仁侠姫レイラ1

 立つだけでジャイアント馬場は垂涎だった。歩くだけでジャンボ鶴田は憧憬だった。その顔をみれば誰もが戦慄したブルーザー・ブロディ。そのテーマだけで誰もが飛翔したミル・マスカラス。輝いていた。煌めいていた。プロレスはまさしくワンダーランドだった。

 それだけではなかった。巨躯が、強靱が、狂暴が、驚異がリングの中、マットの上でぶつかり合う姿が激しい興奮を呼んだ。感動を誘った。飛び散る汗に時には血も混じって繰り広げられる饗宴は、ただそれだけで人間の限界の果てしなさを感じさせ、感涙に観客を導いた。

 今はどうだろう。確かにプロレスは続いている。レスラーたちは頑張っている。けれども届かない。その鍛え上げられた肉体が語る問答無用の迫力を、誰も凄いと感じない。筋書きのあるドラマ。仕組まれた戦い。その上で振り付けられたお遊戯に過ぎないといった思いに捕らわれ、物語としての感動を味わっても、戦いとしての凄みを感じようとしない。

 それで良いのか? そのままでプロレスは良いのかと問う声が、漫画になった。梶研吾が原作を手がけ、米井さとしが漫画を描いた「仁侠姫レイラ」(秋田書店、400円)が、古くて良かったけれども、何より凄くて素晴らしかったプロレスの姿を現代に蘇らせた。

 もはや昔ながらのプロレスはほとんど廃れ、人気のあった大帝都プロレスも、グレイトフル帝都というレスラーが1人だけ残って、あとは雲散という末期的状況。もうダメだとリングに潰れた帝都に突然、襲いかかってきた女の子がいた。

 制服姿ながら顔に覆面をした彼女は、仁侠姫レイラを名乗ってグレイトフル帝都を奮い立たせ、試合を肉と肉、力と力がぶつかり合う試合に見せて、離れかかっていた観客を呼び集める。

 これがプロレス。なるほどシナリオに相当するブックはある。誰が勝ち、誰が負け、それに向けてどんな見せ場を互いに用意するかといった了解はある。けれどもその過程で、繰り広げられるのは力と技の応酬、それも全力でのぶつかり合い。その迫力が離れかかっていた人の足を引き留めた。

 これぞプロレス。そう感じた帝都は、暴走気味のレイラに引きずられるように他の団体への殴り込みへと向かう。一応は人気団体として君臨している西部プロレスへと乗り込んだレイラは、エースの羽丘勇人に他流試合を申し込み、無理矢理ながらも成立させてしまう。

 横紙破りに怒る西部プロレスの経営者たち。けれども、マスコミを使って引くに弾けない状況へと追い込まれたこともあって、挑戦を受けてリングに立った羽丘勇人とレイラ。始めはレイラが勝ってしまうというブックが作り上げられていたものが、途中から本気を出した羽丘勇人によって、レイラが叩きのめされ、腕すら折られて、絶体絶命に追い込まれる。果たしてレイラの運命は?

 そこにも息づいていたプロレス魂。あるいはそこから蘇ってきたプロレス魂が、レイラを走らせグレイトフル帝都を導き、より高みを目指す戦いへと駆り立てる。ただの女子高生でしかない海原れいらが、仁侠姫レイラとなって戦いの場に身を置く理由、そしてその強さの秘密といったものが、やがて明らかにされていく展開に、期待も果てしなく膨らんでいく。

 プロレスにブックは欠かせない。ドラマやミュージカルや映画にシナリオがあり、演出があるように感動をもたらす上で、筋書きは決しておろそかにはできない。それに従い選手達は互いに見せ場を作りながら、次へとつながる勝利を演出して、観客を感動させる。

 けれども、そうしたブックは最初にストーリーありき、ドラマありきでは決してない。プロレスラーという超人的な肉体を持った男たち、あるいは女たちの存在があって、彼ら彼女たちの真剣な戦いぶりをまず見せつつ、その上にさらなる感動、そして継続をもたらすブックを載せて観客の興奮を誘い、動員を呼んでいた。昔は。だから楽しめた。感涙した。

 今はどうだ。まずシナリオありき。そこに適切なキャラクターをキャスティングし、ドラマに仕立て上げる。肉体がどうとかお構いなし。だからストーリーとして楽しめても、格闘技としてはあまり心に響いてこない。だからあまり見ようという気が起こらない。そもそもテレビでやってない。

 かつて楽しかったプロレス。かつて面白かったプロレス。それが何なのかを思い出させてくれる漫画として、だからこそこの「仁侠姫レイラ」は大きな意味を持つ。輝きを放つ。現実が遠くなってしまっている今、これを読み、いつか元に戻る日を夢見るしかない。馬場も鶴田も三沢光晴も消えたリングに、再び輝きが戻る日を望むしかない。

 その日は訪れるか。願おう。レイラがリングに屹立し、その技と、その強さと、あとはポロリで観客を喜ばせ、興奮させ、楽しませてくれる時の訪れを。


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