銀河博物誌1
ピニェルの振り子

 森を燃やし、大地を乾かし、海を濁らせ、空を淀ませる人間を地球にとっての害悪とみなす考えがある。急激に増殖しては、その母体の命を脅かす癌細胞に例える向きもある。このままでは地球は人間によって滅ぼされるだろう、いやいやその前に地球が人間を滅ぼすだろう。そんな地球と人類との対立の構図が事あるごとに描かれ、人類の横暴さを諌めようとする。

 だが、本当に人類は地球の敵なのか。人類が増殖し、地球を貪るようになったそもそもには、地球が人類を生みだし、知恵を育ませたことがある。横暴過ぎる考え方かもしれない。母体を殺して自死へと至る道をひた走ろうとしている人類は、やはり癌細胞と同列なのかもしれないが、なればこそ問いたい。神はなぜわれわれを創りたもうたのか、知恵を与えたもうたのか、と。

 人類が生まれなかったら、そして知恵が育まれなかったらこれほどまでに増えはしなかっただろうし、地球も痛まなかっただろう。「自然の摂理」の中に、地球も人類も宇宙すらもが包含されるのだとしたら、人類の地球を蝕む暴走にしか見えない所業にも、地球にとって、あるいは宇宙にとって何かしらの意味があるのではないか。

 野尻抱介が満を持して送り出した新シリーズ「宇宙博物誌」のトップを飾る「ピニェルの振り子」(朝日ソノラマ、495円)でも、そんな人類の「作為」が果たして横暴なのか、それとも自然の摂理の一端なのかが問い掛けられる。政府がか非政府組織から哲学者科学者文学者を総動員しても解けない命題、絶対の正解は出されていない。それでも1つの道が示されていて、読む人に未来をどう描くかを考えさせる。

 舞台となっているのは、産業革命を経て近代につながる科学力、工業力を手に入れ始めた19世紀の人類が、「プレーヤー」と呼ばれる人智を超えた存在によって、地球から宇宙のさまざまな場所へと運ばれてから100余年が経過した時代。そこでは貴族たちの間に様々な珍しい生物、鉱物を集めては分類し研究する博物学が尊ばれ、鉱山から発掘されたブラックボックスのような機関「シャフト」をコアにした宇宙船を駆って、星系を超えた採集隊が派遣されることもあった。

 博物商を営むラスコーが、貴族で蒐集家のレグラスから依頼されたのも、珍しい蝶を産出する惑星ピニェルに行って生物を採集して来ることだった。どういう理由からか、ピニェルが滅びることを知っていたレグラスは、ついでにピニェルを取りまくリングの調査も依頼。これが後にピニェル全体の命運を左右する事態へと発展することを、ラスコーはまだ知らない。

 無口ながら腕前の良い画工の少女、モニカを連れてラスコーはピニェルへと赴く。調査に出たモニカに、現地で蝶を採取する親方の下で働く少年、スタンが一目惚れしてしまい、ラスコーが乗って来た船に密航してしまう。お約束どおりに船外、すなわちラスコー一行が調査に赴いたリング付近の宇宙空間へと遺棄されるスタンだったが、そこでかつて見たことのない生物に巡り会ったことから、スタンは命拾いしただけではなく、ピニェルという星の秘密、さらには人類の存在意義を問う事態に直面することになる。

 500年というスパンを持った宇宙的スケールの、まさに「振り子」と言うべきギミックにただただ驚く。その上に形作られたピニェルの生態系への考察も面白い。そして思う。数万年もの時間を経過して固まったピニェルの生態系に、移植されてたかだか80年のピニェルの人類が果たして関与できるのか。地球に生まれた以上、地球と人類は一蓮托生だと言って言えなくもない。だが、ピニェルの場合は違う。明らかによそ者の人類にピニェルの生態系を破壊してまで生き延びる権利はあるのだろうか。

 どうやら何かしらのキーマンであるらしいレグラスの、独善的ながらも明解な示唆が果たして正解と言えるのかどうかは分からない。ただ、人類という独善的で横暴な振る舞いをする生命が存在し、「プレーヤー」によって様々な星系へと移植された物語世界の”事実”から、その独善的で横暴な振る舞いに、何からの意味があるのではないかという疑問だけは浮かび上がる。

 もちろん意味などないのかもしれない。超越的な「プレーヤー」にとって、ピニェルが滅びることも、人類が滅びることもさしたる違いがないのかもしれない。悠久の宇宙の歴史において、生命の存在も「プレーヤー」の所作も、とるにたらないことなのかもしれない。けれども、そんなことを考えられる知恵を人類が持ってしまったのは、厳然たる事実だ。諦めて滅びに身を任せるか、諌めて共栄の道を探すかを考えられるのも知恵の賜。その点で、やはり意味があるのだと思いたい。

 「銀河博物誌」で書き手が本来テーマとしたいのは、1話1話で繰り出される宇宙規模のギミックだったり、モニカという無口で無機的ながらも内在する魅力にあふれたキャラクターの活躍だったり、人類の危険も自然保護も無関係に突き進む探求心だったりするのかもしれない。「プレーヤー」の提示も、そんな状況を作り出すための単なる舞台装置なのかもしれない。それだけでも存分に面白いSF作品になると思う。

 けれども可能ならば、「ピニェルの振り子」で見せたような、人類の存在意義を問うような深淵なテーマにも触れていって欲しい。広い宇宙に揉まれ、視野が広がり心豊になった人類には、現実の地球に生きる人類には浮かばない、地球との付き合い方が見えるだろうから。


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