オーバーライト ―ブリストルのゴースト

 なぜクリエイトするのか。そんなアーティストの本質に迫るような物語が登場した。

 第26回電撃小説大賞で選考委員奨励賞を獲得した池田明季哉の「オーバーライト −ブリストルのゴースト」(630円)は、落書きアートとして俗に呼ばれるグラフィティを扱ったライトノベル。かつてはキース・ヘリングとかジャン=ミシェル・バスキアあたりが、グラフィティも含めた路上アートのトップランナーとして名を上げていた。最近ではバンクシーがゲリラ的に描いた作品に何億円とかいった値段がついて、それとともにグラフィティの存在もクローズアップされている。

 そのバンクシーが活動を始めた英国のブリストルが物語の舞台。日本でバンド活動をしていたもの、才能に自信をなくして逃げ出すように留学した日本人のヨシがアルバイト先のゲームショップに行くと、店頭にグラフィティが描かれていた。そもそもそれがグラフィティなるアートだとは知らなかったヨシに向かって、同僚のブーディシアという女子がグラフィティについて解説しつつ、その絵柄や書き方、そして使われた塗料などを元に販売店を経由しつつ書いた人間へとたどり着く

 いわゆるグラフィティ探偵とも言えそうなその才能は、ブリストルにかかる吊り橋の主塔に、大きなグラフィティが描かれた事件でも発揮されて、どういう書き手がどういう意図で残したかまではしっかり割り出す。そこに日本から来たヨシの洞察力も加わってみつかった犯人。そこにはブリストルで進められているグラフィティ排除の動きに対する反抗があった。

 アートといえばアートだけれど、落書きと見れば建物や路上を汚す落書きに過ぎないグラフィティの扱いは、日本でも発見されたバンクシーの作品らしい絵の真贋をめぐって取りざたされた。本物のバンクシーなら高いから落書きではなく保存すべしといった意見が出る一方、アートであっても条例なり法律に違反していたらそれは犯罪であり落書きだといった意見もある。

 渋谷にある岡本太郎の壁画にアーティスト集団のChim↑Pomが、反原発を意味するような絵を作品自体には傷つけることなく沿えただけで咎められ、作品を没収されてしまうこの国で、器物を損壊して反権力的なメッセージ性も持つことがあるグラフィティが、アートとして認められるとはちょっと思えない。にも拘わらずバンクシーなら保護しようと権力者が言い出すから厄介だ。

 どちらも正しいようでどちらも間違っているような。そんな曖昧さが、バンクシーほど知られていない作品をアート以前の落書きとして邪魔者扱いして排除する。いつか未来のバンクシーになる可能性があっても。それ以前にアーティストとして活動を行い、認められている範囲内で表現をしていたはずのものが、急に邪魔魔物扱いされればそれは裏切りだ。

 そうした事態に陥ったブリストルで、グラフィティ書きのチームを率いるララはそれを止めようとしてブーディシアに目をつける。グラフィティに妙に詳しかったブーは、実はゴーストと呼ばれた天才グラフィティ書きだった。

 ここから物語は、ブリストル市によるグラフィティ弾圧の裏にある謀略へと迫る探索が描かれ、ゴーストとまで呼ばれたブーがどうしてグラフィティを書かなくなったかが書かれて、グラフィティなりアートを書くという行為の根源にある自分の意志、それをやりたいからやるという思いが浮かび上がってくる。同時に、才能に見放された自分への嫌悪から逃げ出したヨシが、自分の音楽好きを見つめなおすきっかけももたらされる。

 グラフィティを書くにもルールがあって、自分がそれを上回る作品を書けると思えば上からオーバーライト、すなわち上書きして構わないといった認識があるという。自分でそうだと思っても、他人がそうだと思わなかった時の恥ずかしさを思えば、そう簡単には上書きできない世界で、最後まで残されたグラフィティに価値がないはずはない。そう思える。

 そうした展開の中、グラフィティについていろいろと学んだ物語の果て、ブーが自分を取り戻そうとして、そしてヨシも自分に戻った先にどんなドラマが待っているかが知りたい。どうせ続編もあるだろうから、今度は日本を舞台によりアートに理解が乏しく、バンクシーだから保護すべきだといった価値が、そこに込められた主張を守るべきだといった信念よりも上に立つ功利主義的な状況の中、ブーがグラフィティに挑んで価値観を根底からひっくり返すような物語が読みたい。


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