縮刷版2023年2月中旬号


【2月20日】 松本零士さんには1度だけ、「銀河鉄道999」のブルーレイが出る時にインタビューさせていただいたことがあった。場所は西新宿から大久保にかけた場所にあった録音スタジオのタバックで、野沢雅子さんが歩いている姿も見たからリリースに合わせての一斉取材がいろいろとあって、こちらには松本さんが回って着たって感じだろう。とはいえ個人的には子供の頃から読んでアニメーションを見て憧れていた偉大過ぎる人。その人に面前と話が聞けるなんて機会が巡ってきたことに心から喝采を送りたくなった。

 記事では「999」の原体験として北九州から東京へと向かう鉄道のイメージがあったとか、漫画かとは刀をペンに持ち替えた素浪人であって誰にも守ってもらえないけれど、誰からも制約を受けない自由人だってことだといったことを書いたっけ。その時には流石に書けなかった話が「『男おいどん』の大山昇太の子孫がトチローで、昇太は子孫を残せた。何とかなった。それが宇宙へ行く」といったこととか、「メーテルとエメラルダスは双子で1000年女王はかぐや姫でお母さんでプロメシウム。人工重金属に乗っ取られる前に2人を脱出させた」といったものがあった。

 劇場版の「銀河鉄道999」にはそんなトチローもエメラルダスもメーテルも出てくるし、ハーロックだって登場するけれども決して手塚治虫さん的なすたーしすてむによるオールスターなんかじゃなく、同一の人格を持ったキャラクターとして長大なサーガの中に登場しているんだといったことも話してた。「誰が誰の子孫というのを自分の中で決めてある」ってこと。無理やり繋げているって批判もあるにはあったけれど、そういう話を聞くとなるほどそうだといった観点から作品を見たくなってくる。

 「カーテンコールってあるでしょ? 最後にカーテンコール的に並んで全員が出たら俺も死ぬ。でもまだカーテンコールはやりたくない。ああいったものを描いたら最後だと思ってくれ」とも話してたけど、同時に「まだ描きたくないですねえ。当分はそれぞれの旅をして志を貫いて欲しい。ひとりとしてどこかに属している人はいない。自分の目的のために自分の旅をしている」と松本零士さん。結局カーテンコールは行われないままだったけれど、それによって松本零士さんの世界は閉幕することなく永遠に広がり続けることになった。そんな世界を僕たちは旅していけるのだ、松本零士さんと一緒に。

 記事には「股間がかゆくなる病気」といった感じにソフトにした話だと「インキンタムシが私を助けてくれた。描く自意識に目覚めた」ってことがある。「インキンタムシをは恥ずかしくて言えない。インキンタムシと公然と口走れる世の中にしてしまえと『男おいどん』を描いた。これで目ざめなければダメだった」と松本零士さん。えいやっと書いたことで目ざめて自分が本当に描きたい漫画を描き続けて今があり、インキンタムシは公言して恥ずかしい病気ではなくなった。いやなってないけど自分の中でポジティブに考えられるようになった。ありがとう御座いました。本当にありがとう御座いましたと改めて御礼を申し上げよう。

 クリエイターに向けた言葉も聞いたっけ。「自分の頃は3、40人だった志を同じくして漫画を描いていた人が、今は60億人の中にいっぱい居る厳しさがある。電子媒体と紙媒体の分かれ道に来ている大事な時でもある。確固たる画風や作風、自分が描かんとするものを確立しなければ生き延びられない」。松本さんの場合は美女でありメカであり宇宙であり未来であり、四畳半であり猫と行ったものの中に自分の画風、自分の作風、自分の物語を載せることによって日本から世界へと出て行った。亡くなられたことへの追悼がフランスの新聞に大きく載ったりする存在になった。「永遠の浪人の世界だ」。その気構えを心に刻んで僕も刀をペンに変えて書き続けよう。PCのキーボードだけど。

 映連でKADOKAWAの夏野剛社長が言ったことにかつてアニメ記者ムラカミを標榜していた日刊スポーツの記者が噛みついていた。「製作している映画、撮り終わっている映画を、きちんと公開するもの、公開しないものを仕分けする」とう夏野さんの発言に対して「映画を仕分けする…って、どういうことなんだ? と。その後の夏野氏の発言を聞けば聞くほど、首をかしげるしかなかった」とのこと。いやもうポン酢としか思えない思考。

 アメリカでだって撮り終えた映画が試写で評判が悪ければ公開をせずセルスルーにしたり配信に回すことがいっぱいある。お蔵入りすることだってあってそれだけ収益にシビアなスタンスを持っている。だからこそ世界中で売れる映画が出てくるんだけれどそこは日本はどうにも甘くて、馴れ合いと関係性と情動でもって作られた映画が公開されては死屍累々。そうした映画に押されて劇場が開かず本当に公開されるべき映画が公開されない状況だってあるにも関わらず、作った映画はすべて公開すべきだなんてどんなお天気思考なんだろう。そういう甘さを廃してちゃんと見られてちゃんと儲かる映画を作ろうという真っ当なスタンスを批判する映画記者にちやほやされた果てが今のアニメばかりが上位に並ぶ日本映画の状況があると知れ。僕的には最高だけどね。


【2月19日】 東京藝大院映像学科アニメーション専攻修了制作展を東神奈川で観た後に、川崎まで出てチネチッタで「BLUE GIANT」。いやあ山田裕貴さんも間宮祥太朗さんも岡山天音さんも上手い上手い。仙台から出て来て愚直吾までにジャズに取り組みテナーサックスを吹き続ける宮本大であり、イケメンで天才肌なところがあるピアニストの沢辺雪祈であり、やっぱり仙台生まれで大学に入ったけれども転がり込んできた大に感化され、自分でもやってみたいことを見つけてドラムに取り組む玉田俊二といった役をものの見事に自分の声と演技で表現していた。

 沢辺なんててっきり宮野真守さんが演じているんじゃないかと思わせるようなイケメン声。でもやっているのは役者というところに今のアニメーション映画における声優さんではない役者の起用が決して間違いではないってことをうかがわせる。キャラクター性が高い憧磨みたいな役ならそれこそ宮野さんがピッタリでも、自然体で屈託もありといったイケメンだとそういう役を演じる役者の方があっているのかどうなのか。声優さんのカタにはめてくる演技の良し悪しってのがあるいはそこに影響しているのかもしれない。女性声優が1000人を超えたというけど残れてアニメーション映画にも出られる声優さんはどれくらい? って考える時期に来ているのかもしれないなあ。

 映画は仙台編をぶっとばして東京編からいきなりスタート。出て来た大が玉田の部屋に転がり込んではバイトをしながらジャズを聴いて回ってライブ活動もするようになっていく成長のストーリーが、しっかりとじっくりと描かれていて見入ってしまった。漫画自体がある意味で音が聞こえてくるような迫力で描かれているけれど、映画は実際に音が出てそれをトッププレイヤーたちが実際に吹いたり弾いたり叩いたりしているんだから凄いといか素晴らしいというか。大の演奏なんて誰が真似できるんだと思っていたけど馬場智章さんが完全に完璧なまでに大的な強いサックスを聞かせてくれた。あと楽曲も良かった。雪祈こと上原ひろみさんが演奏も含めて素晴らしかった。下のタワレコでサントラも売り切れる訳だ。

 原作とはとても大きな違いが映画にはあって、それはちょっとどうなんと思ったかというと感動させられたのでこれはこれでありだと思った。やっぱりそうさせてあげたいじゃないか。この先で大はドイツへと渡ってミュンヘンからジャズを始めて欧州に名を広めていく展開になるんだけれど外国人ばかりの状況を果たして映像で表現できるのかどうなのか。コミュニケーションの拙さをだんだんと埋めていく演技は活字ならできても日本語だけだと難しく、かといってネイティブに合わせるとどうしても演じる人の問題が出てくるからなあ。途中までは外国語混じりにして途中からは日本語にする手段で映像化してしまえるかなあ。ハンナ・ペーターズとか誰が声をあてるかなあ。

 原作の方はといえばアメリカに移って「SUPREME」編へと入ってニューオリンズでベテランミュージシャンたちに交じって客演しながら自分の好き放題をやった迷惑千万だけれどそれらしさもある大たち一行は、車でガタゴトとフロリダへと出てそしてマイアミビーチまでたどり着く。そこは楽園。リゾートとして来る観光客もいれば終の棲家と決めたリタイアメントの富裕層もいたりする土地で演奏してもなかなか受けない大のそのド直球名頑張りぶりがいよいよ限界に来ていた時、現地で飲んだくれていたベーシストが加わる。実直なハンナとはまるで違ったアルコール依存症で自由人だけれど演奏すれば凄いその人材を大はどう扱うか。ライブの前に飲まないという不文律を曲げて受け入れるべきか。ってあたりが次巻で描かれそう。ニューヨークにはいつ行くの? 先はまだ長そう。

 夜になって第43回日本SF大賞が発表になって荒巻義雄さんの「SFする思考 荒巻義雄SF評論集成」とそれから小田雅久仁さん「残月記」が受賞した。直木賞をとったばかりの小川哲さん「地図と拳」があるいはとも思ったけれどもSF風味はあってもSFとしての“改変”具合では予言的なところがある「残月記」が上回っている感じ。不景気だとか大災害だとかの感激をぬって聞き心地の良いことを言ったカリスマ政治家が独裁体制へと持っていった果てに暗殺されるなんて話を、2019年の時点で書いているんだからこれは凄い。どうして“予言の書”だと話題にならないかが不思議だけれど、それだけ広くは読まれていないってことなんだろう。直木賞でもとっていれば話題になったかも。荒巻先生はもう厖大な文章がぎっしり。だけど平易で読みやすくSFの歴史と思想が噛みしめるように伝わってくる。高いけどSF一家には一冊。


【2月18日】 失敗というならH4のロケットの打ち上げはその日の打ち上げは失敗だったけれどもいずれ再打ち上げが予定されているのでそちらで成功するように頑張りますで済む話なのに、失敗というのは間違っているこれは中止であって延期にすぎないのであって決して失敗ではないと言いつのるのは端から見ているとどうしてそこまで言い張るのって逆に気になってしまう。ネットの風向きは中止で延期ならそちらに合わせようとするのも暴力だし、失敗なんだから失敗なんだと言いつのるのもやっぱり暴力。二元論でしか語れない話しでもないなら今回はマズったけど大丈夫と見守るのが健全な科学の発展につながるんじゃないのかなあ。やれやれだ。

 前日の夕方にちょっと次の日の夕方までに1本原稿を書いて欲しいと言われたので、明け方の午前4時くらいまでかけてとりあえず仕上げて送ってしまう。いろいろと制約はあっても書いて意味のある原稿だから頑張って書くのだった。これで載らないとさすがにへこむので通って欲しいものである。前に1本、近く上映がはじまる映像について書いてといわれて上映の1週間前に送ったのに上映が始まっても載らないまま上映期間が終わろうとしていて、さすがに脱力感が否めない。何が悪いのか分からないのもいろいろとへこむ。これで上映終了まで載らなかったら引き上げてnoteで公開するかなあ。

 無事に原稿が終わったので東京藝大院映像学科アニメーション専攻第十四期生修了制作展「GEIDAI ANIMATION 14 JUICY」を見に東神奈川まで行く。まずは修了生プログラムAから、あべゆうか「化石にならないように水を与えるし、光にもあててあげよう。」は日々をコラージュしたような作品でとても詩的。実写を交えたり手描きで動かしたりと技法もさまざまで、語られる言葉を聞きながらPV的に見ていると気持ちがスッと癒やされる。そんな作品だった。

 松村なお「BLUEE」は黒地に走る流れ星から星々となって星座になったり手が出て来たりと線と点と動きで見せる手描き感のあるアニメーションだった。王俊捷「よだか」は宮澤賢治による「よだかの星」を原作にしたアニメーション。ガラスにオイル絵具で描いたものかを調べたら、グリセリンを使いアクリル板の上に描いては消して動かす技法がつ買われていた。柔らかくて生々しさを持った素材故か、描かれていた鳥たちや木々や水辺に生命感が漂っていた。

 伊藤真希子「ぺぺとロンチーノ」は日産のパオの上で星を見に来たカップルが、防寒用の毛布の上に綴った宇宙から来た双子のお婆さんの物語という体で進む。毛布を指でなぞると線ができる現象を使ったアニメーションがユニーク。そこで紡がれる話がどうして双子の宇宙人のお婆さんのものなのかは少し謎めく。日産パオはなかなかの再現度だった。施楽「窃藍」はアニメっぽさがありるルック。紺屋を死んだ両親から継いで切り盛りしていた姉が死去して、残された弟が姉の作りたかった青を求めて神様に会いに行くというストーリー。弟は青しか見えないというけれど、その青の種類の多さが妹に多彩な世界を見せている。妹を思う姉の気持ちがひしひしと伝わる作品だった。

 卓桜子「瓶の開け方」は、瓶の開け方をいろいろと試す女子の姿を線画でしっかり描いてなかなかの技量と見えた。その試行が時に他の瓶を割って脅すとか、子のように慈しんで成長を見守るといった感じでぶっ飛んでいて愉快だった。まちだりな「ニンジンは待ってくれない」はシュールでデザイン性の高い絵に引かれたけれどストーリーは1度では分かりづらかったかもしれない。雰囲気は良かった。

 馮一夫「記憶の残響」はこれもなかなかにシュールで諸星大二郎のマンガを読んでいるかのような雰囲気があった。顔が生えてる感じとか伊藤潤二的でもあるかもしれない。でもグロテスクとは違って静謐に記憶を探り引っ張り出す感じがした。実写からアニメーションへとモーフするような展開とか、奥行きを持って動く絵がなかなかに巧みだった。 島尚比呂「湯けむりワクワク月世界旅行」は毛玉が街を動き回っていた。

 続いて修了生プログラムB。新海大吾「ぼくがこわい黒いもの」はマルチプレーンの撮影大を使い粘土で作ったキャラや背景などを重ねて撮影。造形物をデフォルメさせてパースをつけたり奥行きを持たせたりする工夫と物語性が光った。母親に新しい子供ができて生まれそうで自分が蔑ろにされるんじゃないかと不安なお兄ちゃんの心理が黒いものへの恐怖を生んでいたけれど、生まれてみたらやっぱり可愛いというのが真理ということで見終えてホッとした。

 劉禹辰「来世ユニコーンの首筋後ろのホクロになりたい」は推しのバンドのメンバーが結婚するとかバンドが解散するとかいった話題に絡む3人がそれぞれ秘密をかかえていて、それを乗り合わせて止まったエレベーターの中で独白するスクリプトと、描くキャラ性を持った絵が良かった。女性の推し活は複雑だ。なかがわさわこ「穴」は部屋の中に穴が空いてて下に寝ている女性がいるという不気味なシチュエーション。その名を囲んでいる人は誰でお茶を出すお婆さんは誰で訪ねて来た2人の関係はといった具合にシュールな雰囲気が漂うけれど動きはなくてミニマルな感じ。場所を限定して最小限の動きにしたのだろうか。

 ルマンダル チャール「Vision」は目玉が変幻して自在に動き回る線となって広がったり収束したりといった線による動きがなかなかに素晴らしいアニメーション的なアニメーション。あるいはライアン・ラーキン的というか。全部が手描きなら凄いけどどういう風に作ったんだろう。気になります。李叔芹「月見ごこち」は今年度のイチオシ。物語性があって絵本的な絵でアニメーションとして分かりやすい上に絵柄が愛らしく見ていて気持ち良い。

 オタマジャクシが死んでお婆さんが諭してくれてお婆さんが死んじゃってオタマジャクシが帰ってきてカエルになっていなくなる。生々流転。そんな物語。李澤昊「隧道漫歩」は布地に染められた青でもって様々なビジョンを見せる作品。道を奥へ奥へと進んでいくような動きがある。松本伊代「ピロピロプゥ」はポプテピピックみたいなシュールな小咄が連なる作品。女子のお喋りを絵にしたらしい。それより作家名が気になるって? そりゃあ気になる。16歳か?

 高玉馨「ペットボトル虫」はさまざま虫やら動物やらを飼っている人物の物語。1枚の絵がそのままシュールレアリスムの絵画になりそうな完成度を持ち、なおかつ動くということで高度な作画力と強い作家性を感じた。これもおすすめの1本。といった感じの東京藝大院映像学科アニメーション専攻修了制作展。17人の修了生のうちの8人が中国出身で1人がトルコ出身というのが今回の特徴。日本でアニメーションを目指す人が減ったのか優秀な中国の人がいっぱい入っただけなのか。実際に中国から気が学生の作品はクオリティが高い。物語性もあり技巧もある。修了して戻って作家になるのか日本で活動を続けるのか。聞きたかった。


【2月17日】 マイナンバーカードを2026年から切り替えるだのどうだのといった報道が出ていて、その理由が「カードの表面に顔写真や氏名、住所、性別、生年月日が記載されている」ことだと知って吹き出す。だって今まさにマイナンバーカードを保険証やら何やらでいろいろ使い倒そうと画策している最中。どこかの市長はマイナンバーカードの取得が給食費補助とう名目の実質無償化の条件だとヌかして日本中から批判を喰らっている。

 別にマイナンバーカードでなくてもマイナンバーの登録で行政的な手間は省けるはずなのに、国がマイナンバーカードそのものの取得を推進している関係からその取得率を上げようとして給食費を“人質”にとったことが明々白々な施策だけに、非難を浴びるのも当然だろう。そうした情報が内蔵されたICチップを搭載したカードを平気で日常的に使用させる愚策もまたこれありだけれど、そうした理由から変えようと言い出したマイナンバーカードを、変えるまでの残り3年は使わなくちゃいけないってこともまた試作に矛盾している。

 ヤバければすぐにでも変えるべきだしそうでないなら使うべき。まあ10年間の使用期限って問題もあるみたいだけれどそれだって伸ばす伸ばさないが議論になっているんだから別に毎年だって切り替えて言い訳で、開き直って国民総背番号をつけてあちらこちらで使えるようにしますよ便利ですよと行って国民の裁定を仰げば良いものを、それをすると批判も起こるだろうからこっそりやろうとしているところが妙にこそくでいただけない。その推進をしている河野太郎大臣の人情味がどこか欠けた言い様にも腹が立つ人も多そう。そうした傲慢を安倍さんのパーソナリティで隠してきた時代ではないのだから、もっと正直にやらないと足元を掬われるよ。掬う相手もいなさそうなのが厳しいところではあるけれど。

 新聞記者がゲラは見せないのが当然と言い放って大炎上。かつてのように新聞記者が教養の権化であって勉強好きであって書いた記事にそれほど大きな間違いがなかった時代だったらまだしも、伝える内容が複雑化する中で取材した内容について相手がオーソリティなら自分より知識が豊富だと認めて裁定を仰ぐというのもひとつの手段。かつては書くことにも正解が多くてこれなら安心と任せていられたものが今は記者に間違いが多くて、その割に思い込みでぶっ飛ばすものだから迷惑している話がいっぱい出て来くるようになっているなら、ゲラを見せて確認をとるのもひとつの流れなんだろう。

 海外では見せないといったところでそれは海外は記者が勉強していて間違えず、そして間違えたらキャリがが吹っ飛ぶくらいのダメージを受けるから。日本みたいに捏造したって平気で居座り出世する記者がゴロゴロといるとなるととてもじゃないけど任せちゃいられないってことになる。もちろん政治家へのインタビューとかその時に言ったことがすべてあと言う側にも覚悟を求めて丁々発止で切り結び、そして後から直してとか手心を加えてと言われて報道がねじ曲げられないようゲラを見せないのが当然といったラインは残すべき。そうした権力相手の記事でないなら極力相互で確かめ合えば良いものになるという時代だと、肌感覚で理解できないのかメディアの権威を金科玉条のように思い込んでいる記者が増えて来たからなのか。ベテランから少し下の人たちにアレな言動が増えて来たような気がしないでもない。

 その例で言うなら週刊金曜日で、神奈川新聞の石橋学記者が市会議員候補から起こされた名誉毀損の裁判で賠償を命じられた件について、沖縄タイムスの阿部岳記者が、石橋記者は「勉強不足」「デタラメを言ってる」「誠実さのかけらもない」と”意見や評論”を述べただけで、決して名誉毀損だとかいった類ものものではないと擁護していてうひゃあと思った。どう考えても侮辱しているとしかおもえない言葉群。具体的な要点を上げて記事で指摘しのならまだ認められても、面前で罵倒されたのなら訴え出たくもなるだろう。実際に裁判では記事として書かれたものには賠償の命令を出さなかった。記者なら記事で論理的に示するのが筋。そこから逸脱した新聞記者の“活動”をこれまた新聞記者が“擁護”する状況がかえって新聞の信頼を損なっていると気づけないものなのかなあ。たとえ界隈が限定されているといっても。


【2月16日】 「週刊少年ジャンプ」に掲載されていたあたりを見知っているからなのか、僕にとって「はだしのゲン」は読まされる漫画ではなく読むべき漫画であって機会さえ与えてもらえれば自分で手に取って読んでそこに描かれている広島における原爆の悲惨さと、そうした状況へと至った日本の軍国主義的なあれこれを理解し反省する材料にするものだったりする。だから別に教材とかに使わなくても図書館に並べておきさえすれば良いと思うんだけれど、それだと知らず撤去される可能性があるのが今の学校教育の現場だけに、教材に取り上げられてその内容に触れる機会を与えてあげる必要があったのだろう。

 その教材が見直されて掲載されていた「はだしのゲン」が外されるとのこと。実態にそぐわないて話があるらしいけれども1945年前後の状況が今と同じなわけがないので、ゲンが街角で浪曲をうなってお金を稼ぐことをあげて今とは違うという無茶がどうして通ったのかが気にかかる。というか今だって街で歌って投げ銭をもらうストリートミュージシャンとかいるじゃ無いか。それが戦後はより切実だったって話。そことリンクさせていけばいろいろと話しも広がるのに、難癖をつけるのはどうにでも外したかったって勘ぐられても仕方がない。

 原爆に対する異論はよくてもそこに描かれている大日本帝国への批判的言説が気にかかる人がいるんだろうなあ。それは日本国じゃなく大日本帝国であっても、というより大日本帝国だからこそ批判されたくないというか。その親玉的な人が亡くなった今も続くそうした意識はいったい誰が支えているのか。内閣なり政府にそうした空気を蔓延させる魔術でもかかっているのか。謎めくなあ。その親玉的な人が亡くなった一件に関して週刊文春が先週に引き続いて疑惑だ何だと騒ぎ立てている。アホらしい。今の時代に陰謀がまかりとおるはずもなく、隠していれば露見するようなことを警察も政府もするものか。裁判が始まれば当然追求も行われるだろう事態を前に疑惑と騒ぎ立てて一稼ぎしたいのかなあ、文春といえどもやっぱり厳しいんだろうなあ。

 より厳しい朝日新聞社の方は「週刊朝日」の休刊とう名の廃刊に続いてウエブで展開している「論座」を止めるとのこと。かつての「月刊ASAHI」から「RONZA」を経て「論座」となったオピニオン誌が休刊とう名の廃刊になって以後、オピニオン的な記事を載せる媒体としてネット上に立ち上がったものだけれどもそうした論壇論説的な記事が例えばハフポストであったりバズフィードであったりといった外資系のメディアに乗るようになり、一方でAERA.dotのようなサイトも身内で立ち上がって食い合いめいたことになっていた。古いだけあって身動きがとれなくなっていた「論座」がまずはお払い箱になってそして、いろいろと統合して立ち上がるオピニオンサイトがどんな情報を載せるのか。きっと変わらないんだろうなあ。やれやれだ。

 三鷹で仕事をしようと電車に乗って到着した三鷹駅を降りたところにある松屋がリニューアル。しばらく前に注文を席ごとに置かれたタッチパネルから行うようにしたんだけれど、その後で会計を立って離れた場所にある会計機で行った上にさらに別の場所にある給湯器でお茶を汲み、そして席で待って案内が来たらカウンターに注文した品をとりにいかなくちゃいけない導線の煩雑さが話題となっていただけに、改良するなり元に戻すんだろうなあと思ったらたしかにそうだったけれど、今度は入り口に置かれた券売機がまた面倒なユーザーインターフェースになっていて、欲しい注文にたどり着くのも大変なら、注文してから会計するまでが大変で現金でお金を払っておつりが出るまで迷う人もいそうな雰囲気だったし、実際に迷って文句を言っている人がいた。誰が実験して決めているんだろう。使えば一目瞭然の厄介さなのに導入してしまう会社の行く末がちょっと心配。

 新型コロナという病名がどうやら「コロナ2019」と呼ばれるようになるそうで、SARSのような外来語めいた言葉を使うなりCOVID−19とそれこそ病原体の名前でよぶようにするなりすれば良いのに、妙な名前を使うものだからこれは映画のタイトルか何かを思われて、次は「コロナ2022 悪の戦士たち」が流行りさらに「コロナ2025 新たなる変異」が流行った後に「コロナ2033 コロナよ永遠に」でいったん収束したかと思ったら、大流行して「コロナ2045 コロナ復活」と呼ばれるようになったなんてことも起こりそう。根絶にはまだまだかかる病気をいかにも収束したかのように見せる手合い。マスクを外させるのも病気が流行っていることを感じさせないための方策で、それによって国は無関係を装いお金を出さないように成り、かかった人は自費での治療が難しくなって年配者から命を奪われていく。それが狙いだとしたらやっぱりこの国、どこかタガが外れているなあ。


【2月15日】 レアルソシエダの久保建英選手が放ったミドルがなかなかに凄まじくって、サイドから切れ込んで放った三笘薫選手のミドルに勝るとも劣らない切れ味にいよいよ日本にも海外リーグのトップあたりで活躍できる選手が増えて来た感を抱く。もちろんセルティックの前田大然選手や古橋享吾選手やフランクフルトの鎌田大地選手もバンバンと得点を奪ってはいるけれど、攻撃的な選手が尊ばれるスペインリーグでの活躍はやっぱり格別。これでサイドではなくセンタフォワードとして活躍できる選手もれいば日本の最前線も安心なんだけれどなあ。そういうラウール選手とかフェルナンド・トーレス選手タイプが育たないのも日本だよなあ。

 ネットに流れていたハーフナー・マイクさんのインタビューとか読むと日本ではトップに張り付いてゴールチャンスを待つような選手よりも戻って守備をしてそして走って落としてといったような選手が尊ばれるようで、以前の前線に張り付いていざという時にもの凄い仕事をきっちりと熟す佐藤寿人選手のようなタイプはあんまり求められなくなっている感じ。代表の選考でもそうした守備で貢献できる選手が選ばれる感じだからどうしても1点が欲しい時のパワープレーに使える選手もいないし育っていない。守備を固められたらもうお手上げで、奪えたフリーキックも決められなならもうどうすれば良いのって感じなので次はそこをしっかりこなせる選手を育てるなり発掘して欲しいなあ。誰がいるんだろう。オナイウ阿道選手あたりかな。

 取材仕事で大船へ。到着するなり近所を歩いて昼ご飯が食べられそうな店を探したけれどもやっぱり安心のからやまでチキンステーキと唐揚げのセットを頼んだら、おまけに塩からがついてきた。これなら唐揚げだけにしてご飯大盛りにすれば良かったかもしれない。塩からか明太子があればご飯なんばいだっていけちゃうから。昔はそうでもなかったけれど今は味覚も変わってきたのだった。いつからだろう塩からを美味しいと感じるようになったのは。家でご飯が炊けるようなら塩からと明太子と納豆でご飯だけ食べていけるのになあ。やっぱりキッチンを取り戻そう。本から。あと衣類から。

 せっかくだからと大船駅から見上げた丘の上にある大船観音寺へと参詣。横須賀線とかで通るたびに大きな観音様のお顔が見えるんだけれど立ち寄ったことはなかったのだった。急すぎる坂道を登っていったら外国人のツーリストが電動アシスト付き自転車で何人も降りてきたのは貸し自転車でぐるぐる回っているってことなのかな。下りはともかく上りをどうやって上っていったかを効きたかった。いくら電動アシストが付いていたってあの坂はちょっと上れないんじゃないかなあ。距離的にはフォーシーズンズホテルへと上がっていくあの坂よりも短いけれど傾斜はちょっときついきもするし。いやあ久々に坂道を上った気分。

 観音様は顔だけなんだけれども中に入れてそこに観音像が祀られているのは始めて知った。牛久大仏にしても高崎の観音像にしてもこうした巨大な像ってどこかフェイクっぽさも醸し出されるものだけれども牛久にしても高崎にしてもそして大船にしても結構な時間を重ねてきたことですっかり地域に馴染んでいる感じ。それは東海市にある大仏も同じか。大観音像といえば首だけでなく立っているのが前に淡路島に作られたけれども参拝客もおらず寂れていく中で解体されてしまったとか。せっかくだからパソナが買い取ってシンボルにでもすれば良かったのに。中が空洞なだけあって実にお仕事にマッチしているよ。

 学術会議を政府の思惑の中に組み込んだり、大学のトップ人事を政府の手の内に納めてしまったりと教育の世界でいろいろと進む改革は、なるほど政府の意思を教育の現場に反映させるという意味合いを持ったものだと言えるけれどもそうすることによって大学の現場が弱体化し、教育の質が劣化し優れた技術も優れた思想も生まれてこなくなってしまって困るのはこの国だということを、政府も分かっているのかいないのか。とりあえず予算を削れとなって削りやすいところを削っているだけって感じで、それが将来においてど烏いう影響をもたらすかを考えビジョンを描く政治では、支持されないし食っていけない状況が背景にあるような気がする。つまりは国民全体の問題だけれどいざとなった時、目の前につるされた肉を食べたくなるのが人情だからなあ。どうなるものやら。生きている間は真っ当であって欲しいけど。


【2月14日】 バレンタインデーだからといって何かイベントがある訳ではないのでいつもどおりに原稿を書きに外に出る。火曜日だと妙典のラーメン屋さんが開いていると思って地下鉄で出向いて中に入って今回はカニ玉ラーメン。思っていたほどカニ玉がふっくらと分厚いものではなかったけれども、薄く焼かれているのに中は柔らかい辺りに熟練の技を見る。カニがどこに入っていたかは気づかなかった。玉子も高くなっているみたいなので薄くなったのかいつもそうなのかは不明。この値上がり具合だとキッチンDIVEの目玉焼きが幾つも載った弁当も目玉焼きの数が減るかもなあ。6個が5個とかに。

 イオンに入ってスターバックスで原稿書き。とりあえず「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」についていろいろと取りまとめる。なぜかランキングの中に全巻が出そろうとう自体は想像するならテレビアニメの放送が始まってみる人が原作にも手を出したってことなんだろう。それなら「スパイ教室」はって話になるけれど、原作のスリリングだけれど愛らしいスパイ活劇をアニメーションで表現する難しさに直面している様子。とりあえずキャラクターへのスポットを中心に挽回を図っている感じだから、それで食いついた人がだんだんと進むシリアスなドラマに入っていってくれると面白いかも。

 原稿を書いていたらコメント依頼のメールが届いたので関連するサイトを見たり決算短信を読んだりしてなるほどそういうところで頑張っていたんだと知る。出版会社だけれどメジャーな版元とは違うにもかかわらずライト文芸のレーベルでそれあんりの存在感を示していて、売上高も2割以上伸ばしていて中期経営計画を1年前倒しで達成してしまってその上方修正もしてしまったというからなかなか剛毅。自前で小説投稿サイトを持ちクリエイターを集め出口も作ってコミカライズも手掛けているのが大きいのかなあ。あと女性向けにセグメントを絞っているところ。男性向けのライトノベルがやや停滞気味な中でハーレクインの代替的にライト系の恋愛小説を読む人が増えているのかもしれない。どうなんだろう。

 夜になって豊田章一郎さんの訃報。トヨタ自動車の名誉会長でトヨタ自動車を創業した豊田喜一郎の長男ということでいずれトヨタのトップになることは決まっていたんだろうけれど、そういった帝王学の下でぬくぬくとはせずトヨタ自動車工業でディーゼルエンジンの研究とかしつつ叔父にあたる豊田英二さんの経営も目の当たりにしながら学んでいってそして工販合併という一大改革の中でトップとなってバブル期前からその前後の自動車ブームを盛り立てた。だからといって偉ぶるような感じはなくって、兜倶楽部という東京証券取引所に詰めている記者との懇談会も開いて英二さんともども出席して喋ってくれたっけ。ひとの言いおじさんという感じだったなあ。

 後に経団連の会長も務めたけれどもそういった財界の大立て者といった雰囲気はなかったという印象。そんな人の良さをだから豊田章夫さんが受け継いだかというとだんだんと世間に対する信頼というものを冷ましていった結果が先のひとりよがりな社長交代会見につながったような気もしないでもない。章夫さんが元気だったら許していたか。でも逆に病床に伏せっていたからこそ会長へと上がってグループ全体を見る立場、そして財界活動が可能な身へと自分を押し上げたのかもしれない。英二さんもしばらく前に他界してこれで喜一郎さんから数えると3世代目が変わって4世代目に移ったような感じか。そういった同族経営をしつつ株式も公開してなおかつ世界トップの企業であり続ける不思議。分析された本とか出ないものか。ハウス・オブ・トヨタ的な。


【2月13日】 世界中のあちらこちらで未確認飛行物体を撃墜する動きが活発化していることについて思い出した冗談。ある国の国防省が大統領に進言した。「大統領閣下、我が国の上空を飛んでいた謎の飛行物体を撃墜いたしましたところ、中より女性だか男性だかわからず背も低いのか高いのか判然としない美貌の人物が現れて『私は怪盗クイーンだ』と訳のわからないことを言っていたので拘置所にぶち込んでおきました」。答えて大統領。「放してあげなさい」。他にもラピュタとかガミラスから来た円盤とか打ち落とされてロボット兵が暴れたり、遊星爆弾が飛んできたりしかねないかちょっと不安。どうなることやら。

 アートディレクターの信藤三雄さんについていろいろと流れていて、心配していたら夜になって事務所の方から正式に訃報が発表される。渋谷系アーティストのアルバムを手掛けたりユーミンやサザンも手掛けたりといった具合に作品群はもちろんとてつもなく有名で、お洒落でスタイリッシュなデザインというものはこういうものだということを見せてくれた人だっただけに、それなりのお歳とはいえまだまだ活躍できただろう才能の逝去を悼む。

 そんな信藤さんから浮かぶことがひとつあるとしたら、そのアートワークを収録したCD−ROMが1990年代後半のマルチメディア全盛時代に「ピーターと狼」のオラシオンからリリースされたことが記憶にあって、紙の写真集とか作品集にはない立体的なとらえかた、たぶん音源も含んでの文字通りのマルチメディア的な作品に対するアプローチに新時代の到来を見たのだった。そうしたモニターを通して映像や画像やテキストや音楽音声を統合して見せることによってその世界へと”没入”させるアプローチは、今ならもっと凄いことができそうなのに、実現しているかというとそんなことはなかったりする。

 あるいはそれは、CD−ROMによるマルチメディアの後にどこか貧弱なネット環境の上で展開されたHTMLベースのテキストが中心で画像がようやく載る程度のインターネットと、アクション性なり物語性を持った遊びの中でマルチメディアを感じさせるゲームへと二分化してしまって、CD−ROMという統合されたパッケージの上でインタフェースを介してマルチメディアを体感させる文化は途絶えてしまったからのかもしれない。

 ネットが発達した今ならあるいはと思いつつもやっぱりネットは簡便なコミュニケーションのツールとして時短が進んでSNSやらTiktokやら端的な文章、単純な動画がもてはやされて世界観を底に封じ込めたパビリオン的コンテンツの構築にはあまり向いていないっぽい。サーバーが消えてしまったら世界ごと消えてしまうリスクも常につきまとう。

 VRなりメタバースなりへの期待はあってあれこそCD−ROM内に構築されたマルチメディアの世界へと身心もろともダイブさせてくれるプラットフォームだと思うんだけれど、今度は広すぎて世界そのものをすべて構築しないと気が済まない感じとなって際限がなくなっていく。一方でダイブするための障壁もまだまだ高い。その意味で650MBのCD−ROMは人間がどうにかこうにか工夫によって構築できる小宇宙(コスモ)として手頃だったのかもしれないなあ。そんなCD−ROM文化ももはや記憶から失われ再生可能なプラットフォームもなくなって見向きもされなくなっている。オラシオンなりシナジー幾何学なりデジタローグなりといった工房が作っていたCD−ROMタイトルのアーカイブ化なり研究なり、誰かやってくれないものか。

 クリニックに行って薬を処方してもらっている合間にDAZNでスーパーボールを見る。カンザスシティ・チーフスとフィラデルフィア・イーグルスの試合は緑のイーグルスがリードをしてチーフスが追いかけるような形で進んでいくなかなかの拮抗ぶり。お互いにミスらしいミスをあまりせず一方的に点差が開くようなことがないのは頂点たるスーパーボウルに出てくるチームらしいと言えば言えるのかも。そういう試合でともすれば守備が固すぎてファーストダウンが奪えないまま攻守が入れ替わる繰り返しになったりするけど、両チームともしっかりと攻撃が通って得点し得点されるシーソーゲームになった。

 それでもチーフスがグンと抜け出した時は、2回の得点機会がフィールドゴールだった関係でタッチダウンを奪っても2点差だったイーグルスが厳しいかなと思ったら、そこをタッチダウンからの2ポイントコンバージョンで同点に追いついて見せたのが素晴らしかった。もっともそこからチーフスに攻撃権が渡ってドライブからの残り8秒でフィールドゴールを決めて3点差に。もはやどうしようもなくイーグルスは敗れてチーフスが3年ぶり3度目のスーパーボウル覇者となった。ああ面白かった。こういう試合が見られるのならDAZNも悪くないので契約を割引が効く年間契約に切り替えよう。ちゃんと来年もスーパーボウルの放映権をとってくれるだろうか。そこだけが気になる。


【2月12日】 ワンフェスがあるので早くに家を出る。チケットを見ると午前8時15分には来いってことで行くとまずはダイレクトパスを持った人たちから行列を作って中に入れ、それから一般入場列をブロック順に入れていく感じでしばらく待って8時半過ぎくらいからブロックのBとしてゲートをくぐってたまり場に集まり。それから幕張メッセの外周をほとんど1周する感じて行って戻って来る途中にパトレイバーが横たわっていた。国際レイバーショウのために久々のデッキアップをしにやってきた模様。整備のためにクラウドファンディングも行ったくらいで見ると前よりピカピカになっていた。これならグリフォンとだって戦えるよなあ。実写版だから戦わないけど。

 そんなパトレイバーを通り過ぎて外周で待つことしばらく。午前10時となって開場した模様でそれからまた1時間くらい待たされるのかと思ったら、10分もかからずスッと中に入ることができた。ダイレクトパスの人とそんなに変わらないような気がしないでもないけれど、彼らは目当てのディーラーに散って行列を作って待機している訳だから、目に入らなかっただけだろう。こちらはだらりと企業ブースに行ってとりあえず、丸井が行ったエヴァンゲリオングッズのお蔵だしを見物。UCCの缶コーヒーがエヴァとコラボした時に作られた缶型抱き枕は3万円くらいなら買ってもいいかなと思ったら20万円で手が出なかった。

 でもしばらく待って戻って来たらなくなっていたからきっと売れたんだろう。すごいなあ。会場にいた神村さんによれば新品よりは安いけれども転売するにはあまり利益が出なさそうなラインで統一。それでも人によっては欲しがる品もあっただろうから買い占めを警戒して1人5点に制限がかかっていた。そういうところは気が回る。一方のプリキュア展での図録販売は無制限で売って品切れ続出。やっぱり慣れてないのかオタクの気持ちが分からないのかもしれない。ってプリキュアは女児向けであってオタク向けじゃ無いからそういう配慮をする方がおかしいのか。でも買うのは一般女児とは思えないんだよなあ。どうしたものか。

 せっかくなので食玩っぽいフィギュアを500円で3つとオルゴールを1000円で1つ買ってジ・エンド。フィギュアで4000円とか5000円とか払って勝っても家に置く場所がもうないのだった。そこからATACのブースに行って挨拶をして鎌田光司さんのブースに行って挨拶をしてぶらぶらと時間を潰してパトレイバー関連のトークイベントまで待つ。クラウドファンディングで最前列に座るチケットを購入したのだった。おまけもいろいろついてありがたい。それで7000円ならおつりなら安い方。そういう買い物が楽な年になってしまった。

 集合時間になったのでどうやら待ち合わせ場所らしいところに行っても誰もおらず案内もないので尋ねたら連絡が届いてないみたいだった。やれやれ。それでもどうにか時間通りに会場に入ったら今度はなかなか始まらない。きっと誰か遅れているんだろう。それもまたパトレイバーだねと思って鷹揚に構えて待っていたら出渕裕さんに伊藤和典さんに天神英貴さんが登壇してスタート。いったい誰が遅れていたのやら。トークのほとんどはレイバーショウに向けて応募があったフィギュアとかジオラマを審査してショウを与えるもので、レイバーショウだけあってメカが主体だった中でひとりかぬかを選んだ人がいたのでそういうフィギュアでの応募があったことを知る。あとで会場を見たら結構スタイリッシュなポージングでこれは賞でもいいかなと思った。

 黄瀬和哉さんは廃棄物12号が透明なケースにホルマリン漬けかなにかになっているのを選んでた。珍しい。ってかアニメの「WXIII 機動警察パトレイバー」ってマッドハウス制作なのに黄瀬さん絡んでいたっけって調べたら作画監督しておられた。それならなるほど選んで不思議はないかも。散々っぱら描いたのかもしれない。そんな贈賞の後で最新作となる「機動警察パトレイバーEZY」のアニメーション部分がちゃんと動いている映像が流れる。指揮車の男性は遊馬っぽく操縦する女性は髪は長いけど上で結んだりする系。野阿とはちょっとタイプが違いそうだけど元気そうなのはいっしょかも。30年後って設定で街並みがだから今と同じ感じになっているけどイングラムはイングラムなんだよなあ、外見は。プラスとかってあったから改良はされているみたい。OSはなんだろうか? 30年あったらHOSですら古くなるよなあ。来年という公開が楽しみだ。


【2月11日】 たぶんこの日記も27年が終わって28年目に突入したんじゃないかと思うけれどもだからといってお祝いだとか、特集だといったものはなく普通に日常を綴り続ける。思ったより寒くはなかったので家を出て本でも読みつつ電車に乗って東所沢へ。現代アートの展覧会が始まっていると聞いたからで武蔵野線を延々と載って到着した東所沢にはもう雪は無く、明るい日差しの中をご老人がいっぱい歩いて駅から北へと向かっていった。まさかさくらタウンへ? ってことはないみたいだったけれどもだとしたら何があったんだろう。謎めく。

 到着したさくらタウンでは現代アートの展覧会を見たり眺めたり。マーク・コスタビがあってアンディ・ウォーホルがあったりロイ・リキテンシュタインがあったりデイビッド・ホックニーがあったりしてアメリカンポップアートの列はなぞりつつ、ジャクソン・ポロックだとかロバート・ラウシェンバーグだとかいった辺りまでは遡らないところが現代からこっと側といった感じ。それより遡ると値段もケタが1つ上がるからなあ。とはいえマーク・コスタビとウォーホルでは2ケタくらい違ってそう。商業的に版画を良く刷って売ってた時代に買っておけばどうなったかなあ、マーク・コスタビ。

 名和晃平とか会田誠とか奈良美智とかはあっても村上隆はないあたりもちょっと謎。あるいは持っているのかもしれないけれど奥と濃すぎて他が霞んでしまうから敢えて入れなかったのかもしれない。現代アートのアイコン化しているところもあるから、分からない現代アートの文脈に入れるのはちょっと無理があったのかも。それは奈良美智さんも同様だけれど見に来る人のことを考えたら、あの愛らしくて毒がある奈良さんの絵があったほうが絶対に嬉しいから仕方がない。そこで会田誠の残虐絵でも見せればってことかもだけれど、血肉が飛ぶようなものはなくサラリーマンが富士山のように積み上がったもので勘弁って感じ。おとなしいねえ。

 東南アジアとかインドとかのアーティストもいたりした最後は森村泰昌さんがヒトラーを演じたチャップリンに分した「独裁者」をパロディにしたような映像の中で顔を歪めながら俗語をさもドイツ語のように喋ってた。表情と声音が表す独裁者像。その後にチャップリンよろしく静かに語って独裁者とな何かを伝える映像をここで流すというのはつまり独裁者への批判精神を世に伝えていこうって表れかもしれない。さくらたタウンに独裁者がいたかどうかは知らないけれど。そんなこんなで1時間ばかり見た後で東所沢を退散し、越谷レイクタウンに寄ってチャンピオンプロダクツのカットソーなんかを買って帰る。何も書かない土曜日も良いもんだ。

 読書の方が彩月レイさんの「勇者症候群」(電撃文庫)を読了。電撃小説大賞で金賞を獲得した作品で、異世界に転生して勇者となってモンスターを倒し始めた自分は実は……といった展開からの裏返りがユニーク。「処刑少女の生きる道」に少し通じる驚きを感じさせてくれる作品だった。それをあらすじ等で明かさず驚かせる手もあったけど、それが主題ではなくその先に仕込まれた後悔と葛藤のドラマで読ませてくれるからこれで良いのかもしれない。とりあえず続くみたいでどういう理由から「勇者」が生まれるのか、その先にあるのは何なのか、といった展開を楽しめそう。今回の受賞作ではSFっぽさがある作品なので応援していこう。

 「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の例の第12話についてBPOにお手紙を出した人がいたみだいたけれど、とりあえず話しは出たもののそこから先には進まずつまりは何もなかったとうことでスルー。それをBPO案件だと騒ぐ輩もいたりするのがネットの胡乱さ。とはいえ毎日放送は竹田プロデューサーが「機動戦士ガンダムSEED」だとか「機動戦士ガンダム00」だとか「鋼の錬金術師」だとかを夕方に放送していた時代から、本読みには参加して納得するかは検討するけどそれで認めたら後は何があっても守る体制でいるから今回もBPO案件になったところで突っぱね通してくれたんじゃないかと思いたい。そうでなくても溢れる冷笑系コンテンツの方は子供の情操に良くないことは明白。そっちを何とかするべきなのに、自動系出版社が率先して冷笑系な本を出そう賭しているから世も末だ。どうなることやら。


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