おとめの流儀。

 剣道に「スネ」はない。なぎなたには「スネ」がある。だから剣道がなぎなたと戦えば、防御し慣れていない「スネ」を打たれて負けるかというと、どうもそうではないらしい。なぎなたを普通は女子が嗜むのに対して、剣道は女子もいれば男子もいるため、相手が男子の剣道となった場合に、女子のなぎなたは力で押され、跳ね飛ばされて面・胴・小手のどれかを打たれ、負けてしまう。

 香川県琴平町にある高校でも、そんな女子のなぎなたと男子の剣道との試合が行われ、なぎなたの「すね」を有効にする一方で、剣道による体当たりや突きを気にしたにも関わらず、剣道が勝利をしたというから、体格差というハンディはことのほか大きいものらしい。

 だから、やはりなぎなたは剣道より弱いのかというと、そこは場合によるし、人にもよるといったところ。剣道の男子がなぎなたの相手を女子だからと甘く見てかかれば、その長い柄でアウトレンジから叩かれる。そして男子がなぎなたを持てば、相手が男子でも剣道相手に存分に戦えるかもしれない。

 うかぶ様々な想像。同じ武道でありながらも、どこか異種格闘技戦の雰囲気を醸し出して興奮を誘う、なぎなたと剣道との戦いぶりを言葉によって見せてくれるのが、小嶋陽太郎の「おとめの流儀。」(ポプラ社、1500円)とい小説だ。そして同時に、ひとりの女子中学生が抱えるモヤモヤを、自分自身の力でハラしていこうとがんばる前向きでひたむきな姿にも出会えるストーリーとなっている。

 ずっとなぎなたをやっていたさと子が、進んだ中学校で入ったなぎなた部は、朝子さんという先輩ひとりしかおらず、廃部寸前になっていた。そこからどうにか声をかけ、友達同士のふたりとか、さと子と幼なじみのゆきちゃんとかが入り、さと子とクラスメートの岩山くんという男子まで加わって、計6人となったなぎなた部が挑むことになったのは、先輩がずっと願っていた男子剣道部との戦い、それへの勝利という難題だった。

 新入部員では唯一なぎなたの経験があるさと子と、未経験者の他の一年生とでは技量にも差があって、それはさと子に時として周囲を見下すような意識を持たせる。男子剣道部に挑むという、予想のつかない目標もあってか新入部員をひたすら走らせ、鍛えようとする部長のやり方に反発も生まれる。けれども、そうやって浮かび上がった問題のひとつひとつが、乗り越えられていく展開が感慨を呼ぶ。その目的の妥当性はおいて、超えられない壁はないんだと思わせる。

 そして挑む男子の剣道部との戦いは、なぎなた部が「スネ」を使わないという、さらにハンディを広げるような条件で臨むことになって、どうなってしまうのかと興味を誘う。もっとも、そこでたとえ勝利しようと敗北しようと、真剣に何かに取り組んでいくことの大切さというものを教えてくれることは間違いない。

 もうひとつ、何かを見下すことのみっともなさも。なぎなただから、女子だからといった気持ちを持つことがどれほど下らないことなのか。分かってそして問い直す。自分たちは何かを見下して生きていないかを。みっともない人間になっていないかを。

 「おとめの流儀。」にはもうひとつ、さと子自身が自分を見つめ直すという物語もある。家に母親しかいないなさと子には、どこかへ行ってしまった自分の父親を探したいという気持ちがずっとあった。近くにある公園のベンチでいつも見かけるホームレスらしいおじさんと友達のようになって、親切だけれど怪しげなそのおじさんに頼んで、父親の行方を探してもらっている。

 大人でなくても子供目からでも、不審さまる出しのホームレスみたいなおじさんと、女子中学生の交流にはとても危ういところがある。出ていった父親に対する母親の心情を省みないさと子の父親探しへのこだわりも、誰かを悲しませてまですることなのかといった気分が浮かぶ。

 けれども、それは何かを分かったふりをして自分を落ち着かせている大人の事情に過ぎない。子供には関係ない。会いたいからと手にお金を握りしめて、東京まで出て行って父親を探すさと子の臆さない行動力、そしておごりを捨て迷いも振り切りなぎなたに向かうさと子の姿に、人間の強さとはなんだろうかといまいちど、自分たちはまっすぐに生きているのだろうかと、改めて自分に問い直したい。

 こざき亜衣による漫画の「あさひなぐ」や、天沢夏月の小説「なぎなた男子!!」といったものに取り上げられてはいるけれど、それほど多くはないなぎなたという題材で、少女たちが迷い躓きながらも奮戦し、成長していく姿を楽しみ、家庭に抱えた迷いを行動によって払拭していく気丈さに触れつつ、子供といえども侮っていられないことを大人として知る。虫顧問とか岩山君とかおじさんとか、雰囲気で他人を見下し侮ってはいけないということも教えられる。そんな小説だ。


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