オズの魔女記

 「むかしむかし」で始まり「めでたしめでたし」で終わる「昔話」のストーリーを、なんの疑問も抱かずに受け入れていた昔が懐かしい。人間の桃太郎が桃から生まれたのはなぜ? 金太郎が熊と相撲をとっても負けなかったのはどうして? 一寸しかなかった一寸法師が打ち出の小槌で大きくなったのはおかしくない? 今になって挙げればつきない疑問の数々も、ただひたすらに物語の面白さを追っていき、結末のカタルシスに酔っていた昔は、ほとんど気にならなかった。

 世界が決しておじいさんとおばあさんとヒーローと鬼だけでできていないことを知ってしまうと、「むかしむかし」で始まり「めでたしめでたし」で終わるストーリーの綻びが目に入り鼻につくようになって、昔のように純粋な気持ちで物語の世界に没入することができなくなってしまった。桃とか鬼とか、そんな突拍子もない設定にも、説明を求めてしまうのである。

 これには例えば、桃は人工子宮だったとか、金太郎はサイボーグだったとか、打ち出の小槌は成長促進機だったとか、そんなSF童話的解決を後になって読んだり考えたりした。鬼が島の鬼は離れ小島に漂着した西洋人で、酒を飲ませて首を切った鬼も、針で目をついて殺してしまった鬼も、やっぱり日本に流れ着いた西洋人だったと、そんな歴史の謎に迫る的解決方法も見たことがある。

 勧善懲悪の「昔話」の善と悪とをひっくり返して、裏側から「昔話」を読み解こうとする試みも数多くなされて来た。けれどもやっぱり、SF童話的解決にも、歴史の謎に迫る的解決にも、そして"裏"昔話的解決にも、どこか違和感が感じられて、すんなりとは受け入れられなかった。どれもしょせんは瞬間芸、解釈の仕方が中途半端だったり、裏返しの仕方が揶揄的だったりして、原作の持っていた純粋のパワーを、薄めたり脇にそらしてしまうだけの力しか持たず、増幅したり、反物質のパワーに変えて返してくるだけの力を持ってはいなかった。

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 ライマン・フランク・バウムの「オズの魔法使い」も、子供の自分にとっては1種の勧善懲悪の物語だった。知恵のない案山子や心のないブリキの木こりや勇気のないライオンが、何かを象徴している寓話と読み解く人もいるが、子供の目には桃太郎と同様に、仲間を得て悪い魔女を退治しに行く、けなげな女の子の物語としか映らなかった。オズの世界に林立する国々がどのような政治的な背景を持っているのか、詐欺師のオズがどうやって絶大な権力を得たのか、西と北と東の国の魔女たちはどうやって魔女になったのか・・・。大きくなって幾つも疑問が涌いて来た。

 グレゴリー・マグワイアという作家が、そんな疑問に1つの、それも強く溢れんばかりにエネルギーに満ちた答えを、「オズの魔女記」(廣本和枝訳、大栄出版、2500円)という本で与えてくれた。ドロシーが竜巻に乗ってやってくる40年近く昔、ある宗教家の家に緑色の肌と尖った歯を持った女の子の赤ん坊が生まれたことろから、マグワイアは自分のオズの世界を語り始める。住民に追われ、辺境を点々としながら成長した緑色の肌の女の子、エルファバは、成長してからエメラルドの都に程近いシズの街にある学校に入り、ガリンダ(後にグリンダ)という少女とルームメイトになる。肌の色の違うエルファバを最初は毛嫌いしていたガリンダも、しだいにエルファバを認め仲良くなり、親友と呼べる間柄にまでになっていく。

 オズを舞台にしたキャンパス・ストーリーがしばし繰り広げられた後、ストーリーはオズの世界に影を落とす複雑な政治情勢へと視点を移す。魔法を修めて幸せな結婚をしていっぱしの財力を得るまでになるグリンダと、オズを支配するウィザードに反旗を翻そうとして果たせず、地下に潜り辺境へと移り住んで「西の国の魔女」と呼ばれるようになったエルファバ。さらには本来エルファバが継ぐはずだった地位を姉に替わって継いだ妹ネサローズが「東の国の魔女」と呼ばれるようになって、ここに「オズの魔法使い」を彩ったよい魔女と悪い2人の魔女たちが、入り組んだ履歴と複雑な政治情勢を抱えながら、ファンタジーの世界へと登場する。

 そしてドロシーが竜巻に乗ってやってくる。「悪い東の魔女」を家の下に踏みつぶし、ブリキの木こりと案山子とライオン(ライオンではない)を従えて、エメラルドの都を経てエルファバの暮らす東の国へと迫ってくる。すべてのラストシーン、役目を果たすことができず、恋人も失い、許しを得ようとして得られず、残りの人生を後悔のなかに生きてきた寂しい中年女性の心を、ドロシーの無邪気が激しく貫く。

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 肌の色を違う人を阻害したり、言葉を話し考え行動する動物を動物だからと虐げることへの批判とか、1人の詐欺師がびくびくしながら帝国を築き上げ、それを守ろうと躍起になっていることへの反発とか、寓話的、暗喩的な要素も確かに含まれている。その意味では、同じく「オズの魔法使い」を下敷きにして、「オズ」での物語をドロシーの空想の世界と解釈したジェフ・ライマンの「夢の終わりに・・・」(早川書房、3000円)のあとがきで、川本三郎氏が指摘した「”童話の本当の姿はこうでした”というよくある”墓あばき”」なのかもしれない。

 だがそんな批判も、人生を自分で切り開き、時には運命に導かれながら生きて来たエルファバの、強く激しく純粋なキャラクターを前にすると、どうでもいいことのように思う。ドロシーに水をかけられて死んでしまう、絶対に避けることのできない結末に向かって突き進むだけのエルファバの人生に、マグワイアは愛と憎悪、勇気と恐怖、希望と絶望を与えた。詐欺師が支配するオズの世界に政治と経済と文化を与えた。そしてなにより、読み手にオズの世界の広さと奥深さを与えてくれた。拍手と共に感謝を贈ろう。

 「オズの魔女記」は帯にあるような「ブラック・ファンタジー」では決してない。「ダーク」でも「アイロニカル」でも「メタ」でも「アンチ」でもない。1面的だった「オズの魔法使い」の世界を多面的に、重層的に、連続的に拡張した「エキスパンド・ファンタジー」。これだけ丁寧に作業されれば、”墓あばき”をされたライマン・フランク・バウムも、決して怒りはしまい。672ページの「拡張」されたオズの世界を、エルファバといっしょに喜び哀しみながら、あなたにもぜひ、堪能してもらいたい。


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