーツと、仮想の感覚を手につたえるグローブとで構成されている器機によって、人々に真に迫ったバーチャル・リアリティを見せることの出来る技術が開発された。ポオの「陥穽と振り子」をモチーフにしたそのバーチャル・リアリティは、寝台にくくりつけられたままで上からゆっくりと下がってくる振り子に、体を切り刻まれるというシナリオになっている。

 事前に飲まされる漢方薬の効き目もあって、参加者は仮想現実であることをいつしか忘れ、振り子によって与えられた痛みを感じ、大量の出血におびえ、やがて自分が死んだことを確信する。しかし装置が活動をやめ、器機を外されたとたん、自分が無事でピンピンとしていることが解る。

 ところが、香港から装置の評判を聞きつけて来日したコンピューター会社の副社長が、バーチャル・リアリティーを見ながら死んでしまう。いったんはショック死と判断されたが、警察に届いた手紙には殺人であるとの告発が書かれており、これを読んだ警部が、コンピューターに詳しい29歳の民間人の青年をパートナーに、事件の謎に挑んでいく。

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 なるほど、バーチャル・リアリティを実現させる装置の発想は、柾悟郎の「邪眼」などで描写されているものと似ているが、現実のテクノロジーにより近くなっていて、いかにも実現可能なように描かれている。岡嶋二人の「クラインの壺」よりも、たぶん現実に近い。だが「クラインの壺」が、現実と非現実とが曖昧になった世界に生きていく不安な心理を見事に描き出していたのに比べて、「ポオの館」のバーチャル・リアリティは、あくまでもショック死という状況を作り出すためのだけの道具にすぎない。

 だいいち事件そのものはショック死ですらない。中盤までの、バーチャル・リアリティーが作り出す妖しい世界に感じ入っていただけに、後段で犯人のどこに動機があるのか解らない犯罪が明かになるに連れて、バーチャル・リアリティの役割がどんどんと忘れ去られていくのが不満で仕方がない。

 そもそも、何故に「ポオ」なのか。作者がポオの作品を好きなのは解る。「ポオの作品が今でも生き続けるのは、『構想(物語のすじ)』の特異さに加えて『言語表現の質の高さ』があるからだろう」という作者が、ポオの作品の特異なモチーフを自分の作品に採り入れたかったのだろう。しかし作者の思い入れが、「陥穽と振り子」のバーチャル・リアリティを作り出した科学者にまったく反映されていない。

 「『ポオの館』はバーチャル・リアリティ(仮想現実)という現代のテーマに、ポオの面白さを生かせないものか、実験したものである」。「バーチャル・リアリティー」と「ポオ」という、魅力あふれる実験道具をいくら並べたところで、使う順番や使い方を間違えたら、成功する実験だって成功しない。

 唯一、バーチャル・リアリティを体験していた探偵役の青年が、恐怖におののき(仮想の)臨死体験をするあたりの描写に、バーチャル・リアリティの持つ「甘く危険な香り」を感じさせる物があったと評価する。仮想の世界で勇者となり、仮想の世界の彼女に恋をする今の自分たちの世代にとって、仮想と現実との見極めを意識させる小説が、何に増しても必要だからだ。


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