縮刷版2022年9月下旬号


【9月30日】 あのGoogleから2年で150万ドルとそしてYahoo!から毎年2000万円を引っ張り出してスタートした日本ファクトチェックセンターに期待されるのは、世に跋扈する政治家を誹謗中傷するようなデマであったり個人を貶めるようなデマといったものに敢然と立ち向かってこの国を真っ当な方向へと向かわせることだと思っていたら、しょっぱなに繰り出してきたのが空を飛ぶ飛行機から流れる飛行機雲に化学物質が混ぜられているとかいった根も葉もない噂の全否定だったので腰が砕けた。

 そんなこと否定されなくたってまっとうな思考の持ち主だったら知ってる話だし、それでも信じたがるような人はたとえブッダやキリストが言ったところで信じ続けるだけでファクトチェックが何の意味も持たないところに柱を立ててこれが私たちのファクトチェックですとやってしまっていったい何が嬉しいんだろう。ほかにもすでにネット上でフェイク画像を出した当人がフェイクだったと認めて謝っている静岡県の水害に絡んだAI生成の水没画像を改めてフェイクだったと言ってみて、そんなものはすでに誰かがやってる話と突っ込んだところで貸す耳なんか持ってないんだろうなあ。今後もそうやって根も葉もないドリーミーなフェイク話に註釈をつけていくだけなのかなあ。謎めく。

 朝に岡谷のホテルを起きて駅まで数分の距離を歩いて改札を抜け列車に乗ってゆられること30分ほどで伊那松島に到着。そこで焼き入れを専門に行っている会社の人に取材をして、さあかえろうと思って時刻表を見たら2時間近く列車が来ないことが分かったので歩いて近所のラーメン屋に入って担々麺を頼んだらこれがなかなか美味しかったのだった。豚骨ラーメンに唐辛子をぶち込んだような感じで中華風の挽肉が載った担々麺とはちがうけれど、辛味と豚骨の甘みが絡み合って良い感じに口の中で濃厚な味わいを醸し出す。特に名物って訳でもないしスープが自家製かも分からないけれど、伊那松島に行った人は寄ってみると良いかも。行く機会なんてまずないだろうけれど。

 それで時間を使っても駅でやっぱり1時間半くらい待つことになって待合室でしばらく呆然としていたらそれくらいの時間が経っていた。忙しさに流されて時間を効率良く使うことに血道をあげていると、こうやって何もしない時間をどう過ごすのかを忘れてしまいがちになる。体を休め脳をおさえて時間をやり過ごすことができれば心も落ち着くってことを思い出せた貴重な時間。とかいいつつしっかり仕事はしていたんだけれど。そんなこんなで来た列車に乗って30分くらいかけて岡谷に戻って途中下車してモスバーガーに入り東京と繋いでオンライン会議。列車に乗ったままだと途切れる可能性があるから仕方が無いのだった。

 モスバーガーでは噂の月見フォカッチャを食べる。東京あたりじゃ人気で販売停止になっていたって聞いたけれど岡谷は大丈夫だったみたい。ハンバーガーではなくってフォカッチャの間にキャベツとそれからソーセージが入ったサンドイッチ的なもの。ぱりっとした歯ごたえとバンズではないフォカッチャのもちもち感が良い感じに絡み合い、そこに目玉焼きとまでいかない半熟玉子の甘みも重なってなかなかに美味しかった。これのどこがセーラームーンと通じるのかは謎だけれど。

 そうこうしているうちに帰る時間になったので岡谷から特急あずさで船橋へ。1本で乗り換えずに行けるのはありがたい。途中で三遊亭円楽さんというか僕らの世代だと楽太郎さんで知られる落語家の死去のニュースを見る。高校生だった頃に学校に桂歌丸師匠と楽太郎師匠がそれぞれ前座を連れて来れたのを観たのが最初に落語に触れた機会。歌丸師匠は当時から活躍していたけれど楽太郎師匠は青山学院大学を出ながら落語家になって売り出し中の若手のホープといった感じだった。それが円楽の名跡を継いで10年くらいで死去。先に逝った先代の円楽師匠を追いかけ歌丸師匠が逝って追いついたと思ったら後ろから円楽師匠が追いかけてきて驚いているんじゃないだろうか。そんな冗談でも言って紛らわしたいくらいに残念な話。これで円生の名跡も誰に行くか分からなくなったなあ。


【9月29日】 諏訪湖へ。別に御神渡とか御柱とかを観に行った訳ではなく、翌日に伊那谷へと入る必要があってそれに間に合う時間に行くには前日に岡谷あたりまで出ておく必要があったのだった。特急あずさに乗るのはこれが初めてだけれど、割と快適にビュンビュンと飛ばして交付を経て茅野から上諏訪まで到着。本当は岡谷までだけれども距離的に途中下車も可能なので降りて近所を散策する。

 まずは諏訪湖ということで駅からとことこと歩いて行って、見える対岸に東京湾からのぞむ川崎あたりの距離感と比べて、案外に狭いなと思ったもののこれが東京近辺の池とか沼のレベルと比べると段違いに広く、周囲16キロということは対岸まで4キロくらいと考えるならやっぱり歩いて渡れる距離ではないと認識。それを渡ってくる神様はやっぱりなかなかの健脚ってことになる。ただ水面にアオコが何かが繁茂していて美しさはちょっと遠かった。季節的なものかなあ。

 間欠泉があるというのでそこまで行ったものの、この春先あたりから高く吹き上がることがなくなってしまったそうで、今はポンプで上の冷たい水を取り除いてわき出る温泉をながめて良しとする。ぐるっと囲むように間欠泉センターなんてものを建ててしまっただけにどう扱えば良いのやら。時々はポンプで高く吹き上げてショー的に見せるのが良いのか今のわき出るお湯を使って足湯でも浸からせて楽しんでもらうのか。そんな足湯が湖畔にも、そして上諏訪の駅にもあって自由に着かれてさすがは温泉街と思ったものの、せいぜいが1人2人しか浸かっていないところにも、平日とは言えコロナで減った環境需要を少し思う。昔は平日でも外国人とかいっぱいいたからなあ。

 1時間ほど散策してから列車で岡谷へと移動。ホテルに入るまで時間があったので近所を歩いてモスバーガーでしばらく休憩してから、上諏訪とは対岸になる場所から諏訪湖を見ようと歩いて行ったら天竜川への取水口が見えた。下流で天竜下りなんかもしているあの川の始まりがこの水門と思うとなかなかに感慨。というかちょろっとした源流ではないところに諏訪湖が持つ水を集めて外に出す機能の大切さを感じる。ここが枯れたら遠州も枯れるってことだから。

 遠くにのぞむ上諏訪はやっぱりそれなりな距離。泳いでいく人もいないけれどもそもそ諏訪湖って泳げたっけ。夏場の海水浴場ならぬ湖水浴場がどうなっていたかがちょっと気になる。琵琶湖は砂浜があってそこでみんな海水浴みたいなのをやっていたっけ。大昔にアルバイトをしていたコンビニエンスストアの旅行で出かけていった記憶がある。それを思うと海のない長野で最大の水場を泳がないって手もないと思うんだけれど、それができる青さでもなかったしなあ。神様の湖だから入っちゃだけなのかな。調べてみよう、って夏に来ることはないけれど。

 戻ってホテルにチェックイン。外観はどうみてもリゾートマンション風だけれど入るとちゃんと客室風のドアもあって風呂場もベッドも机もしっかりホテル的なものが備えてあった。改装したのかな。広くて快適でぐっすり眠れたかというと柔らかいベッドになれていないのか不吉な夢をあれやこれや見た記憶。でもまあ覚えてないし緒戦は夢だから気にしない。せっかくなので岡谷のうなぎを試したかったけれど夕方にはどこも売り切れ。仕方なく買って来た弁当を食べてお茶を飲みあれやこれや仕事をするのだった。やっぱり快適だと捗るねえ。引っ越すしかないのかもしれないねえ。


【9月28日】 給食は小学校までだったので振り返る思い出も遠い記憶の彼方に去っていて、どんなデザートが出たのか覚えてないけどアルミのカップに注がれたミカンだとかフルーツポンチだとかはあったような記憶があるし、バナナも時々出たような出なかったようなそんな感じ。凍ったプリンみたいなものもあったっけ。アイスクリームはどうだったっけ。ともあれ楽しみにしていたのはそぼろ麺だったりイカのリング揚げだったりして仮にデザートがなくても食べられるものが食べられれば良かったんじゃなかろうか。

 いや、でもやっぱりそれほど家でデザートが食べられる状況でもなかったので、楽しみにしていたのかもしれない。そんな給食のデザートが折からの諸物価高騰を受けて削られることになったとか。主食の方のパンだとかおかずまでが減らされたのではたまらないけれど、そちらについては情報が無いのでちょっと不明。ただ大阪だったかの学校給食の貧相さを見るに付け、街のファストフードで食べる朝マックだとか松屋の朝ご飯ほども出ないような感じがあって、それでデザートまで減らされてはたまらないと感じる子供もいるような期がしないでもない。昭和40年代の貧乏から脱して豊かになったはずの国がこんなことになるなんて。それもこれも誰のせい? 口がカユくなるから言わない。

 「リコリス・リコイル」の最終第13話をNetflixでやっと見る。戦いを終えてそれからの物語がたっぷりと楽しめた上に、そのさらに先まであって楽しい楽しい。最後のセリフをミズキの突っ込みで締めるあたりの脚本家の冴えも味わえて良い感じの余韻を味わいつつ次への期待なんてのも浮かんでしまった。喫茶リコリコのメンバーは勢揃いしているし真島の方も頑丈さは相変わらずなみたいで、そんな面々が激突するのか別の事態に共闘するのか不明ながらもより大きな話なんてものが起こりそうな予感がしてならない。

 というかアラン機関の胡乱さがまだ全面的に炸裂したって感じでもなく、リコリスたちを束ねるDAと絡んでいる訳でもないのでそれらが国際的な謀略の中で結びついているなり関わっているような大きな構図が潜んでいるとしたら、それがいよいよ立ち上がっては千束の異常な才能を狙って襲ってくるようなこともあったりするのかもしれない。その秘密が少しだけ明らかになったミカの本格的な活躍だとか、ちょっとだけ登場したリリベルの大々的な活躍なんかもあって欲しいのでやっぱり絶対2期は必要。そこではきっともっとヨシさん以上に身近な誰かが失われることになるんだろうけれど、それを乗り越えて立ち上がる千束とたきなの姿を確かめたい。待とうその時を。いつになるか知らないけれど。

 辞め朝日新聞が集まったのか集められたのかして日本ファクトチェックセンターなんてものが設立されたって話。ネット上の誹謗中傷めいた言説を無くす活動だとかに取り組んでいるセーファーインターネット協会が立ち上げたけれど、設立にあたってGoogleが2年で150万ドルを出しYahoo!も年間2000万円を出すってことで2年で2億5100万円もの費用が集まったらしい。それを元朝日の記者ばかりのエディター3人と学生のお手伝いの数人が使える訳で、なんて羨ましいと思ったけれどもそれだけの金額を使って何をどうするのか、そんなにかかるものなのか、ってあたりが見えないのでどう判断したら良いのかが分からない。

 というかたった3人のエディターが24時間フルに活動したってどうにか出来るレベルではないのが今の虚実にあふれかえるネット環境。次々に湧いて出てくる情報のどれを選んでそのファクトをチェックするのか、その判断は誰がするのか、ってあたりも考えないと組織の公正性は言いきれない。個々のメディアに出てくる情報のファクトチェックはそれこそ個々のメディアが行うべきものだけれど、そうした機能が停滞している状況で外部の機関として判断を下し、お墨付きを与えるのを商売にするってことなのかなあ。そういうことはしないんだとしたら、左右を問わず誤情報はすべて扱ってことになるのかなあ。何のために? そこもやっぱり分からない。

 GoogleとYahoo!がお金を出すのは自分たちが運営しているプラットフォームの上で誤情報が出回り損害を受けるのを避けるためだとしても、その結果としてパージされる情報提供元が協賛金を出すことでパージを逃れるようなことが起こったら信頼も公正性もすべてが吹っ飛んでしまう。独立した機関として日々粛々と審判を下していくのだとしても、そこで取り上げるファクトを選ぶ段階である程度のカラーは出てしまう。選択を行うことが一種のメディア的な活動だとしたら、その活動をもチェックする機関が必要になるけれど、それはちゃんと機能するのかなあ。ネットメディアを渡り歩く人たちのメシのタネに堕さないことを今は願う。


【9月27日】 10月スタートのアニメ番組について考えて欲しいと言われて思いついたのは「うる星やつら」の復活でも「チェーンソーマン」の爆発でもなく「ポプテピピック」の第2期スタート。破壊的で暴力的な原作に毎回異なる声優のシャッフル起用というとてつもない企画をぶつけた上に、各エピソードごとにクリエイターを変える大技を掛け合わせて億兆もの面白さを見せてくれた第1期を鑑みるに、それを超えてくれるだろう第2期が心から楽しみで仕方が無い。

 やっぱり第2期に当たる「PUI PUI モルカー DRIVING SCHOOL」で監督を務める小野ハナさんが、制作を担当するUchuPeopleでもってポプ子とピピ美がファンキーなダンスを踊る映像を作って提供したのが第1期だった訳で、これから来るインディペンデントなアニメーション作家を商業の世界でも通用するんだと見せてくれるショウケースとしての機能が、今回も果たされるとしたらいったい誰が出てくるのか。そんな期待も浮かんでしまう。個人的には幸洋子さんとか観てみたいけどどうかなあ。「モルカー」ともども期待大。

 仕事場でAbemaTVを流して安倍晋三元総理大臣の国葬儀の中継を見たり聞いたり。献花の順番にある意味で日本人の序列めいたものを突きつけられて庶民はだから無視するに限ると強く思い直すのだった。皇族のそれも天皇陛下や上皇陛下の勅使が最初に来てそして皇族の方々が続くのは当然としてその次に三権の長と来てその経験者から大臣に国会議員と続いた流れに国では国民が信任したに過ぎない国会議員が国民の上に立っていることを改めて思い知らされた。そこにあらずんば上流にあらずっていうか。

 まあでもそうやって粛々と献花していく選民たちの儀礼に素直な態度に比べると、後からわらわらと湧いてきた下々の傍若無人ぶりにはただただ辟易とさせらえるというか、撮影を遠慮して欲しいと事務局がインタビューに答えていたにもかかわらず、禿げた頭をしたテレビ番組の構成作家は祭壇に飾られた遺影に尻を向けて記念撮影をしているからなにをか況んや。自分は友だちだと嘯くのは勝手だけれどだからといって尻を向けて良いなんてことは絶対にない。

 親しい仲にも礼儀あり。撮影すら遠慮して追悼する姿をこそ日本の誇りとして尊ぶべきところを開き直って諫言を罵倒するんだからもはや処置なし。これを機会に現政権が遠ざけてくれれば良いんだけれどそこは未だに掬う派閥の自称後継者たちが影響力を考え取り込もうとするんだろうなあ。ただのイタコ芸に過ぎない完全無欠のニセモノのAI安倍晋三元総理を持ち上げて涙を流すような態度も不敬だとか不謹慎だと思わないのと同じ。讃えてさえいれば何を言ってもどう振る舞っても赦されると思っているんだろう。そんな国に誰して去って行く人を咎めようがないなら、少しずつでも元に戻っていくのを祈るしかない。

 ライブの予約券目当てに「劇場版マクロスΔ絶対LIVE!!!!!」の特装限定版BDを買った足で新宿ピカデリーに寄って「パンダコパンダ」の上映を見る。有名すぎるくらいに有名な作品だけれど通してしっかり見たことが実はなかったのでありました。とはいえ相当に昔の作品が今劇場でかかってどれくらい来るのかと見渡すと、結構な人数が見ていて女性もいたりして、長い時間の中で宮崎駿監督の幼女大好きな感性が無邪気な子供と動物の触れあいと認識してもらえるくらいになっていたことを思い知った。あるいは猟奇的なパンダの振る舞いですらも、トトロの分身くらいにしか思われないのかもしれないなあ。

 なるほど「崖の上のポニョ」の水没したビジョンも「雨ふりサーカス」から来ていたんだなあと納得。静岡が大変な時に見ていて良いのかとも思ったものの遠い昔に作られた、まだ日本が水害に見舞われっぱなしだった時代を明るくしようとした意図もあっただろう作品としてむしろここから前向きさを感じ取って欲しいと言い訳。水でいっぱいの世界の水面下から上を見上げる構図とかよく描いたものだよなあ。本当に水があるように見えるから。あとは動きの楽しさ。Aプロらしいといえば言えたし「未来少年コナン」的とも言えた。つまりは集大成。そこから分派してスタジオジブリの各作品があったんだなあ。過去作を見るのは大切と理解。押井守監督の「ダロス」もまだ見ぬ原点として残しているからこれを機会に見てみるか。


【9月26日】 例の朝倉未来選手とメイウェザー選手との対戦でメイウェザー選手への花束をリングに捨てたIT会社社長にして政党の代表者が東京スポーツあたりのインタビューに答えて、メイウェザーが日本を舐めた態度を取っていたからお返しをしたまでだって話をしていて、まあそんなことだろうとは思ったものの一応は神聖な対戦の場におけるセレモニーで見せる態度ではないってことは言えそう。

 そんな汚名を得ても今は知名度が勝る世の中だって計算もあるんだろう。NHK党から出た海外に行ったまま帰ってこない議員とか真っ当な世の中だったら絶対に当選しないしさせちゃいけないにも関わらず、人気投票的に票が集まって当選してしまう。それで未だに帰国せず議員らしい活動は何もしていない。でも辞めさせられない。そういう世の中にしてしまった責任はこちら側にもある訳で、倫理と論理に裏打ちされた行動がちゃんと評価される世界にしていかないと、とんでもないことになって行きそうでいろいろと恐ろしい。

 とか言っていたら安倍晋三元総理のAIなんてものが登場して驚天動地。その声音をディープラーニングだか何かで読み込ませて再現しつつ、安倍元総理が言いそうなことを言わせている音声がサイトで流されていて、それを安倍元総理が大好きな人たちがこぞって褒め称えて感動して感涙までしているところに末法の世を感じてしまう。あるいは地獄の蓋が開いてしまった感じというか。同じ事を幸福の科学が守護霊と言いつのってやっても騒動になるのに、こちらは文句どころか大歓迎する様を見るに付け、もはや安倍晋三元総理は宗教的な偶像なんだなあという思いが募る。

 遺族の方に了解を得ないで勝手に亡くなった人の言葉を合成する倫理的な問題があることは明白で、それに引っかかりを覚えず讃える人たちのヤバさは当然あってしかるべきだけれども、そこまで深く考えない一般の人たちが、有り難がって受け止めることくらいは納得はしないけれども理解はできる。ただいわゆるジャーナリストであるとか評論家であるとか国会議員であるとかいった人たちが、讃えて持ち上げるのはいったいどういう了見なんだろう。

 安倍さんをAIするならばそれこそ亡くなった人の言葉を捏造するんじゃないとしかりつけるどころか、有り難がって褒め称えるのは自分たちが崇めてきた安倍元総理本人に失礼だって気がまるで見られないのが気にかかる。あと事実に即して報道するのがジャーナリストであるにも関わらず、いかにも言いそうではあっても実際には言ってない言葉を取り上げて褒め称えるのも自分たちの商売が世って立つ事実といったものに真っ向から背を向ける振る舞いで、それを可笑しいと思えないのはもはやジャーナリストでもなければのフィクション作家でもない。

 それが赦されるなら安倍晋三元総理がやってそうな奇妙な事柄を独白として喋らせたって文句は言えない。自分たちの耳にさわりが良いことだけを“事実”かのように取り上げる人たちの書くこと話すことを一切信じてはいけないって言ったところで、そうした取り巻きの賞賛も含めて宗教と化しているからもはやどうしようもないのかも。どうしたものか。どうしようもないものであるか。

 長編アニメーション映画「ぼくらのよあけ」を試写で見た。阿佐ヶ谷アニメだった。杉並アニメだった。団地アニメだった。SFアニメだった。原作は今井哲也さんの漫画だけれどちょっぴりとぼけた雰囲気があるキャラクターのフォルムをくっきりとさせたことで小学生の日々にグッとリアルな感じが出て来て「雨を告げる漂流団地」の小学生たちにも似た子供ならではの心理がより迫ってくるようになっていた。とはいえ子供たちだけだとどうしても誤解があったり理解したくなかったりしてギスギスしてしまうところを、大人たちのサポートがありナナコというオートボットの世話焼きがあって収まるところに収まる展開に気持ちも落ち着いてその瞬間に向けて結束することができた。

 宇宙からかつてやって来た探査機を子供たちが宇宙へと返すというストーリーは展開も含めてほぼほぼ原作どおり。団地がまだ残る今とそれほど変わらない景色の中に空中をふわふわと漂うオートボットがいたり空間に投影されるディスプレイがあったりして背景とテクノロジーとのギャップを感じさせるところもだいたいそのまま。漫画だと同じタッチで描かれるため溶けこんでしまうのが、アニメはキャラクターと背景とメカとがそれぞれに独立したトーンを持っているためどうやってそれは動いているんだといった不思議な気持ちにさせられた。

 親の代からしばらく時間が経っての再挑戦になってしまった理由にはあまり踏み込んでいなかったけれど、やむにやまれぬ事情があってそれでも受け継がれて果たされようとする。その結果として何か素晴らしいことが起こる訳ではないけれど、誰かの役にたつというのはやっぱり嬉しいこと。その喜びを味わわせてくれる物語と言えるだろう。2時間あるけど長いとは思わせず積み重ねるようにして展開を描き引っ張るようにしてラストまで連れて行ってくれる構成は原作の巧さでもあり脚本の確かさでもあると言えそう。

 声を演じる杉咲花さんは「サイダーのように言葉が湧き上がる」のスマイルとはまた違った男の声をちゃんと演じきっていたし、オートボットのナナコを演じた悠木碧さんはオートボットとしか思えない声を出し続けて流石と思わせてくれた。花澤香菜さんも細谷佳正さんも相変わらずの巧さ。津田健次郎さんの高校生声はうん、そういう高校生もいるかもしれないなあ。


【9月25日】 暗くなると寝てしまうので暗い部屋では寝てしまうと家を出て、千葉へと出向いてドトールでしばらく仕事した後、千葉市美術館の裏にある名前のないラーメン屋に行って二郎系のラーメンを一杯。分厚い肉に太めの縮れた麺と野菜が入ったラーメンはもりもりと食べられてなかなかに美味。船橋にある無限大でも似たようなのは食べられるけど背脂がきいてるところが千葉とはちょっと違うのだった。火曜日と金曜日に提供しているという煮干し系も食べてみたいけど平日に千葉に行く用事はなかなかないからなあ。いや行こうと思えばいつでも行けるんだけれど。無職だし。

 行列もそれほどせず食べられたので昼前には千葉市美術館に入って「新版画 進化形UKIYO−Eの美」を観る。いわゆる新版画という奴をメインにしてその前後の浮世絵錦絵から進化した明治大正昭和の版画を集めて見せる展覧会は、スティーブ・ジョブズが愛したり「平家物語」や「サイダーのように言葉が湧き上がる」といったアニメーションの背景画に影響を与えたりした新版画の色彩やらディテールやらを間近に観られる絶好の機会になっていた。「平家物語」「サイダーのように言葉が湧き上がる」の美術監督や監督たちが参考に挙げた吉田博の作品もずらり。「米国シリーズ」が6点並んで観られるなんてこれは結構良いんじゃないかな。

 面白いのは前史的なところをちゃんと抑えていることで、とりわけフリッツ・カラペリとかチャールズ・バートレット、エリザベス・ケースといった海外の画家が日本へと赴いて学び逆に影響も与えて生まれた版画を並べているところ。ディテールこそ洋画でともすればクリムトとかエゴン・シーレ的なところもあるけれど、その輪郭線がシンプルになって表情も浮世絵のように様式的になっていったりして日本画に近いものになっていくところが面白い。それでいて色調は淡かったり暗かったりするところが洋画的。そんなハイブリッドを受け継いでさらに進めたところに伊東深水がいて川瀬巴水や吉田博が生まれたのかと思うと日本スゴイだけでなく美術スゴイとここは改めて思うべきなんだろう。

 ヘレン・ハイドやバーサ・ラムといった外国人の画家の特集もあってそうした人たちを除外して語れない分野なんだと知れたのが大きな収穫。一方で美人の端整な顔立ちが良かった山川秀峰や写楽だとか歌麿といった往年の浮世絵の役者絵を大正に蘇られたかのような山村耕華とか名取春仙の仕事も見られて川瀬巴水や吉田博が巨頭としてあげられがちな新版画にも豊穣な世界があることが分かったのも収穫だった。ジョブズが初代マッキントッシュのデモンストレーションで見せたという作品もあって、金持ちになってから新版画に目覚めたわけじゃなかったことも知れたけど、それだけに集めた新版画が今どうなっているか気になった。コレクション展とかやってくれないかなあ。

 千葉駅まで歩く途中でチーバ君と駅長犬がステージに立っているのを見物。それから千葉駅まで行って万葉軒のJUNBOとんカツを買って晩ご飯にしつつ船橋へと戻ってVELOCHEでインタビュー原稿を仕上げて送稿してお仕事は終わり。合間にネットで朝倉未来とメイウェザーのエキシビションマッチの様子を見ようとしたらなにやら不穏な出来事があったようで騒がしいことになっていた。メイウェザーに花束を渡す権利を買った政党の党首が素直に渡さず花束をリングに落としたとかで、そりゃあ行儀の悪いこと悪いこと、護防をキャッチフレーズにしている政党が日本人の無礼ぶりを全世界に見せつけてずかしいといった声が湧き上がった。

 あるいは当人としてはにっくき米国からやって来た金の亡者に日本人の矜持を見せつけたつもりだったのかもしれないけれど、そうした攘夷が通じる相手は「はじめの一歩」のホークみたいに日本を舐めた態度をとっている相手くらい。その点でメイウェザーはユルい態度は見せていたけど一応はボクシングをする気はあっただけに政党党首はハズしてしまった感じとなってしまった。とはいえそんな党首を持ち上げていた編集者が擁護もせず意も汲まず真っ向非難したのは何というか変わり身が早いというか。そこで逆張りをするようなキャラクターかと思っていたけど空気には流されるってことなのか。やれやれ。


【9月24日】 どうやら事実ではなかったようだけれども猫に噛まれた傷から入った最近で敗血症を起こしたかもしれないと亡くなったラーメン屋の店主が言われた件は、愛猫であっても噛まれた時には用心が必要ってことを改めて強く思わされた。今は飼ってないけれども昔は猫が家にいっぱいいたりして、引っかかれたり噛みつかれたりしていただけにその傷が、もしかしたら大変な事態になっていたかもしれなかったとすると、単に運が良かっただけなのかもしれない。猫以外の野生動物にはさらに悪い病気もあるらしいから用心用心。とりあえず見渡して出そうなのはタヌキかな。新宿駅とか良くいくし。

 「るろうに剣心」が噂になっていて何かとみたらノイタミナで新しいアニメが放送されるという話だった。「うる星やつら」といい「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」といい「シャーマンキング」といい「魔方陣グルグル」といい以前もアニメーション化されたものを再アニメ化する動きがここのところ活発で、こんなにも新しいIPが生み出されているにもかかわらず古いものに頼る業界は大丈夫なのかと思う一方で、ちょっと前に行われたイベントに大勢が集まった状況を鑑みるなら、未だに需要があるということで再アニメ化も当然の流れなのかもしれない。

 ここで気になったのは声の起用で、「うる星やつら」が極力前のシリーズの声に寄せようとしていたのに対して「るろうに剣心」は緋村剣心の声が以前は宝塚出身の涼風真世さんが女性ながら声を担当していたのに対して、今回は男性の斉藤壮馬さんが担当することが発表になった。PVではまだ一言「おろ」というセリフしか当ててないけれどもそこから想像できてしまう剣心のイメージは、ユルと優しさを漂わせながらも締める時には締めて来る剣客といった感じ。以前の涼風さんはなよっとした雰囲気を醸し出していて、それがある意味で剣心のイメージを形作っていただけに最初は違和感が気になるかもしれない。

 この変更は日テレ版の「ドラえもん」が最初は富田耕生さんだったのが途中から野沢雅子さんになり、テレ朝版で大山のぶ代さんに引き継がれた時の逆のような驚きの事態。ただ原作者的には今回の声優に忖度がいっさいないとコメントを出しているあたりから、やっぱり声は宝塚女優ではないといった思いがずっとあったのかおしれない。「おろ」を聞いただけでもはや斉藤壮馬さんでのイメージがぐわっと広がった感じもあって、さすがは声優と思ったこともあるから、本番が始まってその声が広がれば自然と剣心になっていくのかもしれないなあ。寂しいけれども時代は変わるものなのだ。

 あちらこちらのカフェで仕事をしてから御徒町まで行ってキッチンDAIVEで巨大な弁当を買い込み田端へと行ってシネマチュプキタバタで第25回文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門優秀賞作品「幾多の北」及び「THE LETTER TO PIG」を観る。後者は短編アニメーションでユダヤ人への迫害を逃れようと豚小屋に逃げ込んだ過去を持つ老人が語り部となって学校で話すエピソードを聞く学生達が豚小屋の世界へと引きずり込まれていくという内容。世代間の断絶を感じさせつつ過去と向き合う必要性を訴えつつそれでも違和感を覚える若い世代の心情を描いたものってところかな。選考員として見た時はロトスコープ的な動きを簡略化した線と実写を交え描いた動きに興味が湧いた。

 「幾多の北」は短編ばかりだった山村浩二さんにとって発の長編アニメーション。といっても64分しかないもののそのうちの20分くらいはどうしても意識がワープしてしまう傾向があってひろしまアニメーションシーズン2022で見た時も途中の記憶がちょっと薄くなっていた。今回も前半に記憶の断絶が起こったものの後半は持ち直して変遷する世界の変化する諸相をぼんやりと長めながら映し出される言葉を噛みしめていくことが出来た。隣の人は船を漕いでいた。この作品がオタワ国際アニメーション映画祭で長編部門のグランプリを受賞したそうで、山村監督にとっては「カフカ 田舎医者」で短編部門のグランプリを獲得したのに続く異形。長短でグランプリって他にいるのかないないのかな。日本はそれこそ文化勲章でも出して讃えるべき才能なのにそうした才能を送り出して来た文化庁メディア芸術祭は終わってしまう。変な国。


【9月23日】 朝からインタビュー仕事をこなしてから池袋へと出て第25回文化庁メディア芸術祭の上映で「サイダーのように言葉が湧き上がる」を見る。何度も劇場で観てはいるけれども改めて観るとやっぱり音響が良い劇場で観てこその映画。牛尾憲輔さんによるノイズも環境音も使った音楽は細かいところまで鳴りひびいていて耳を澄ますと聞こえてくる音も含めて映画のシーンを表している。強く鳴る場面ではテンポ良く展開を促し観ている気分を引っ張り込む。映画に寄り添いつつ主張もしつつそれでもしっかり映像を見せてくれる音楽にはやっぱり包み込まれてこその味があるってことで。

 劇場は人でいっぱいでもう何度も観ている人もいるけれど、今回が初めての人もいたようで感動していた感じ。エスカレーターで後ろから降りてきた女子の2人組は田舎のショッピングモールが舞台になっていたのがツボにはまっていたようでいろいろと議論をしていた。これとか「ジョゼと虎と魚たち」とか「海獣の子供」といった単発の映画はパッケージが出ていてもやっぱり劇場で観てみたいので文化庁メディア芸術祭は貴重な機会だった。これがなくなった時にいったいどうやって見逃していたけれども評価の高い映画と出会えばいいのか。そんな機会を作って欲しいなあ、映画界には。そうやって裾野を広げてこその将来なのだから。

 劇場を出て同じ池袋のTOHOシネマズ池袋へと行って「PUI PUI モルカー」の上映を観る。全12話に10月から放送スタートの「PUI PUI モルカー DRIVING SCHOOL」の第1話がつく編成だけれど既に観たことも多いはずの上映を本当に沢山の人が見に来ていて、それぞれがTシャツを着たりグッズと持ったりしてファンの多さって奴を改めて感じ取る。すっかりと老若男女が愛するキャラクターになった感じ。本当だったらそこに「けものフレンズ」がハマっていたはずなんだけれど……って言っても詮無い。あの衝撃から明日で満5周年。仏壇にご飯でも供えるか。いやまだ死んではいないけど。

 新作はそうかUchuPeopleが制作しているのか。監督の小野ハナさんと同じ東京藝大院を出た当真一茂さんによるユニットが合同会社となって制作も請け負うようになった感じでまずは目出度い。でもって出来の方も遜色がない上にストーリー的にもなかなかにスリリング。ドライビングスクールというからてっきり自動車教習所の話かと思ったらちょっと違ってそれって交通け……いやいやそれはまだ自粛。でも相当に厳しい環境の中でドライバーとモルカーによるポリスアカデミー的な日々が始まりそう。来週上映の第2話も見に行こう。モルカーボールももらえるし。ぷいぷい。

 そこまで手を伸ばしていたとは元電通専務の逮捕された人。サン・アローが東京2020オリンピックとパラリンピックのマスコットキャラクターのぬいぐるみを作りたいってなった時に、そのライセンス許諾をお願いしようとしてライセンスの窓口だけじゃなくなぜか電通の元専務の会社にお金を払ってしまっていた。それだけ許諾を早くして欲しかったのかもしれないけれど、問題はそうすることで許諾が早まるライセンス事務局のガバナンスのぐちゃぐちゃぶりで、しっかりと管理ししっかりと手続きししっかりと処理してさせいれば起こらない問題をどこかで絞って権限が入り込む余地を作ってそこで金儲けをさせている。誰かが認めないとそんな風にはならないだろうし、誰も知らない状況でそんな風にもならないだろう。これはいよいよ根が深そう。他のライセンスだとかスポンサーでもやっていそうだなあ。新聞社とかどうなんだ。


【9月22日】  朝日新聞の文化庁メディア芸術祭の終了に関して起こっている声を集めた記事。日本アニメーション協会が出した声明についても触れられていて、「興行収入にかかわらず多様な作家性が評価され、夢がある。そんな場が切り捨てられないか」といった心配をしている。インディペンデントな作品だけなら映画祭も幾つかあって取り上げられるけれど、「劇場版鬼滅の刃 無限列車編」のようなとてつもない商業作品と並立する形で名前が取りざたされて、関心が広がるような機会にはならないだけに横串で取り上げる文化庁メディア芸術祭には意味があった。

 テレビシリーズのような作品も文化庁メディア芸術祭以外の場だと各種の映画賞はもちろん、東京アニメアワードフェスティバルですら人気作品をのぞくとその作家性ではなかなか評価されない。新潟国際アニメーション映画祭も長編が中心でテレビシーズは除外。となるといったい誰が「四畳半神話体系」だとか「映像研には手を出すな」のような湯浅政明監督のテレビシリーズに贈賞するのか。来年で言うなら「ユーレイデコ」のような画期的な作品を誰が取り上げるのか。そう考えるとやはり文化庁メディア芸術祭の顕彰中止は痛い。

 アメリカでいうところのアニー賞のようなものがあって、テレビシリーズも映画も含めて評価する精度があれば良いんだけれど、それを東京アニメアワードフェスティバルに求めて変わるかというと難しい。業界の団体が主催しているだけに業界の顔色がやっぱり気になってしまうから。その意味で公が大胆不敵に評価してくれた文化庁メディア芸術祭は大きかった。とはいえ今から再会を願っても叶えられないならどこかが改めて顕彰する仕組みを作るしかないかなあ。日本アニメーション協会と日本アニメーション学会とほか団体各種が決起するとか、ないかなあ。

 まさに子供の喧嘩である以上、まるで子供の喧嘩だと言うのは何の例えにもならないけれど、そんな子供の喧嘩を見せられて、子供の喧嘩なのだからとその心情に寄り添ってあげられる人には、どうしてあげるのが良いのかを考える機会になるだろうし、そうではなくて、子供の喧嘩の非論理性に苛々だけが募る人には、どうして何もしてあげようとしないのかと、物語の作り手に苛立ちを覚えるだろう。石田祐康監督のアニメーション映画「雨を告げる漂流団地」は、そんな風に見方を試す作品だ。

 19600年代に数多く建てられた「団地」と呼ばれる集合住宅群の多くが半世紀を経て古くなり、取り壊しや建て直しの対象になっている。その団地も取り壊しが進んでいて、住んでいた人たちはそれぞれに団地を出て、別の住宅に移り暮らすようになっている。同じ団地に住んでいて、幼馴染みだった航祐と夏芽も今は別々の場所に暮らすようになっていた。だからというより別の理由があって、一緒に遊び、同じサッカーチームでプレイをするくらい仲良しだったのに、今は関係がギクシャクとしたものになっていた。

 そして迎えた小学6年生の夏休み。航祐はクラスメイトの譲や大志とともに、取り壊しが進む団地に出るという"おばけ"を探しに入り込む。そこで入り込んだのが、航祐の祖父が暮らしていた部屋。土足で上がる大志に怒らず、自身も何かに反抗するような態度で土足のまま上がり込んだ航祐が見つけたのが、押入の中で眠る夏芽だった。自分の祖父ではなくても一緒に遊んでくれた人が暮らしていた場所に、深い思い入れがあったのだろう。そんな夏芽にも航祐は怒ったような態度を見せる。

 幼馴染みの男の子と女の子が、成長するに従ってお互いを意識するようになって離れてしまうのとは、少し違っている航祐と夏芽の関係には、自分の祖父であるにも関わらず、自分より仲が良いように思えた夏芽への嫉妬めいたものがあることがうかがえる。祖父が住んでいた部屋に、ちゃんと靴を脱いで上がっていたにもかかわらず、夏芽に土足で上がり込んでと言い放つ。なんて身勝手かと思われそうな場面だ。

 祖父との離別にまつわるエピソードも加わって、航祐の中にずっとわだかまりが残っていることもうかがえる。わかり過ぎるくらいにわかる感情であるにも関わらず、共感を誘うかというとやはりこだわりが強すぎるように見えて、もう少し大人になれよと思えてしまうけれど、小学6年生が次の瞬間に物わかりの良い大人になるなんてことはない。夏芽が口走る「のっぽくん」なる不思議な人物が現れ、そして航祐のことが気になって追いかけて来た令依菜とその友だちの珠理も巻き込んで、団地が見知らぬ海の上を漂い始めてからも、航祐は夏芽に怒り続け、夏芽も航祐にどこか臆するような態度を見せ続ける。

 最初はピクニックのようだった漂流が、備蓄していたブタメンを食べきって飲料水も飲みきって、ほとんどサバイバルと化してからも、航祐と夏芽は仲直りして危地を脱しようといった感じにはなかなかならず、反目を続ける。航祐をお目当てに入り込んできた令依菜は、自分の責任を棚上げして夏芽が「のっぽくん」と共に自分たちを異界へと引きずり込んだと言って責め続ける。無関係だったり、仲が悪かったりする人たちが危地にあって団結し、乗り越えていく感動のストーリーにはなかなかならない。

 子供とはそういうものだと、自分の子供時代を振りかえってあてはめながら見守ることができれば、『「を告げる漂流団地」は年齢的にも精神的にもリアリティを持った子供たちによる冒険ストーリーとして楽しめる。いや、楽しさというよりはつらさときびしさを感じながらも、かつて通った道だからと振り返りつつそうした苦さを噛みしめて、人は大人になっていくものなのだと鷹揚に構えて見ていける逆に、子供のころのそうしたちょっとした反目が、時間とともに固い壁を作ってしまったり、長い距離をとらせてしまったような思い出を持った人たちにとっては、苦さを感じさせる関係を延々と見せられることはなかなかに厳しいものとなる。

 フィクションなのだからすぐにでも大人へと成長して、苦難を克服していく様を見せてくれて、喜びを感じさせて欲しいと思えてしまう。その違いが、「雨を告げる漂流団地」を判断のしづらい作品にしている。食料が尽きてお腹を空かせたり、風呂にはいれず臭くなったり、ひどい怪我をして意識を失ったりと子供たちに与えられる試練も、リアル過ぎると背を向けたくなる人もいれば、だからこそ伝わってくるスリリングさがあると考える人もいる。激賞も正しいけれど批判も間違っていない映画への評価を、どちらかに寄せることは難しい。それぞれの立場から褒貶を思いつつ、相手の立場も慮って考える。それが大人になるということなのかもしれない。


【9月21日】 日比谷で仕事があるので朝からお出かけ。とりあえず日比谷のウェンディーズ/ファーストキッチンにこもってライトノベル絡みの原稿を書く。アサウラさん特集。デビューした当初から女子高生とガンアクションを中心に描いてきた人だってことを改めて振り返りつつ、「リコリス・リコイル」のノベライズはそっちよりもスイーツ分が多いことに言及。本編との補完関係にあることにも触れてどっちも読んだり見て置いた方がいいよと行っておく。パッケージに付属の書き下ろしはアサウラ節前回というからガンアクション中心なんだろうか。まとまるのは数年先になるだろうから買っておくかなあ、ここはひとつ。

 時間が来たので第35回東京国際映画祭のラインナップ発表会見へ。どんな作品が並ぶかと関心を向けていたジャパニーズ・アニメーションでは「雨を告げる漂流団地」「夏へのトンネル、さよならの出口」「ぼくらのよあけ」と今年公開の映画が3本に「幻魔大戦」「メガゾーン23」「機動警察パトレイバー2 the Movie」「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」と東京を描いた旧作が4本、そして55周年を迎えた「ウルトラセブン」のエピソードといった具合で、中では「メガゾーン23」を久々に劇場で見られるようで嬉しくなった。

 去年は「犬王」があって「ぐっばい、ドン・グリーズ!」があって「フラフラダンス」があってと、上映前のプレミアな作品が3本もあったけれど今年はそうした先行はなし。やっぱりアニメーションはぎりぎりまで作っていることが多くて、事前に映画祭なんかに持って行くのが難しいらしい。これがアヌシーあたりを狙った作品ならそれまでに作っておくこともあったかもしれないけれど、時期が時期ではそれも無理。となると「犬王」は相当に早く完成していたんだなあ。湯浅政明監督の手の早さもあるのかな。

 近い公開の「すずめの戸締まり」とかワールドプレミアすればメディアも集まっただろうけれど、それもないのはやっぱり看板作品だからかな。いろいろ難しい中でテーマを設定して作品を並べたプログラミング・アドバイザーには拍手。期待はあとは4Kでの上映となる「ウルトラセブン」か。ペガッサ星人とかキングジョーとかパンドンとかを大きなスクリーンで見られるのならこれはファンとして嬉しい。「ウルトラマン」よりも好きなエピソードも多いだけに頑張ってチケットをとろう。舞台挨拶もいいけど何かシンポジウムがあれば取材にも行きたいけれど、クリエイター陣でご存命な方って誰だろう。

 普通の映画ではコンペティション部門に入った「マジカル・ガール」の監督による「マンティコア」って作品に興味。ゲームデザイナーの若者が主人公らしいけれども魔法少女のコスプレ衣装を求める娘が登場した「マジカル・ガール」に続くだけに日本的な趣味もいろいろと散りばめられていそう。それでいてストーリーは残酷にクールなものになっていくに違いない。期待大。あとはフランスの戦隊ヒーロー物っぽい「タバコは咳の原因である」という作品。しばらく前からネットにコスプレヒーローのスチールが上がっていて気になっていた作品だけにこれを逃す手はないけれど、早速話題になっていて争奪戦も必死か。P&I上映があれば良いんだけれど。

 そんな華やかな映画祭に華を添える役割をあてがわれたかのようなイメージをもたれがちなプログラミング・アンバサダーに去年に続いて就任した女優の橋本愛さんが、のっけから語ったのがハラスメントの問題であったりLGBTQへの視線であったりとなかなかに社会派で驚いた。映画業界が率先して通達を出すなり改善を勤めるなりして取り組むべき課題でありながらも、日本映画制作者連盟を頂点とする映画界とやらが特に動く気配がなかったなかで、そうした業界からも支援を受けている東京国際映画祭はやはり世界を意識せざるを得ないということなんだろう。それが標準なのだから。

 先人達が生み出してきたものは否定せずそのためにはらった努力も讃えつつ、けれども今の時代にそぐわないこともあるなら改善していくべきといった両方に配慮したコメントを、堂々と披露してくれた橋本愛さん。そこにどこまで映画祭全体の“総意”めいたものが乗っているかは分からないけれど、まさしくアンバサダーとして何かを発信できる立場をしっかりと理解し役割を果たしてくれた。自身への軋轢もあるにも関わらず、厭わず挑んだ橋本愛さんの映画はこれから必見。いやこれまでもか。


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