EXPENDABLE
プラネットハザード 惑星探査員帰還せず


 皆川博子の「死の泉」で読んだのだったかもしれないが、ヒトラーが率いた頃のドイツ軍は確か、身長や容姿といった要素も結構、出世に勘案されたような話を聞いた事がある。事実かどうかは調べる必要があるとして、優生学的に優れた人種を生み出そうと、人間を使った大規模な実験まで行っていたらしい第三帝国時代のドイツなら、ありえる話のような気がする。

 容姿の美醜が、戦略の立案であっても実際の戦闘であっても戦争を遂行する上でハンディとなるとは思えない。さすがに目が見えない、耳が聞こえない、片手がない、両足がないといったハンディを持つ人ならば、いざ戦争となると不便を被ることもあるだろうが、それとて技術が進んだ未来ならば、視力や聴力を補うためのバイオなりメカニカルなリカバリーも可能となるだろう。義手義足の類なら人間が持って生まれた肉体以上の能力を持たせた物すら登場する可能性だってある。

 ましてや顔にある痣(あざ)が、戦争の能力に大きな差となって現れるな事など絶対にない。にも関わらずカナダの新鋭作家、ジェイムズ・アラン・ガードナーの「プラネットハザード」(ハヤカワSF文庫、関口幸男訳、上下各620円)に登場する主人公、フェスティナ・ラモスは、顔の右半分を覆ったポートワイン色の痣があるため、惑星探査要員部隊という部隊のメンバーにならざるを得なくなっている。未踏の惑星へと降り立ち、現地に生物がいないかを確認し、ファーストコンタクトを行う仕事だが、人間を襲う生物や病気・災害などと常に直面している職務だけに、宇宙船で艦長に次ぐ地位を得ているとはいっても、だれもがあこがれる仕事ではない。

 というより決して誰でもなれるという仕事ではない。惑星探査要員部隊のメンバーは、顔に痣のあるフェスティナ・ラモスのほかに例えば、顔面が一部失われたままで成長したがために一部が欠けた状態に見える男とか、腕が肘の途中で終わりそこにヒレのような指がついている男とか、手足に水掻きのある男といった、一般標準的な容姿から外れた「いうなればあまり写真うつりのよくない者たち」(13ページ)ばかりとなっている。

 もちろん科学に医学の進んだ未来、彼ら彼女らは十分に容姿も肉体も一般の人々と同じ形に修正することができる。現に損傷を持ちながらも惑星探査要員になるための知能や意志力を持ち合わせてない人間には、そうした障害の矯正が施されるという。だが惑星探査要員部隊に入れられた者は、そうしようとしても国家がそれを認めない。フェスティナ・ラモスも幾度となく病院へと足を運んで痣を消し去ろうとしたが、その旅に医師から無理だと言われ、予約をキャンセルされて惑星探査要員でいることを余儀なくされた。

 どうしてそういう仕組みが出来たのか。「肉体的に魅力のある者が命を落とした場合、同僚要員たちはその死を深刻に受け止めた。(中略)だが、さほどの評判も人望もなく,とりわけ醜い人物が犠牲者となった場合、多少の支障は生じはしたものの、任務の遂行にたいした影響はなかった」(13ページ)という説明は、冗談でなければハンディキャッパーに対する著者の見方に懐疑を覚える。

 考えうるにおそらくは、そういった冗談とも悪夢とも尽きない状況を描写することで、能力ではなく容姿が職務への差別を生み出していることの滑稽さ、不思議さをあぶり出そうとしたのだと言えるだろう。それは物語の冒頭から決意を持って語られ、途中の様々な描写でも示され、最後には達観の域へとたどり着くフェスティナ・ラモスの痣への考え方を見ていけば、著者自身が決してハンディを非とは捉えていない事は解る。ヒトラーのドイツ軍とは違うのだ。

 さて物語の方は、そんなフェスティナ・ラモスが誰も帰還した事のない謎の惑星、メラクィンへと派遣される所から始まる。聞けばその惑星は、老齢化が進んで若返りのきかなくなった提督らを送り込み、間接的に始末する惑星とされており、フェスティナ・ラモスはスーという、いささか風変わりな言動をする老提督を連れていく大義名分を持った、一種の”消耗品”として惑星へと送り込まれることになった。

 メラクィンに降りた瞬間にいったい何が起こるのか、誰も帰還できないのは未知の病原菌か巨大な生物に襲われたからなのか。それとも単なる通信不能状態に陥るだけなのか。そんなハラハラ感が上巻を途中まで引っ張るのは事実だが、物語は上巻のうちにメラクィンへとたどり着き、そこでの様々な冒険が繰り広げられることが決まっているから、死への恐怖は当然の事ながら杞憂(きゆう)に終わる。

 これを了解した上で読者は、どうしてメラクィンが未だに生還率ゼロの星であり続けるのか、原住民として現れた全身がガラスのように透明な少女はいったい何者なのか、そもそもこの星とはいったい何なのかが明かされていくプロセスを堪能し、醜いものを選り分けて生きている人類が、実はより高次な生命体が作る「種族同盟」によって知的か非知的によって選別されている宇宙でびくびくしながら暮らしている構図に、滑稽さを覚えて苦笑し差別だらけの現代を自省するのだ。

 それにしても、知的か非性的かが重要な要素となって人類のみならずあらゆる種族を縛っている宇宙で、容姿への差別がどうして非知的な行為として糾弾されないのかが今一つ納得できない。その当たりは差別ではなく特別なんだと主張し、特権だとまで言って言い抜けているのかもしれない。名目と実際が異なるあたりは、福祉といって隔離する現代社会の風潮に通じる部分もある。

 知的か非知的かの基準も極めて「人類的」なあたりに、ファーストコンタクト物のように価値観の相違が生み出す悲喜劇を味わうといった醍醐味がなく、緊張感にあふれたハードSFとしての興も削がれる。が、一方で宇宙を飛び回る惑星調査員といった存在の、どこにいっても「わたしは、種族同盟に所属する知的生命体の一市民です。どうぞよろしく」と挨拶する、共通な認識の上に立った”知性”を押しつけてしまう唯我独尊が醸す滑稽さに笑う楽しみ方は出来る。

 あるいはいろいろな惑星を回ってそこで起こるバラエティーに富んだ出来事に夢を馳せる、古き良き冒険SFとしての面白さを見ることも可能だろう。そうした点では重たいテーマを含みながらも、一級のエンターテインメントとして楽しめる事は請負だ。著者には同じ世界を舞台にした作品が多くあるようだが、第一作目のスタイルももそのままに、年代記のような硬質なトーンではなく、スペースオペラにも似た大宇宙を舞台にした冒険活劇が描かれいたら嬉しい。期待して次作の刊行を待ちたい。


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