縮刷版2015年11月上旬号


【11月10日】 何か別のアニメーションのパロディとかをやっている訳じゃないのに笑ってしまうのは、繰り広げられているギャグがそれ自体とっても面白いものだからなのか、それとも作品自体が「おそ松くん」のパロディであって、その変奏として繰り広げられる様々な事象に、そうかこういう変化の付け方があったんだと思えるからなのか。判断に迷うところだけれど、かつて赤塚不二夫さんの漫画を原作にしたアニメーションを見て育ち、もちろん漫画も読んで育った人間には、後者の味もちょっとだけ滲んでいるとして、そうでないこれが純粋に赤塚ギャグであり、「おそ松くん」とのファーストコンタクトである人間でも、面白がって見ていられるところにテレビアニメーション「おそ松さん」という作品が持つ凄みがありそう。

 イヤミでありデカパンでありダヨーンでありチビ太でありハタ坊といったキャラクターの造型を、僕らの世代はだいたい知っていてそれらが復活して繰り広げるギャグ、あるいは、過去を思い出せつつちょっぴ大人になって見せるだろうギャグって奴を感じ取って楽しめる。そすいたギャグがどれだけ赤塚作品から持って来られているのか分からないけれど、「天才バカボン」とかだけじゃなく、「週刊文春」に連載されていた「ギャグゲリラ」とかも読んでたりしてナンセンスの上にナンセンスを重ねて来るその爆発力を見知っていると、そうだよねそうなるよねっていった感じに、繰り出されるギャグをナンセンスもブラックも含めて堪能できる。赤塚不二夫の再来をそこに感じ取れる。

 あるいはそうした世代は「おそ松さん」という作品の持つ凄さって奴を、純粋無垢には感じ取れていないのかもしれない。1990年代に生まれて、アニメーション化された赤塚不二夫さんの作品もほとんど観ないで育った世代の人たちが、今という時代にこれを見て、それも第1話みたいなアニメやらなにやらのパロディに笑い喜べるエピソードとは違い、キャラクターの造型とその関係性から繰り出されるナンセンス極まりないギャグ群を、どういう風に受け止めているのかがちょっと知りたいところ。それとも遺伝子のレベルで赤塚ギャグっていうのは受け継がれてて、普通に楽しんでいるんだろうか。両さんのようなギャグ漫画に受け継がれたそうしたテイストを間接的に味わって育ったその体で、本家本元を受け止めているんだろうか。知りたいなあ、20代による「おそ松さん」論。期待しよう。

 そんな「おそ松さん」のエンディングが、おでんを使ったストップアニメーションになっているのは知られていることだけれど、それを作ったドワーフといえば、普通だったらNHKのキャラクター「どーもくん」とか、映画にもなった「こまねこ」なんかと手掛けたアニメーション制作スタジオとして引き合いに出されそう。でもいろいろ見ていると、これは「日本アニメ(ーター)見本市」で配信された安野モヨコさん原作の「オチビサン」に似ているねえって話が割とあって、そうかそういう風に辿っていく流れが出来ているんだなあと思うと同時に、割と唐突に始まった「日本アニメ(ーター)見本市」が、以外や広い層に見られその作品群に関心を集めていたってことが分かって興味深かった。

 もともとがアニメーションって普通にテレビ番組として放送されている商業アニメーションだけじゃなくって、いろいろな表現技法があってそして見せ方もあるんだよってことを知ってもらうと同時に、そうしたものがどうやって作られているかにも関心をもらって、アニメーションを見る目を養い未来のアニメーションの観客を増やしていって豊穣なアニメーションの世界を作ろうっていった意図の下に始まった「日本アニメ(ーター)見本市」。だから配信される作品も商業に近いものもあればPVみたいなものもあり、フル3DCGもあればコンテ撮でもって動きのダイナミズムを分かってもらうようなものもあってと実に多彩。

 そんな中で「オチビサン」はコマ撮りのストップモーションという技法を使って弁当とかいろいろな素材を使い、1つ1つを撮影しながら1本の映像へと仕立て上げた。見てこれが実物を動かして作られているんだと知って、そんなことが出来るんだと驚いた人もいるかもしれない。CGじゃないんだとも。というかストップモーション自体はアニメーションにとって基本的な技法で珍しくもないし、そうやって作られた作品はテレビのCMなんかにも使われたり、Eテレで放送されたりして今も普通に広まっている。ただいわゆる商業アニメにしか興味がない人の関心を引き付けるかというとむずかしいところで、「どーもくん」のようにNHKという媒体の乗ってキャラクターとして広まっていれば見知ることもできるけど、最近は昔ほど出てくる訳じゃない。

 そんな状況下にあって「オチビサン」という作品名が「おそ松さん」のエンディングの元ネタ的に出てきたってことは、普通にアニメを見ている人も「日本アニメ(ーター)見本市」を見て、多彩な技法を持ったアニメーションの存在を認識していたってことになる。庵野秀明という名前とドワンゴという組織がフックになって衆目を集め、様々なアニメーションをそこでぶつけることでアニメーションというじゃんるの裾野を広げる役割をちゃんと果たし、関心の幅を広げる役割も果たした、って意味でやった価値があったという印象。これで3期まで来て終わってしまうのは寂しいけれど、ちゃんと役割を果たしたってことで受けて何か新しい動きが出てくれば良いんだけれど。「アニメミライ」や「日本アニメ(ーター)見本市」といったところが撒いた種。無駄にしちゃあいけないってことで新しい作品が出てきたら、応援していける限り応援していこう。

 週刊ダイヤモンドがテレビ局の大変さを特集しているってんで見たら大半がフジテレビやばいって話だった。視聴率が下がって広告スポンサーが激怒して広告代理店が買い切りを遠慮し開局以来のスポンサーだった企業も出してくる見通しのずさんさに堪忍袋の緒が切れかかって改善しないなら見捨てるとまで言っている。こりゃあ大変。だって視聴率なんて一気に上がるものじゃなくって改編があったらしばらく様子を見て上がっていくものだし、ドラマだって仕込みがあるから今の体たらくの中で作られただろう企画が即効性をもって数字を押し上げるとは思えない。っていうかすでにずっと言われていながら改まってこなかった状況が、ここに来て改善に向かうとは思えないだけに凋落はまだ緒に就いたばかりでそして、どん底までまっしぐらに落ちていく可能性も見えたりする。

 記事によると評判の「孤独のグルメ」も最初は扶桑社が本を出していて、共同テレビジョンが制作しているんだからとフジテレビに話しを持っていったら蹴られ、だったらとテレビ東京でドラマ化したら大受けしてシーズンを重ねることになった。今さら歯がみしたって遅いけれどでも、隣の芝生の青々と茂っている様をみればどうしてやらなかったんだって言いたくもなるだろうなあ。もっとも、フジテレビが企画を通したところでキャスティングに口がはいって松重豊さんをキャスティングすることはなく、あの独特の雰囲気とは違ったトレンディーなグルメドラマになって、1クールで終わっていたかもしれない。そうやって企画を潰しまくった果ての惨状。どう足掻いたって立ち直れないとなるならそれは、経営に跳ね返り関連会社への支援にも跳ね返ってそして……。明日は暗いなあ。

 いやいや大丈夫、だって不動産事業が儲かってきたからってさも得意げに言ってた元フジテレビのアナウンサーなんてのが現れて、テレビ局がテレビだけやるなんて誰が決めたんだって吠えていたけどお前、テレビが免許業種だって知っててそれを言っているのかと。公共性の極めて高い事業であって国民の財産であるところの電波を借りて商売をして、他の参入を許さない環境にあって独占的な利益を得てきたのがテレビ局。それで良い番組を作り良い報道をしてきたから電波の独占だって許容されていたんだけれど、そうした独占で得た利益なり、電波という財産を使って商売をして儲けたり、不動産だなんて放送と関係ない事業に投資をして許されるはずがない、ってのが真っ当な頭を持った人の考え。ダイヤモンドでもその辺りをちゃんと指摘しているのに、元フジテレビのアナウンサーは不動産会社になっちゃえと焚きつける。ポン酢過ぎ。追い出されるもの当然かなあ。やれやれ。


【11月9日】 潔子さんがあんまり喋らず残念無念な「ハイキュー!!セカンドシーズン」だけれど、やっと登場した烏養一繋が思いのほかにシャキッとしていて背丈もあってバレー部の監督らしさって奴を見せていた。あげるトスもなかなかのもの。その動きから翔陽は学び感じ取った孫の繁心も影山にトスの極意を伝えてそれが完成し、翔陽のジャンプと合わさった時に烏野は日本に冠たるバレー強豪校になるのかそれともならないのか。だってやっぱり付け焼き刃だしタレントも圧倒的に不足しているし。宮城県の予選を抜けることだってむずかしいんだけれど、そういう山を感じさせることなく日々練習に励んでは、成長していく姿を見せてくれるから見ていて気持もほころぶんだろう。あとは潔子さんがもっと喋ってくれたら言うことなし。来週から夏合宿。どんなスゴい技が飛び出すか。楽しみたのしみ。

 A級ふたケタですら手玉にとった昆布インフィニティをきっとワンパンチでもってぶち倒して、わかめが手にはいったからと喜んで部屋に戻ったサイタマが、実はとてつもなく強いことをヒーロー協会は把握できず、そしてサイタマ自身も倒したのがA級ヒーローを倒した超絶的に強い怪人だと気付かないところに何か不幸があるというか。それだからこその「ワンパンマン」だというか。周辺に雑踏があるのにサイタマが暮らしている周辺には人があまりあるいていなかったのは、そこが怪人の異常発生区域として閉鎖されていたってことをやっと理解したけれど、そういう事情すら知らず気にしないで暮らしているんだから強いというか。強すぎるというか。その強さに怪人すら怯え恐れヒーローたちだって近寄らないという状況を、いったい誰が気付いてサイタマを引っ張り上げるのか。そんな興味を抱きながらこれからを見ていこう。タツマキとフブキの登場。やっと色気も出てきたし。色気があるかは別にして。

 デリケートさにかけるというか、はっきり言うならひどい見出しで大丈夫なのかととうか。「いちえふ」っていう福島第一原発で働いた経験を描いた漫画の作者、竜田一人さんがインタビューに答えているんだけれど、その記事についた見出しが「『被曝で白血病』はデマ」というもの。ここから浮かぶのは、原発での被爆では白血病になんてならないぜという強い主張で、それを煽り騒ぐ勢力に対する暴力にも近いニュアンスを持った言葉だろうけど、そんな激しい言葉を果たして竜田一人さんは言ったのか? って記事を見たら言ってない。本文にはそんな言葉は少しも出てこない。

 この一件は、制度的に原発で働いていて白血病で死亡した人には労災の申請が認められるというもので、それが本当に原発由来かどうかってところは議論されていないっていうことが、報道ではあまり伝えられていないということを指摘したもの。白血病と被爆の関係は科学的にはまだよく分かっていないといった言葉も添えられていて、けれどもメディアによっては関連性を仄めかしていたところもあって、ちょっと注意してよっていうニュアンスでの発言ではあったんだけれど、決して科学的に否定されたとは言ってない。主張もしていない。あうりは蓋然性として、あるいは状況として、もっと引くなら印象としてそういう雰囲気もある中で、よりいっそうの調査研究が求められるといった気持を含んでの発言だったかもしれない。

 だから竜田一人さんもだから怖がらないでとは言うけれど、原発を舐めてかかって言いとは多分思ってないにもかかわらず、報道は、というかそれに添えられた見出しは竜田さんのそうした気持を忖度せずに、「デマ」という言葉を使って完全否定しようとしている。もしも原発によって白血病になったということがデマだとしたら、原発では白血病にはならないよということもデマであって、相手の言葉をデマだと批判するその見出しでもって、悪質なデマゴギーを繰り出している矛盾に気付いていないか、気付いていてもその方が自分たちの主張に合うと内容にないことを敢えて持ち出し、見出しを付けたメディアの人たちの浅ましさがどうにこうにも薄ら寒い。そういうことでしかアクセスを稼げないんだろうなあ。そういう記事がトップに持って来られるくらいだし。やれやれとうか。本当に先が思いやられるなあ。

 名古屋から2時間かけて豊橋市にあるキャンパスへと通っていた身からするなら多摩にあっても東京の西あたりなら1時間くらいでたどり着けそうな中央大学をそれほど僻地とは思わないんだけれど、ほかに大学もない名古屋とは違っていろいろと賑わいもある都心部を離れて何もない場所に通うほど、選択肢が少ない訳じゃない東京でだったら他の大学に行くからといった考えも働いて当然ってとこなんだろうなあ。今もそりゃあ高い人気と実力を誇っているとは思うけれど、そうした実力を証明する司法試験に関しては、法科大学院ってのが多摩ではなく市ヶ谷にあって遠隔地というハンディを持たない状況もあるだけに、法学部もこれで都心部に移せばさらに人気も高まるって思惑も働いたのか。そこが競争の激しい東京の大学ならではの選択だろう。でも文京区に持ってくるとして、そこにある理工学部はどうなるんだろう。玉突きで市ヶ谷に行くか。多摩に追い出されたりするのか。気になる人も多そう。どっちにしたて2020年とかの話。その頃には人口も減って大学の競争も熾烈になるだろうし、やっぱり都心回帰は必須か。乗れない大学は潰れるか。名古屋はどうなるかなあ。

 吸血鬼だけれど日光にも十字架にも弱くなくって血を吸っても相手を吸血鬼にはしないという、そんな状態でもパワーだけは亜人で最強といった一族に産まれた少年は、けれども血を吸ったらおなかがゴロゴロとしてしまう特異体質でそうした状態を覚悟で栄養補給をしていたけれど、ある日街でごろつきどもから助けた少女の血を吸ったらこれが腹にこなかった。なんという奇跡。といっても相手が悪かった。お嬢様。大財閥の。おまけに幼い彼女を慕って血を分けてもらおうとした少年は、女の子ばかりの小学校に忍び込んでプールサイドまでたどり着かなくてはいけない試練を課され、そして彼女が目論んでいた亜人たちとのネットワーク作りに意図するとせざるとに関わらず巻き込まれていく。ってな感じの話が望月望さん「俺の胃袋は彼女に握られている。」(ダッシュエックス文庫)。血液パックも食べられないんじゃ、辛いよなあ。

 さて少年はといえば亜人たちが暮らしている集落にいって、その白い髪から一族でも疎まれている少女と出会い彼女の困難を救って血をもらったら腹を下した。人造人間の少女が彷徨っていて主人によって売り飛ばされようとしていたのを助けて血を吸ったらやっぱり腹を下してしまった。潰れそうな教会を建て直すために吸血鬼を狙ってやって来た修道女の少女の血もやっぱり合わなかったという、そんな苦境を経ながらも少年は亜人たちと仲良くなっていくんだけれど、それらを裏で操っている風情のお嬢様。彼女の目論みはいったい何か。少年に対する思いはあるのかそれともただの下僕扱いなのか。いずれにしても吸える血は彼女のだけという状況で、胃袋を狙われた憐れな吸血鬼の下僕生活がどこに向かうのかがちょっと楽しみ。翡翠ってお嬢様が何を狙っているのかも。彼女の血だけがどうして腹に来ないかも、ってそれはそういう設定だから? 違う? そこも気にして読んでいこう、続くなら。

 もうきっと総理の心のガバナンスが失禁状態に陥っているんだろうなあ、だから良識とか常識といったものがことごとく覆されて異常ともとれる振る舞いを平気で行い、奇矯さを際立たせてしまうんだけれど悩ましいのはそうした奇矯さを身内やらお仲間やらはそうとはとらず、逆に讃え褒めそやして認めてしまうこと。承認欲求の激しい総理の気持ちを宥めて落ち着かせることが何より大事って感じになって、無茶でも外に向かって言わなくちゃいけない。大変だねえ。ってことで韓国での朴槿恵大統領との会談で、安倍総理が体調を崩したという週刊現代の記事に総理の事務所が事実無根と抗議し、対応がなければ訴えると息巻いているとか。もちろん事実無根なら文句は言っても良いけれど、総理という最高権力者が法律をかざして言論に挑む大事ぶりってのをもう完全に失している。これで韓国が大統領への侮辱があった記者を訴えた時には権力が言論を訴えるとはとかいってるんだから二枚舌も二枚舌。それとも自分の言葉すらもう忘れてしまっているのか。自分が正しいと思うことの前にはあらゆる常識も吹き飛ぶのか。吹き飛ぶからこそこれだけの面倒が起こっているんだろうけれど。やれやれ。


【11月8日】 そして見たテレビアニメーション版「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」の前後編はファントムこと花房が登場して財産を無くした男に死への誘いを投げかけ導き破綻させるという展開を、どうにかこうにか櫻子さんが暴いて退けるといった展開で、ここで小説ではもうちょっと後から出てきて姿も見せず実在すら疑われる花房を、身近に存在する魔人のような存在として侍らせ絡ませていくといった感じになりそう。その方がサスペンスとして盛り上がるけれどもそれだとやっぱり狙われるのは正太郎。小説版でもファントムからのメッセージが届くようになって次第に絡め取られている感じがあるだけに、テレビアニメではもうちょっと早く向こう側へと引きずり込まれそうになって、それを櫻子さんが引き戻すっていった展開が見られるのかな。それはショタ愛なんだろうか。純粋な愛なんだろうか。愛玩動物への関心なんだろうか。いずれにしても羨ましい奴。あんな美女に慕われて。逝ったら頭蓋骨くらい差し出せよ。

 そして見た「ルパン三世」は大富豪の未亡人の化けた不二子が銭形を山荘へと連れ出しておいてそれをルパンが次元の操縦するヘリで助けに行っていったい何の得があったのかがちょっと分からないというか、銭形がいないうちに家捜しをする訳でもなくってその間に未亡人の方では地元警察が狭い隠し財産の在処を吐かせようとしていてそれを戻った銭形が駆けつけ救ってなかったはずの隠し財産をとりあえずルパンが奪ったと思わせ世間を惑わせ一件落着かと思いきや、実はあったのをルパンが見つけ奪うのかと思ったら奪わず未亡人が自分を政界に転出させるために使うという。ルパンは得せず銭形はルパンを逮捕できず。筋は通ってないんだけれど逆転また逆転の展開は面白かったという不思議な回。こういうのを人情とか浪花節じゃなくスマートに見せてくれたら面白くなるのになあ。これってイタリアじゃあどういう評価を受けたんだろう。そこが知りたい。

 という訳で最終日となった渡橋モーターショー2015をのぞいて思ったことがいくつか。部品メーカーが元気っていうか、前だと完成車メーカーが並んで部品メーカーは隅っこにおいやられて二輪車メーカーも脇に置かれる中で目立てないまま来る客もない中で時間をもてあましていた印象だったけれど、今回は完成車メーカーがそれぞれのホールに分散して並ぶ間に部品メーカーが配置され、それぞれが独自の技術を並べつつそれを伝えるシミュレーターとかVR装置とかを置いて来場者に楽しんでもらていた。KYBって昔はカヤバ工業といったサスペンションのメーカーが置いたシミュレーターとかJTEKTってこちらも豊田工機と光洋精工っていう部品メーカーが合併して出来た会社のシミュレーターも行列が出来ていたしなあ、でこぼこを減衰させるサスペンションが昨日した場合を体感してもらうような。

 直接の消費者じゃない来場者に部品メーカーが技術を誇っていったい何になる? っていう印象が一方にはあって、だから部品メーカーもモーターショーでも隅っこで見本市的な展示さえ出来れば良いってスタンスだったのが、こうやって配置されると自分たちをアピールしなくちゃいけなくなる訳で、その中で知恵を絞って見せるものを置き、コンパニオンも置いて観客を誘っていたって感じだろうか。あとは部品メーカー自体の地位が上がって完成車メーカーはコモディティ化する車を作る上で部品を調達し、それにブランドお乗せて売るだけになっている中で、技術力を持った部品メーカーがその技術を誇りつつ世界にアピールし、完成車メーカーに負けずむしろその上に立つような構造ができあがりつつあるというか。

 それはかつてパソコンの世界なんかで起こったことでIBMにNECに富士通に日立に東芝三菱等々がパソコンを作り海外勢でもヒューレットパッカードやらデルやらがあってコンパックが殴り込みをかけてきてといった具合に完成品としてのパソコンをブランドで売る時代が一時期はあったけれど、それがもはやどこも並列で、何を選んでも大差ないような時代になってそれならとブランド力がまだあるアップルを選ぶんだけれどそれすらもスマートフォンとかタブレットに置き換わられつつある。台頭したのはインテルでありAMDでありといった半導体のメーカーとOSの企業。それが自動車という世界でも起こり得るか、ってところが今は注目されている。

 値段も高いし、安全性とかいろいろと配慮しなくちゃいけない部分があるんで、自動車がさすがにパソコンみたいにコモディティ化するとは思えないけれど、いずれ個人が1台を所有する時代が過ぎ、社会システムの中に移動用のヴィークルとして車が折り込まれるようなことになったら、選ぶのは消費者ではなく社会インフラの側で、そこで求められるのはどれだけ必要とされる機能が動作するかってことになる。そうなった時に選んでもらえる機能を実現し、提供できる部品メーカーの発言力なり存在感が増すっていうのが自動車業界なんかを研究しているアナリストなりコンサルティングの見立て。そうした時代をある種、先取りした配置でありそこから得られたひとつの光景だったのかもしれない、今回の東京モーターショーにおける部品メーカーブースの賑わいは。こうした配慮をCEATECも採り入れて、完成品メーカーでなく部品メーカーの技術を見せてそれがどれだけ凄いかを実感してもらえるブース作りをすれば良いのに。主催者が家電業界である以上、それは無理な相談かもしれないけれど。

 富士見L文庫の方から「マルタ・サギーは探偵ですか?」の再刊がスタートしていたけれども全部出たんだろうかどうなんだろうかと確かめるのは後にして、似たような集英社オレンジ文庫から野梨原花南さんの新作が登場。その名も「岩田虞檸為、東銀座の時代」は群馬県だかにある高校に通っていた少年が、ある日突然に母親と、母親の再婚相手の父親の出奔という事態に巻き込まれ、住んで良い他いえは差し押さえられて逝くところもなさそうだったのが両親からの支持もあって東銀座にある古い古い「ガルボビル」って所に行くことに。そこで青森だかから出てきた父方だから血は?がっていない祖母の「石さん」という人と出会い、事務所のようになっていながらしばらく誰も使っていなかったそのビルで暮らすことになる。

 口は悪いし優しくもないんだけれど、一文無しの孫に貸しだからといいつつお金を渡して服とか買わせ、住む場所も整えてみせるあたりはなかなかに豪傑。でもって生活力も洞察力もあって近くにある料理屋との会話なんかからビルに誰かいることを察知し見つけ出してはその母子がDV的なことで困って逃げていることを知り、住んでも良いよといって引き入れる。とはいえ普通だったら入れないその部屋に入れた理由ってのが「石さん」の不思議とも裏腹で、それは移り住んできた少年にも影響を及ぼし彼に謎めく美女の相手を務めさせ、彼女が生業にしている近隣から来る得体の知れない者たちの相談役という仕事もあてがわれる。いったいそこは何で、「石さん」は何者で、その家系は何をやっているのか? というミステリというか伝奇的な謎も起きつつ、一方で関係性が希薄といわれる都会にあって、人を思い頼り慈しみ愛する心情ってものの素晴らしさを感じさせるエピソードを並べてみせる。現代が舞台なのにモダンな雰囲気も漂う物語。続くのかな。


【11月7日】 池袋方面ではアニメに関連したイベントがまた開かれているようで、先週のハロウィンに続いての開催に、もう毎週のようにそういうイベントを開いてそういう街にしてしまえば良いのにって思ったけれど、ハレがあってケもあるからこそ出るメリハリ。毎週であっても毎日ではないところに生まれる切り替えって奴が、その瞬間の気持を爆発させるってことなんだろう。毎日ではやっぱりダレるし疲れるし。そんな池袋で昨日から始まったスイーツパラダイスと「進撃の巨人」のコラボカフェは、リヴァイ兵長の悪口雑言が卵焼きに書かれたオムライスとかあって楽しそう。やっぱりみんな食べるのはこれなのかなあ。

 オープニングってのもあってのぞいたら、椎名ひかりさんとみちょぱこと池田美優さんとてんちむこと橋本甜歌さんが、調査兵団の格好をして登場してはスイーツとか食べまくっていた。タワーになったパフェからマカロンをつまんだりして食べる椎名ひかりさん。好きなのか。空いていたのか。そんな店には早くからお客さんも来て発表会のあとに店内をあっちこっち撮影してメニューを頼んで食べてとっても楽しそう。女子しかいなかったけれどもやっぱりキャラクターとして好きな人がいる作品は強いなあとも思った次第。デカい巨人が人を食うというグロテスクな漫画でアニメが、こうも女子受けするとは始まった当時は思いもよらなかった。あるいは最近の話はそうしたキャラ方面に寄っているのかもしれない。最初の法で止まってしまっているけれど、再会してみるかなあ。ハンジさんとか変態も出ているし。

 晴れたんで中野まで出向いてpixiv Zingaroでもって始まっていたしずまよしのりさんの画展を見る。芝村裕吏さんの「マージナルオペレーション」のイラストを描いている人で、ほかにはゲーム「艦隊これくしょん −艦これ−」の艦娘なんかが知られているけれど、画展は星海社から出た画集の作品を並べるってことで同じ星海社から出ている「マージナルオペレーション」関連ばかりがとりあえず。入るとジブリ−ルの立て看板が銃を持って構えていて、寄らば撃つといった雰囲気だったけれどもそこは両手を挙げて匍匐前進で近寄っていったから無事だった。いや両手を挙げて匍匐前進はできないか。それはさておき展示では、やっぱりイトウさんが良かった。

 謎の女性イトウさん。若いのか年寄りなのか本当に女性なのか分からないけれど、どこにでも現れアラタを助け排除もする凄腕のエージェント。もしかしたら「マージナルオペレーション」の世界で最強かもしれない人が、上野あたりのコーヒースタンドで怯えたようなはにかんだような恥ずかしがった表情でもってカウンターに座っている絵を見て気持を動かされない人なんていない。可愛いとか、可愛そうとか。でもそうやって侮るとあとでトンデモナイ目に遭うので要注意。奪われ陥れられ追い出され。そうやってアラタは日本にいられなくなってしまった。でもそれが幸せだったのか。それとも戦いの中で生きるのは残酷なのか。決めるのは僕じゃなく彼らであり彼女ら。その答えはいつ出るんだろう。いつか描かれて欲しいなあ、彼女ら彼らの未来って奴を。

 今日も今日とて東京体育館へと回って「MOSHI MOSHI NIPPON FESTIVAL2015 in Japan」ってのを見物。まずはNIPPONステージってところにってこれからのアイドルたちが登場するステージを観に行ったらたぶん「虹のコンキスタドール」がライブをやっていた。巧かった。そして「バンドじゃないもん!」ってのが出てきたけれどドラムセットはデジタルならがらもちゃんとしていてそこに座った子はペダルも踏んでバスドラを叩きながらちゃんと両手でドラミングをしていた。それが音に乗っていたかテープだけだったかは分からないけれど、ちゃんと叩けることは叩けるんだろう。サイドのショルダーシンセもベースも音は鳴るみたいだけれど弾いていたのかな、ちょっとは弾いていたから演ろうと思えばできるけど、ってあたりか。バンドじゃないけどバンドでもあるグループはどこを狙う? ちょっと関心。

 そしてメーンのMOSHI MOSHIステージへと回って三味線と尺八のコラボからファッションショーが始まったのを見て、そして登場した「でんぱ組.inc」をまずは鑑賞。メジャー感が出てきたというか、ファンが多くてそれも男性だけじゃなくって熱心そうな女子も大勢。振りをして叫びも上げてと熱いファンぶりを見せていた。春に日比谷で「チームちゃしほこ」を見た時もそうだったけれど、男子だけじゃなく女子も引き入れ盛り上がっている新鋭のアイドルグループの多いこと。作られたって感じじゃなく、最初っから自分たちも一緒に応援している感じが味わえるからなんだろうか。AKBとか仕込まれ感があってそうした感覚をもはや味わえないって感じもあるし。

 とはいえ続くこれからのアイドルにはまだ男子のファンしか見えなかったからそこは「でんぱ組.inc」が持つ女子も誘って共に成長していける感じがあるのかも。ダンスも巧かったし歌もしっかりしていた。ライブパフォーマンスの良さを改めて見て、これはちゃんとしたホールでも見たいなあと思ったけれど、5曲だかでごっそり体力を削られたので年寄りにはキツいか。そして切断ガールズという肢体欠損のパラリンピック代表になりそうな女性アスリート達が着飾って登場したファッションショーがあって、その前向きさに喝采を贈る。出てくるのを気恥ずかしいと思わせない、かといって特別だとも感じさせない、それも普通なんだという社会が本当に来ると良いなあ。来て欲しいなあ。

 そのあとはフジヤマプロジェクトってこれからのアイドルたちがショーケース的に登場するステージ。たぶんスタートは「山口活性化学院」で、結構な盛り上がりだったけれどもその後に来た「sora tob sakana」はまだちっちゃくて可愛くって初々しくって好きになった。ダンスパフォーマンスより爽やかさで見せる感じかな。これもちょっとステージを見たいけど、でもやっぱり見たいのは「大阪☆春夏秋冬」ってグループで、ハードロックというかヘヴィなサウンドに乗せてボーカルが太くて張りのある声を聞かせてくれてそれだけでしっかりとロックユニット。なのに周囲ではダンスを踊るというこのグループのパフォーマンスに心底ヤられた。調べるとレインボーの楽曲をやったりクイーンもやってみたりとロック親父の魂を揺さぶるセレクト。でもってパフォーマンスも見せてくれてなおかつボーカルがすばらしいとあって、是非にステージを観に行きたいと思ったら15日にO−WESTでツーマンがある模様。さてどうするか。体力ないけど。でも見たいけど。どうしようか。

 こちらでも登場の「虹のコンキスタドール」は大勢を束ねたパフォーマンスが光ってた。メジャー感があるというか。そして前に「東京コンテンツマーケット」で見かけた「むすびズム」はその時にパネルを持って宣伝していた4人に加えて眼鏡の娘が入って他とは違ったビジュアルな感じを見せていた。「むすびズム」はNIPPONステージの方で昨日も見ていて楽曲の多彩さは分かっていたけど、今回は1曲だけで主にビジュアル方面で他とはちょっと違ったものがあるかなあと感じさせた。何より眼鏡っ娘は正義。それは「大阪☆春夏秋冬」にも言えるかな、1人いるんだ眼鏡っ娘。それが踊りながらロックする。イカスだろう? だからやっぱり観に行くしかないかな、15日のO−WEST。体力が…。

 僕は書店が主義に従ってフェアを打つのは構わないと思っているし、書店員がイチ押しの作家をイチ押しだよと言って薦めることも構わない。書評家の人にはあんまり好んでない人もいるようだけれど、でも書店員だって読み手だし、その感性を信じるに足る人だって大勢居るし、だいたいが書店員イチ押しの帯がこれだけ世の中にあふれかえっていて何を今さら感はある。この書店員は彼らが好きで私らは好きじゃないのと作家が悲しむというのも実際だろうけれど、そうやって悲しまれることに耐える神経の持ち主なら、そして俺の感性を刺激しみろと豪語できる書店員なら自分が王様となって書店を作り棚を作って売っていくことは構わない。主義だから。

 そして書店が例えば反安倍政権の本を並べてうちら反安倍政権っすからとフェアを打つことも構わない。それで親安倍な人が買いに来なくなることも十分に承知で覚悟の上でやっているならそれは主義。書店を一種メディアととらえるならばそこに主義主張があっても不思議はない。うちは売れる本だけ並べますっていうのだってある意味主義主張な訳でそれが内容に及んでも悪くはない。そうじゃない書店はあまねく本を扱い中身によって取捨選択をしないのだというのも主義。怖いのは世間の主義主張が偏ってそれで売られず並ばない本が出ることで、そうならないための歯止めは必要かもしれないけれど、おそらくはそうした懸念をも含めて対応してくれるだろうと書店の知恵を信じたい気分はある。

 もちろん右側の主義主張ばかりを並べるのもありだ。反安倍のフェアを打ったら批判されて取り下げたってことをそれはやり過ぎだと批判する口で、右側の本ばかり並べやがってコノヤロウとはとても言えない。言ってはいけない。ただ。そういった本に時として混じる言われ無き誹謗中傷、根拠無き差別が満載の本をも含めて並べ売ろうとしているのはやっぱり非難されるべきだろう。それは主義ではない。ただの差別に過ぎない。表現の自由は維持されるとしても、守られるべき人権はあるし守られるべき倫理もある。それを踏み越えた差別は法により、あるいは倫理によって断罪されることは間違っていない。さても嫌韓漫画を並べ、韓国のやっていることを揶揄するような作りの漫画も置いて面展開した難波のとらのあなはどこまでが主義なのだろうか。主義を超えた差別になっているのだろうか。そこが問われそう。燃えるかなあ。


【11月6日】 NHKやらテレビ東京ではちゃんと報じたみたいだけれど、新聞では朝日新聞くらいであとは検索に引っかかってこないというから、この問題への関心って相当に低いのかと思わせる「劇場・ホール2016年問題」。この10年くらいの間にたくさんのホールが閉鎖となり、そして2016年に向けて中規模のホールが閉まりさらに横浜アリーナやさいたまスーパーアリーナといったところが改修に入り、代々木第一競技場も東京国際フォーラムも改修を行うといった具合に、中規模から大規模なホールのことごとくに使えない時期が来てこれが集中してしまうという問題は、実演家にとって大きな影響が出るということで能楽師からJPOPからバレエから邦楽からアニソンまで、その道の第一人者がずらり並んで記者会見。さっそくネットでは話題沸騰で、ライブとか大好きなのにどうなってしまうんだろうという不安に誰もがとらわれている。

 でもメジャーと呼ばれるメディアは知らん顔。もしかしたらベタで報じたのかもしれないけれど、それがだから? といった雰囲気でネットとの温度差が激しく付いてしまっている。こういう温度差が今の新聞でありテレビといったものへの信頼を大きく損ない離反を生んでいる要因でもあるんだろうけれど、そんな中でテレビ東京とかNHKは経済であり文化であるといったとらえ方でちゃんと紹介するから、このご時世でも支持を失わないで生きていけるって感じ。芸能ネタをたくさんぶち込む割に芸能人の活躍の場が奪われる問題には冷淡な民放のワイドショーだけれどもしかして、ライブ会場が減れば自分たちの番組にいっぱい出てくるとでも思っているんだろうか? テレビに出たってCDは売れないならライブで稼ぐしかないアーティストが、そのライブ会場の現象という問題を受けてなお、テレビに縋(すが)ってくれると思っているならお目出度い。まあそういう深慮遠謀すらなく、数字がとれないってだけで報じないんだろうけれど。やれやれ。

 それにしても配布された資料で、本当にこの10年間で相当なホールが消えてしまっていたことが分かった。とくに中小規模のホールの閉鎖が著しくって企業なんかがメセナ的にやっていたホールが消えて、そこを主戦場にしていた邦楽の人たちが演奏を見せられる場所がなくなったって尺八の演奏家で、琴に三味線といった三曲を束ねる団体のトップに立つ川瀬順輔さんが話してた。もちろん消えるばかりじゃなくって、イイノホールとか建て替えられたし大手町にもよみうり大手町ホールとか日経ホールができて、500人とか600人規模の客席を持っているけど、新しいとやっぱりそれなりに費用もかかるだろうし、今までどおりの使い方ができるかも分からない。するっとそのまま入れ替わる訳にはいかなないし、そもそもこれまでに減ったホールの数を合わせれば、そうした増加が焼け石に水でしかないことも分かる。この3つを足したって新宿厚生年金会館1つに及ばないんだよなあ。あるいは新宿コマ劇場1つに。

 首都圏でライブが出来ないならこれを機会に地方に出れば良いんじゃなのと、地方の人から呼びかけもあってそれもなるほどと思わせたけれど、サカナクションの山口一郎さんによれば地方でライブをするにはスタッフとかいっぱい連れて行く必要があってお金もかかるから、首都圏でライブをやって稼いだ分をそこにつぎ込む必要があるんだけれど、それが出来ないと地方にもいけないって話してなるほどと思わせた。観客動員だって首都圏と地方とじゃあやっぱり違う。地方でアリーナが3日4日埋まるかっていうと、やっぱりファンの数が違いすぎるからなあ。あと山口さんが心配していたのが、上から下へとちょっとだけ会場を下げていった果てに現れる玉突き現象で、5000にの観客を動員していたアーティストが3000にで2日間やれば、3000人を1日やってたところが1500人を2日やってたと順繰りにホールが埋まっていってしまう。果てにライブハウスまでってなると、新人はいったいどこでやる? 路上で? それもロックだけれど路上で食い続ける訳にはいかない。いつかはライブハウスへ、そしてホールへとなるその道が絶たれてしまっては先がない。未来が細ってしまう。

 そういう問題はもちろん、昨日今日言われ始めたことじゃなくって数年前から、じわじわと広がる問題としてアーティストとかファンの間では語られてきた。ここで改めて会見なんかが行われたのは、いよいよ差し迫って国も自治体も企業も共通の問題として意識して欲しいし、ファンの人もそうした問題があることを意識して、声をあげて運動へと広げていって欲しいという意味もあったんだろう。ただこれまでだて青山劇場しかり、五反田ゆうぽおとしかり新宿コマ劇場しかりと、ホールや劇場がひとつ閉じるたびにその代替なり永続化なりを求める声は起こっていた。でも止まらなかった。青山劇場や青山演劇劇場なんて使えるのに壊してしまうという残念ぶり。ただそうした閉鎖のひとつひとつには、それぞれに理由があって閉鎖もやむを得ないという事情が感じられるだけに、それを留めるのはファンの声だけでは心許ない。

 だからこうして改めて、問題化して政治に行政にプレッシャーをかけ、企業にも縋って機運として盛り上げていきたいちう意図があるんだろう。それがかなうかいなか。いつも以上にリアクションも大きいし、何か動きがあると良いけれど、でも新たに作るわけにはいかないんだよなあ。となると可能性は既存のホールのとりわけ公共物件の利活用か。夜遅くまでバラしが出来ないとか、連日の公演が公平性の観点からむずかしいといった規制を、時限的な措置でもいいから緩和して広くあまねく使えるようにするとかいった措置。あればもっと会場も増えるんだろう。江戸川区総合文化センターとか、地域の公共のホールって首都圏に結構あるんだよなあ。とはいえ1500人とかそんなものか。3000人から5000人規模のライブができる会場がやっぱり欲しいなあ。

 そんな会見に出るために、西新宿の芸能花伝舎へと向かう途中に立ち寄ったペンタックスギャラリーことリコーイメージングスクエアで、とてつもなくゴージャスな写真を見かけてついつい見入って写真集も買ったら撮った方がいてサインをもらい、話まで聞かせてもらってちょっとラッキー。HASEOさんというその人は、絢爛とした衣装を作りモデルも集めてゴージャスな世界なんかをそこに作り1枚の写真に収めるといったことで知られている人。CGなんかを使えばどんなゴージャスだって作り出せるご時世に、すべてを手作りにしてなおかつ一瞬を切り取るために準備を積み重ねるそのこだわりと、そして写真として切り取られた美しくも絢爛とした世界は、しべてがリアルだからこその分厚さであり重さであり何より息遣いって奴をそこに醸し出している。見る人にも感じさせる。

 写真がなかった時代なら、それは絵で描かれたものだけれど今は写真があるのだからそれで作る、なんて意識もあるかもしれないそんなリアル写真。でも凄いのは、そこに宗教画的なテーマもしっかりと込めて描いていることで、最新作という大きい3点の連作は、あのジャンヌ・ダルクを意識させる少女が十字架にかけられ火刑にされようとしているシーンをまずとらえ、キリストが嘆き悪魔がにじり寄り商人は不倫に走りといった具合に不道徳が蔓延り善が後退していく雰囲気ってやつを見せる。そして悪魔が中央へと現れキリストは消え不道徳があふれた1枚へと至って世界に救いはないのかと思わせる。けれども最後の1枚で、キリストが復活しジャンヌ・ダルクは救われ商人はまだ不貞を続けるけれども総じて安寧へと至る世界が映し出される。宗教が誰かを裁き殺すことのない世界。その平穏を信じたいけど今の時代は2枚目の、神がなく悪魔が捌きすべてが不道徳に溺れた世界になっている。あそこからここへと至るために何が必要か、ってことを2枚に挟まれ考えることができる写真展。行ってまた浴びたいなあ、その絢爛として辛辣な世界の言葉を。

 良識と知性を信じるとしたら、外務省はそれなりな意見をとりまとめて完全否定ではないけれどもそれほど多くはないという説を掲げて提出したんだろうと思うけれども、それに政府とやらが是非にこの人をと担ぎ出した御仁が完全否定も否定派の親玉で、それがさらに完全否定をやらかそうとして裁判で訴えられて負けた人物の意見を引っ張り出して意見として出してしまったと思いたい。つまりは政府というか安倍ちゃんの方に完全否定したい思いがあり、そうした意見を言っている仲良しさんに是非にとお願いしたことに、官僚に過ぎない外務省も逆らえずやれやれといった思いに歯がみしながら平行して出したってことだという気もしないでもないけれど、これで本気に外務省にも南京事件なんてものはなかったんだ説が蔓延り、それを国の意見だと認める気風が高まっているとしたらこの国は、ひたすらに孤立から袋だたきへと進むだろう。それが分からない外交官でもなければ官房長官でもないとは思いたいけれど。頭に頭のどうしようもない人がいると全身がどうしようもなくなってしまうってことなんだろうなあ。やれやれ。

 日程が3日間になって初日にアニメ関連の音楽を並べたってところに進歩が見られる「MOSHI MOSHI NIPPON FESTIVAL2015」。日本が誇るKAWAIIを世界に見せようと、アーティストを揃えアイドルを並べフードコートも置いて楽しんでもらうようにしたイベントだけれど、去年観て感じたのはやっぱりそうしたKAWAIIはクールジャパンの片翼でそれを好む外国人もいるけれど、同時にアニメーションとかマンガといったポップカルチャーについても知りたいし触れたいと考えている。でもそれが去年の「MOSHI MOSHI NIPPON」にはちょっと足りていなかったってことで、各方面との護送船団的な協力が必要かなあと思っていたら今年は1日をアニメの日にあてて、そうしたアーティストを呼んでみせた。そこがやっぱり凄い中川社長。行動力もあれば交渉力もある。

 そんなアーティストでは八王子Pさんによる初音ミク関係のDJがとてもスタイリッシュでクールで格好良く、鳴り響く音楽を目にして耳にしただけでこれが日本の最先端であり最前線であり最高峰かもしれないっていった思いにかられ、それを世界に向けて知らせることができて我が子とのように嬉しくなった。涙すら滲んだ。それから春奈るなさん。あるいはやなぎなぎさん。日本が誇るアニメ関係のシンガーでありシンガーソングライターが登場してパフォーマンスを見せてくれて、それに外国の人もしっかりついていってくれた感じ。僕としては「ビードロ模様」を目の前で聞けて嬉しかったなあ。さらには部長。May’nさん。ポリープの手術とかがあって心配したけど完璧なまでの歌声を声量もたっぷりに聞かせてくれた。世界をとても意識しているシンガーだけに、集まった外国人にも嬉しそう。そして外国人たちも声をかけられ喜んでいた。こうした交流が日本から世界へと広まっていった果てに来る、日本の文化が世界へと出ていき日本へと多くがやってくる日々。その一端になるイベントに触れられて良かった。あとは続けること。そして広げること。応援したい。


【11月5日】 結局のところADOデンハーグでレギュラーを確か張ってるフォワードのハーフナー・マイク選手は招集されずハリルホジッチ監督はこれまでのメンバーをちょっといじっただけで、ワールドカップ2016年ブラジル大会のアジア2次予選に臨む模様。これでし合いは前と同じように中盤で組み立てようとしてボールが収まらず、前線に出ようとして固い守備に阻まれ、そしてちょっとした隙をカウンターでもってボールを運ばれ得点を奪われるかもしれない危なっかしい状態が続くことになるんだろう。もしもハーフナー・マイク選手が入れば善戦にひとつの起点ができるし、サイドからのクロスに合わせて飛び込む動きだって見せてくれるパワフルな攻撃を手に入れられたんだけれなあ。ちょっと勿体ない。

 でも今のサッカー日本代表が、誰のせいなのか中盤で細かいパスを回して崩して誰かが前線に飛び出す攻撃を好み、サイドからまともなクロスのひとつも上がらない試合運びの中で、ハーフナー・マイク選手や豊田陽平選手が生きる場所はない。呼ばれても使われず出られたとしても消えてしまうチームにわざわざ入るより、自分のチームで目一杯に活躍した方が将来のためになるから呼ばれなくて正解かも。問題は調子の良い武藤嘉紀選手がちゃんとその特質を活用されるような形で使ってもらえるか、だけれど。決して調子が良くない宇佐見貴史選手が呼ばれてみたりと選手選考にポリシーも見えなくなった今、負けるような事態が起これば監督解任も噂ではなくなるだろう。その時に誰が後釜になる? いないんだよなあ、もう。日本にも世界にも。今度こそダメになるのかなあ。

 あんな程度の言葉で偉ぶれるんだからお気楽極楽な言論空間。いわふる夫婦別姓の問題について、当事者である子供の視点が必要とかってどこかの新聞の論説委員兼編集員様が書いていたけど、アンケートで子供に聞いたら嫌だとか、変だとか言ってたって話しを引き合いにだしながら、そんな子供がどうして嫌がっているかを聞いてないし書いてもない。いやだ変だという「感じ」なんて今の夫婦同姓という状況が長く続いてきたから浮かんだ違和感であって、それが変わって意識も変われば嫌がる理由もなくなるかもしれない。それが当然だという意識下での意見を、それはそうなんだからそうんだということになんの意味がある? それでもなおという見解でも出すならまだしも子供は嫌がっているんだというばかり。まるで子供みたいな言葉がここん家の叡智なんだからたまらんなあ。子供目線っていうのはつまり、頭も子供並ってことなのか。なるほどそれなら納得だ。

 昨日、とある新人賞の授賞式で集まった本読みのお姉様たちが、テレビアニメーションの「おそ松さん」をこぞって大激賞していて見るしかないと叫びつぶやき布教までしていた状況に、これは録画してあるのを早く見ないといけないなあと思っていた矢先の今日、朝になって突然入ってきたニュースがその「おそ松さん」のパッケージソフトの第1巻にあたる第一松に収録される予定だった第1話が、まるまる新作に差し替わってしまうという報。噂ではそうとうにいろいろなパロディをぶち込んでそれが単なる赤塚不二夫さんの懐かしいアニメーションのリバイバルに留めない、広い人気を獲得させたと聞いていただけに、相当に凄いことがあったんだなあと改めて思いつつ、それがこうやって収録中止に追い込まれるくらいの凄さだったんだなということを改めて認識して、これはやっぱり速く見ないいけないと思ったのだった。「銀魂」でも「妖怪ウォッチ」でも放送されてパッケージになるご時世に、中止にまで追い込まれるその中身とは? いやあ楽しみ。しかしこれで買う予定だった人が逃げたらいったいどうするんだ。全巻購入者に特典として販売ではなく配布するとかするのかな。

 そして見てきた舞台「攻殻機動隊ARISE:GHOST in ALIVE」は、前に「攻殻機動隊 新劇場版」の生オーディオコメンタリーで藤咲淳一さんが話していた通りにパッケージ化が不可能という演出。それは舞台を3D眼鏡を基本、かけながら見ることでもわかるように3D立体視映像を投影しながら役者が演技をするから、客席の観客は生身の役者を取り巻くように浮かぶ立体視映像を楽しむことになる。例えるならテーマパークの3Dアトラクション。あれがパッケージ化不可能なのと同じようにこの舞台も同じ体験をパッケージでは味わえない。劇場限定。その意味で見る価値はある。絶対に。

 そして登場する役者が大体なりきっているって意味でも見て楽しい。これはアニメーションの実写化であり実在化。ARISE版の草薙素子があのスタイルのまんま肉を持って立ち現れ、全身を使って激しいアクションを見せてくれる。もう眼福。赤いレザーの上下を着こなせる女優は演じた青野楓さんを置いて他にいない、現時点で。それはクルツにも言えること。もうそのまんま。いやあとシャツのボタンを1つ開けて欲しかったけれど、それをやると白木芽衣子になってしまうから仕方がない。いやスカートはあんなに短くないけれど。護あさなさん、もうばっちり。そのクルツっぷりを拝みに行くだけでも価値はある。あとサイード博士も。ツン可愛い感じがよく出てた。吉川麻美さん、完璧だった。

 公安九課も同様。荒巻はご本人が演じているから声そっくり。バトーもいいけどトグサが雰囲気出してたなあ。サイトーはいい男すぎ。それはパズもか。んでストーリーは、border:2とborder:3の合成といったところか。ホセと素子の関係を軸にソガの起こした事件とそれに絡んだ擬似記憶の話を混ぜつつ暗躍する敵を探し追い詰めるといったところ。クルツとか劇場版ほどの深さはなくエマとか今ひとつ立場がわからないけど、出てくるたびに踊ってて可愛かったからそれでいいのだ。可愛いは正義。演じていた桃瀬美咲さんはタレントスカウトキャラバンから来た人だからバリバリのアイドル系。小さくて声もキラキラしていて舞台ではひときわ華やかだった。それもエマらしさの理由かな、あの映画でもエマってひとり、異質なきらめきを醸し出していたから。そんあエマが登場するシーンを見るだけでも価値あり、ってそればっかりだな。

 舞台としてどうななのか、って言うとそんなストーリーを細切れにして再構成してあって、どうにか見せていくって感じで段取りが先走って物語る感じではちょっとなく、映画を全部見ている人には追えても、そうでない人が、どこまで全体像を把握できたかは不明なところ。あと映画で知っている役どころとはまたちょっと、変えてあったんで全体像が把握しにくくなっていた。もう1回くらい見れば誰が本当の黒幕か、理解できるかもしれないなあ。ともあれそうした演劇としての評価は、映画を知らない人から上がってくる感想を待ちたい。役者も巧い人がいればそうでない人もいてと様々。ただ似ている感があるから見ていて安心はできる。箸棒という人もいないからそこは安心。巧さではイバチ役の人が喋りもアクションも巧かった。

 ともあれ3D眼鏡をかけて全編をとりあえず見る(途中3Dじゃないところは外して裸眼、といっても眼鏡はかけていたけど生のアクションとか見たりする)舞台というのは珍しいし、それを「攻殻機動隊」という題材で行ったことは歴史的。アニメで見ても劇場で見ても3Dへの没入感はさすがに得られず、3D化してもアニメが3Dになっただけ感があったものを、実在の人間と組み合わせることで奥行きを出し、手前へのせり出しも感じさせるVR感でありAR感を再現した。これはひとつのステップだろう。その意味でも見て損はなし。と思うけれどもさてはて。初日に空席が目立ったのはやや残念。だからクルツがボタンをあと1つ外せばと思ったし、エマの可愛らしさが世間に伝わればとも思ったけれど、何より草薙素子が草薙素子としてそこにいて、立って喋ってアクションもして、アンダーウエアな姿も見せてくれる(スポーティーなトランクスにキャミソールだったけど)舞台として、関心を持ってかけつけて良いんじゃないかと断じておこう。初演は今しかないのだから。


【11月4日】 3年間で身長が20センチほど伸びると、当時着ていた魔法少女の服装は、動くだけで破れてしまうと言う。おお。だったら是非に現役引退から3年経った魔法少女たちに、昔の服を引っ張り出して着て欲しいけれど、タンスにしまってあるものではなく、変身したら身に張り付いて現れるものであって、それが3年経っても力が残っていれば、ゃんと体のサイズに合わせて大きいものになるんだろう。夏恋はそうではなかったようで、力が弱っていたから3年経って、身長が伸びて、そして変身をしたら成長に伴って服のサイズも大きくはなっておらず、だからはじけ飛びそうになったし、実際にはじけ飛んでしまったと。目にはそっちの方がありがたいけれど、やっぱり少し可愛そう。だから少年は立ち上がった。英雄として。英雄係数をかき集めて。

 っていった感じの話だと言えば言えるし、もうちょっとかっこ悪い話だとも言える石原宙さんの「世界で2番目におもしろいライトノベル。」(ダッシュエックス文庫)。ふらりと入った古本屋でみつけた、バイト募集のビラが読めてしまった高校生の少年、灰川祭はそこにいた元勇者という女性に引っ張り込まれ、元異世界の救世主やら元学園異能の覇者やらが否応なしに持ってしまっている英雄係数とやらをその身に引き受け、彼らを安心して暮らせるようにする仕事を請け負う。そんな相手のひとりが元魔法少女。変身する能力は持っていたけどごらんのとおりに中途半端。それでも残る力を灰川は引き受けるものの、そのままでいれば自分を中心にとんでもない事態が起こってしまう。だから普段は抑えていたけど、ある事件でそれが炸裂する。

 魔法少女が現れたという話を聞いて集まってきた、かつて魔法少女に倒されたものたちによる復讐劇に巻き込まれてしまった灰川が、己に貯まった英雄係数をぶちまけとったその解決策。見て見苦しくもあるけれど、それでもやっぱり誰かのために戦う姿はカッコイイのかどうなのか。難しいけれでもちょあんと美少女は引き付けられたみたい。そして終わった事件のあと、灰川はそんな不思議な彼らとの付き合いを物語にして綴った、それが「世界で2番目におもしろいライトノベル。」ということで。読んで本当に面白いかは英雄になりたいと憧れたことがあるかどうかにもよるかなあ。心に秘めたうそんな願望が引っかかって活躍を夢みさせてくれると感じるか、迷惑極まりない展開にはやく英雄なんて辞めたいと思うか。それは読んでの判断ということで。

 展開としては不自然さがなかったけど、やっぱり花には前段階の、本当に可愛い女子校生が豹変して空手使いであるところを見せて、それが相手にいろいろ見せてもらって引っ込みジャージを履いて再チャレンジしても、やっぱりおしっこをしている場面を見られてしまってそこから因縁が始まるといった展開に、して欲しかったなあというのは見られなかった者としての悔恨混じりの願望か。一方で副会長役の護あさなさんはもう副会長ですと言わんばかりの巨大な胸とそれから下半身。見せて見せまくってくれていて、撮影の現場でいったい監獄男子たちはどうやって自分を護ったんだろうかといった想像が浮かぶ。まさかカチンコチンで撮影に臨んでいたんだろうか。それもまた勇気のある仕事。そんな護さん、5日からスタートする舞台版「攻殻機動隊ARISE GHOST in ALIVE」に出演しているみたい。それもクルツ役で。あれも見せまくる役だけに、今度は生を拝めるのか。ああ楽しみ。本当に楽しみ。

 船橋駅のホームにあるキオスクでもってフルタのチョコエッグの「スター・ウォーズ」バージョンが入ったんで1日に1個とか2個とか買っていたら1パックで10個あるうちの7つを僕が買っていたという、まあそんなもんだ。とりあえずダース・ベイダーが出てC−3POとR2−D2のロボットコンビが出てストーム・トルーパーが出てハン・ソロなんて上半身だけでオビ=ワン・ケノービはフォースマスターでグリーヴァス将軍は4刀使いでクローン・ショック・トルーパーなんていったいどこに出てたっけってことで数えたら7個じゃなくって8個買っていたという、まあそういう感じだ。出来が云々というには小さいからあんまり細かいことは言えないけれど、C−3POの金色ぶりはなかなかでR2−D2はサイズ的に満足。あとダース・ベイダーとオビ=ワン・ケノービは向かい合わせて戦わせたい。ハン・ソロの顔がイマイチだけれどそれもまあ、許容範囲ってことで残る種類も集めてシークレットまで突き止めるかどうか。今後も売られるかどうかで判断かなあ。コンビニでは見かけないんだよなあ。

 「鉄カブトの女」なら昔にPVで見たけれど、「金属バットの女」となるといったいどういうタイプなのかがちょっと想像も付かないんで、第9回HJ文庫大賞の特別賞を受賞したというちゅーばちばちこさん「金属バットの女」(HJ文庫、550円)を読んだらなるほど金属バットの女だったという。当たり前か。つまりは金属バットを振り回す女。それでもって世界の敵と戦う女。ついでに気に入らない相手をぶん殴って殺しもするけど、世界を救っているから誰も止めないし止められない。そんな女というか美少女に気に入られたらしい少年は、家族を皆殺しにされてもその少女を可愛いと思い献身的なところさえ見せて、世界に13体が現れるという怪物「試験官」を少女が金属バットを引っさげ叩き退けに行く場所へと着いていく。どこにだって。

 そうやってひたすらに少女に惚れて献身し、ついていって見守る少年の物語は1体また1体と「試験官」が他曽於されていってもそんなに変わることなく続いていく。でも最後の方で少年は少女に対する思いを発動させて手に銃を握ってつきつける。それは憎いから? 違う。愛しているから? そうかもしれない。でもだったらどうして? そんな複雑な心理が交錯した果てに戻った0地点から始まる物語は、交錯しないですれ違ったまま進んでいこうとして終わる。何も起こらず。じゃああれは何だったんだ。起こっていたあれは何だったんだ。それは心理的なシミュレーション。あるいは妄想の果ての願望。そうなったら良いけれど、そうなっては拙い状況を心の中でシェイクしながら少年は、あるかもしれない未来とあって欲しくない将来の狭間で自分を揺らす。その結果は何だろう。関わらず逃げるが勝ち? それもつまらない。じゃあどう生きる? それを考えるのは読んだ人自信。まずまずの人生とやらを考え、そのために何をできるかを感じよう。

 とある新人賞の授賞式に来ていた本読みの女性陣の間で「おそ松さん」の評判がことのほか高いことが分かってあの作画あの動きあの映像あの関係性あの声の悉くがそうした層に響いていて刺さっていると分かって興味深かった。赤塚リバイバルの大人変換じゃんかと見なしていた自分を反省せねばと思った。そんな新人賞の授賞式でお祝いと講評を言うためにこの1週間ほどを寝ないで文案を練り何を離すかを考え壇上で上がらないためのメンタルトレーニングをしてルーティンまで行い平静を保って壇上に上がり喋ったことをだれも知らない。僕も知らない。まあ元より他人にインタビューすることには慣れているんでその延長で、何を相手に聞くかをちょっと変えて思ったことをぶつける感じで喋ればどうにか時間も埋まるというか、そんな感じ。慣れればさらにうまくなれるんだろうけれど、講演で金を稼ぐにはまだまだ年季が必要かなあ。来年は別の方に譲りたい。


【11月3日】 漫画の日。らしいけれども漫画に関する大会が、どこかで大々的に開かれている訳でもなさそうなんで、漫画を読んだり漫画を見たりして過ごしたり過ごさなかったり。という訳で、今日が最終日らしいので銀座へと出向いてチパーズギャラリーってところで漫画家の寺沢武一さんが開いていた展覧会「寺沢武一原画展 ART of コブラとか。」をさっと見物する。そういえばあんまり原画展とか開いているのを見たことがなく、改めてふれるとやっぱり緻密でそして確か。読切版は知らないけれども「週刊少年ジャンプ」で「コブラ」の連載が始まった時、まだ小学生だった自分にとって世の中にこんなにうまい絵があって、そしてカッコイイ男と美しい女性がいるんだってことを教えてくれたっけ。その時の衝撃を今も存分に感じさせてくれるくらい、迫力たっぷりのビジュアルって奴を見せてくれていた。

 そんな寺沢さんがデジタルへと進出したのは古くて1985年頃ってことで、今と違ってメモリーだって高かったし、小さかった時代にどうやって作画していたんだろうって不思議に思ったりもしたけれど、1990年代半ばにはマッキントッシュとかも出て、デジタル漫画も広がり始めた中で、寺沢さんとモンキーパンチさんが双璧のようにデジタルでの作画を打ち出して、雑誌なんかにも先駆者として登場し始めた。いずれもクールでスタイリッシュな作画でもって漫画に革命を起こした人なだけに、制作環境の変化にも貪欲に挑んで新しい絵作りに挑むんだなあと思った記憶。あと弓月光さんも早かったかな。今ではみんながデジタル環境。でもそんな中にあって寺沢さんの独特ともいえるデジタル漫画の光沢はやっぱり異色。色味とかテイストとか。築き上げたものがあるんだろう。

 そんな寺沢さんの一時を支えたのがエイガアルって会社だったっけ。ITがまだマルチメディアと呼ばれていた時代に取材したのを思い出す。今の寺沢さんの版権を管理しているのはエイガアルライツだから分社したか分離して引き継いだか。いずれにしても1人のクリエイターを20年以上支えて、今もこうやって第一線で活動させ続けている訳だから、お互いにちゃんとした信頼関係が築けているんだろう。そのエイガアルライツでも1度、寺沢さんを取材したことがあったっけ。相当に腰を悪くされていた時期だったけれど、今は大丈夫なんだろうか。そしてその時に伺った話で、影響を受けたのはアメコミではなく確かバンドデシネだったということがあって、まだ今ほど日本でメビウスもエンキ・ビラルも知られていなかった1970年代に、どこで見てたんだろうといったことが気になった。お元気なうちにまたお目にかかりたいけど、そういう機会もないだろうなあ。どこか評伝とか出さないか。

 銀座を出て東銀座から秋葉原へと回って、書泉ブックタワーで「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」に関連した展示とかグッズとかをひととおり。プラモデル関係は前に展示会なんかで作例として飾ってあったもののような気がするけれど、映画の「Cadenza」も公開された今、改めて見るとよくもまあ既存の戦艦やら重巡洋艦を開いて伸ばしてあそこまで、いろいろ仕込めたものだと思うことしきり。同時にそれを動かした映像制作チームの構想力と作画力の凄さにも感心する。それにしてもコンゴウやハルナ×キリシマであれだけの迫力ならヤマトとかムサシはいったいどれだけの迫力になるのか。超重力法を大展開してぶつかり合う2隻のジオラマを、350分の1スケールで見たいなあ。それくらいだとメンタルモデルはどれくらいのサイズになるんだろう。5ミリくらいか。そこはまあ、拡大解釈で、ヤマトの胸とかも含めて。

 気がつくと第36回日本SF大賞へのエントリー受付が終わっていて、今年のエントリー作品が公表されていて、そこからざっと見て最終候補作に残りそうなのを引っ張り出すと、玉城夕紀さん「マレ・サカチのたったひとつの贈物」、アニメ「放課後のプレアデス」、宮内裕介さん「エクソダス症候群」、森岡浩之さん「突変」、牧野修さん「毛世界小説」、円城塔さん「シャッフル航法」とあと水玉螢之丞さん「SFまで1000光年」あたりが並んで来るかなあ、といった印象。それが突出して優れているってことじゃなく、自分でも推した作品があるからそっちが入って欲しいけれども、だいたいの評価を鑑みた上で、SF界隈に受けそうな作品となると、そのあたりが知られていて、読まれたり見られているから投票もされそうといったところ。

 というか、本当にここに並んだ候補作で最終候補作を投票によって決める日本SF作家クラブの人たちはオッケーなのかってことで、一般の人たちからのエントリーが可能になってからこっち、いろいろな人たちが意外な掘り出し物を漫画なりライトノベルなり映像なりから引っ張って、提示はしているけれどもそういった作品の隅々まで、日本SF作家クラブの会員たちが読んでいたり触れていたりするとはちょっと思えない。だから投票にあたって既知の範囲で選ぶことになって、だいたい知っているか、これなら名前を知っているからといった感じで選んで投票した結果が、さっきのような名前に落ち着くだろうというのが予想だし、それ意外に会員が出した本をこれ知ってる人のだからと推して、それが入ってくるような気もしないでもない。エントリーにも入っているし。

 そういった割と狭い範囲での周知が、日本SF大賞作品として一応は日本のSFの年間代表作として喧伝されることになるという状況が、是なのか非なのかというと、ちょっとよく分からない。SFにはもうひとつ、星雲賞っていうのもあるけれどこちらは日本SF大会の参加者という、別の制約を持った内輪からの投票になるからなあ。それはSF者の気分をとってもよく表した結果にはなるけれど、世間に向けて開いているかというと悩ましいところ。そうじゃないところを狙って作られ、漫画とかアニメとか映画にも贈られてきた日本SF大賞から、徳間書店が離れ運営の仕方が変わって公衆にこれがSFの底力だと、アピールできるものになっているかというと……。やっぱりいろいろ気になる。

 というか、あれだけいる日本SF作家クラブの人は、自分が見知って自分が推したい作品を、どうしてこぞって投票しないのだろう。もちろん会員の方でエントリーしている人は幾人かいるけど、割といつもの人たちといった感じで、その知見もだいたいのところが見えている。もっと様々な才能が集まって、SFとしての集合知を形成している日本SF作家クラブの面々が、自分たちのSFを示して推せばそうかそんな作品もあったのかって驚けるのに、そうはならずに一般のSF好きが推すもので満足しているんだとしたらちょっと寂しい。でもってそれらから選んで投票するのか、しないでやっぱり前向きな人たちの熱い思いだけが数字になって、最終候補作につながる訳だし。それでも前回とか、しっかりと今を表す作品が並んだから、システムとしては間違っていないのかもしれない。その辺り、今回も維持されるのかととりあえずは見守ろう。辻村七子さんの「螺旋時空のラビリンス」は絶対入らないだろうけれど。読んでもらえてなさそうだものなあ。


【11月2日】 お互いにその思想その言説を信頼し合った間からだからこその一触即発だったのか。11月1日に六本木ヒルズで行われた「村上隆の五百羅漢図展覧」に関連した富野由悠季監督と村上隆さんのトークイベントは、富野監督が五百羅漢図の完成度についてまだまだ手を入れられるんじゃないか、永遠のものとするためにもっと「綺麗」にしておいた方が良いんじゃないかと盛んに言って、村上さんがだったら「Gのレコンギスタ」だって相当に手直しできるんじゃな? と言い返して始まって高まる緊張感。でもそれを聞いて富野監督も怒って席を立つんじゃなく、そういうところももちろんあるから映画版を作ってると返しつつ、五百羅漢図についても8カ月で作り上げたからこその漂うパッションが、綺麗にしてしまうことによって殺がれる可能性なんかにちゃんと触れていた。

 見た目としての高い完成度を持った作品か、それを作り上げる行為も含めてのアートかってあたりを理解しつつ、それでもやっぱりこだわるのは常に最良の物をと考え続けるクリエイターとしての習い性なんだろう。五百羅漢図のどこにどう、手を入れればグラフィックとして完成度が高まるのかまで言及はなかったけれど、富野さんだって日大の芸術学部を出たアーティストな訳で、そういった目から見て感じる抜けもきっとあるんだろう。そして村上さんだって手を入れられるなら入れたいんだろうけれど、すでに自分の手を離れて誰かのものになっている作品を勝手にいじる訳にはいかない。

 つまりは売れてしまっているってことで、だったらさらに4枚のより高い完成度を持った作品を作れるかというと、この日本でそれだけのお金を出す企業もなければ資産家もいない状況で、次に主題を見つけて挑まざるを得ない村上さん。前みたいに日本のポップカルチャーを現代美術の文脈の中に落とし込んで世界に出ていき、勝負をかけようとしたところで台頭する中国とかに市場を奪われ、ニューヨークロンドンパリといった主要マーケットにも食い込めないのを肌身に感じて、どこか絶望感というか刹那の雰囲気を醸し出していただけに、ここしばらくは日本の美術の再確認から新しい展開を模索しつつ、それが国内外にどういう評価を受けるのか、ってところに挑んでいくことになるのかな。そういう行為すらもまた、過去の剽窃だとか何とかいって非難する声も出そうだけれど。

 というか質疑応答で、黒瀬陽平さんの下で学んでいるんですと堂々、自己紹介した人が黒瀬陽平さんは再評価としての日本の美術工芸の掘り起こしに着目しているけれど、村上さんは海外受けするからそういうのをやっているんですか的なことを言い出して、その場の空気が沸騰するかあるいは絶対零度に凍えつくようなスリルを聞いていて味わった。そこは大人だけあって村上さん、怒らず無言ですり抜けることもなく答えたくないから答えないと返事した。それにしてもほかに聞きようもあるのに、どうして誰かはこう言っているのだけれどもという質問の仕方をしたかが分からない。どういう印象を持たれるかというところに想像が及ばないんだろうか。そこが不思議。空気を読めってんじゃなく、答えを引き出す技術において足りてないというか、考慮すらしていないとうか。そういうコミュニケーション状況になっているのかなあ、生の言葉をぶつけ合うのが当然という。気になった。

 あとちょっぴりひんやりしたけれど、底にある暖かさも感じた質疑応答が作品について尋ねた時の答えで、どうして書いてあることを読まずに勝手に作品を解釈するんだ、そういう風に無教養でも感じるままに考えれば良いんだという風潮が日本の現代美術に蔓延っていてダメにしているといった言葉はなるほど、それを作った向こうの意図に対する配慮なり敬意を書いても平気な関係性って奴を浮き彫りにした感じ。作った時の気持ではなく作られた物が何を言いたいかを必ず聞いてくる風潮に、ちょっと前スプツニ子!さんが憤っていたけれど、それを考えずアーティスト側に丸投げするなり自分勝手に解釈するばかりでは、成長もないし浸透もない。どう見てもそうじゃない作品にそういうタイトルを付けてあることも、自分で考え過去に現代美術がそういうことをしてきたかを思い出して何か意図があるのか想像する。そういう思考の必要性って奴を突きつけられたけど、でもやっぱり難しいからなあ、現代美術も古典も。30年見てても分からない。勉強しなくちゃ。

 進撃学園ハイキュー!!ワンパンマンと放送されたものを見てどれも面白いなあと喜ぶ深夜早朝。「進撃の巨人学園」とか、本編の漫画は途中までで止まっていて、テレビアニメは見ておらず劇場版もパスして実写版は遠巻きにしていながら、なぜパロディ版だけは見て面白がれるのかってところはつまりアニパロに喜んで来た世代だからで、そうした二次創作的なものを咀嚼する嗜みを遺伝子レベルとまでは言わないけれど、後天的ながらも早いうちから見に染みさせて来たからなんだろう。「ハイキュー!! セカンドシーズン」は翔陽と影山がなにやら大げんか。でもここで翔陽を覚醒させないと上には行けないのも実際で、どうやってあの速度とあの高さに加えて器用さも載せるかってところで、秘密兵器の登場となるかどうか。展開に期待。しかし田中の姉ちゃん、やっぱりナイスバディだなあ。

 「ワンパンマン」はヒーロー協会に登録に行って体力測定は満点なんだけれど筆記が今ひとつだったのか真面目にやる気がなかったのか、C級からのスタートとなったサイタマに対してすでに存在が知られ火力の凄さも確認されていたジェノスがS級からスタート。そんなジェノスの真剣勝負を寄せ付けもせず避けて避けて避けて避けては1発見せて死を覚悟させるサイタマの凄さも見えて戦慄。そんなバトルを描写する筆も凄まじく、誰が作画なんだといったことでこれからどんどんと話題になりそう。でもそんな凄さが毎回かるからなあ、「ワンパンマン」には。あと面白かったんで過去のバトルとか見返していたら1発で粉砕されたかに見えたモスキート娘が、壁には吸った血をぶちまけながらも本体はビルの向こうへと飛んでいくのが確認できた。なんだ生きているんだ。そりゃあね、沢城みゆきさんを声にあててゲストキャラでは勿体ない。再来を期そう。

 2013年の8月25日に行ったさいたまスーパーアリーナでのアニサマで、後ろから這いより隊Gのメンバーとして登場して歌っていたのを見たことがあったんだと思い出した松来未祐さん。「這いよれ!ニャル子さん」のクー子として出演しては淡々としながらも熱い演技を見せていて、そして7月から放送が始まった「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」のアニメーション版でアンナ・錦之宮という真面目で純真であるが故にエロ耐性がなく、自分の気持ちの赴くままに発情してはそれをさらけ出す生徒会長を演じては、内に燃えさかる熱情って奴を感じさせてくれた。それを録ってた時にはすでに病気が体をむしばんでいたと思うとなにか切ない。

 38歳にて死去。放送前にはすでに収録が終わっていたんだろうか、7月に入院してから3カ月弱での訃報はよほど進行が早かったのか、それとも相当に進んでしまっていたのか。それでも回復することを信じてか、あるいは外に心配をかけたくないのか日記には元気な声を綴っていて、先日は誕生日をお祝いするパーティーも開いたみたいで読んでこれでどうしてって思った人も多かったかもしれない。動いている作品もあってそれのイベントが開かれて、不在の松来さんに言葉を贈った人おいたけどその時にはすでに存命ではなかったという話もあったりして、せっかくのイベントを哀しいものにして、大勢に心配をかけたくなかったんだろうという配慮の後も感じて、改めてその不在に心が向く。「ひだまりスケッチ」の吉野屋先生とかも含め大事な役をいっぱい演じてきた人だけに、これからが気になるけれど、作品を愛し声優を愛するならば作品は続き、声は変わっても過去を思い今を讃えることでその不在を思うしかない。これまでありがとうと感謝を贈り、そして祷る。

 酷いなあ。書いてて自分が嫌にならないんだろうかというくらい酷い言葉が並んでいて、そんな記事で稼ごうとしている媒体の浅ましさに胸苦しさも募る。安保法制への反対運動なんかで集まった人たちを論い、プロ市民とか職業活動家とかって左側にレッテル貼ってさもワルイことをしている人たちのように誘導する記事。もちろんそういう人が皆無という訳ではないけれど、それで食っていけるほど社会も甘くはない訳で、爪に火をともしながらも頑張っている人たちもいる。そういう人たちを十把一絡げにしてプロ市民とかサヨクとかと誹る。なんという醜悪さ。だいたいがか右にだってプロめいた活動家がいる訳で、市民運動かとか主婦とか言って紹介する人たちが、どこかに所属していたりかつてライトな団体で旗振ってたりしていることも結構ある。そういう人たちを普通の市民だ主婦だと紹介して持ち上げる二枚舌に騙されるのは味方だけだぜ、とは言いつつ嘘も1万回言えばそうだと思う人も出てくるから厄介なこと極まりない。

 だいたいが「自らの思想信条に従い、手弁当で左翼活動をしている人も多いと思います。ただ、そういう方々の多くは、失礼ながらあまり余裕のある暮らしをしているようにはみえません」とはまた失礼極まりない言葉。余計なお世話だとしか言い様がない。「あなた方に動員をかけている団体の上層部の方やテレビで立派なスーツを着て弱者の味方を装っているコメンテーターの方々は、きっと驚くような裕福な暮らしをしていると思いますよ。その頂点に君臨しているのが朝日新聞のような気がします」って言うけど、そうやって右側を動員して扇動している頂点に君臨している媒体が、決して「余裕のある暮らしをしている」ように見えないことの方をまずはナントカした方が良いんじゃないか。いくらワルクチを書いたところでサッパリ儲からないことは既にに見えている。でもそれで集まった人が離れては後がないと信じ込んでいるから、麻薬のようにワルクチを重ねエスカレートさせていく。呆れて真っ当さは去り狭まる枠の中で張る虚勢が崩れた果て、現れる惨状にそれでも威張っていられるか。見物だねえ。


【11月1日】 そして気がつくとハロウィンが終わっていて、渋谷とか池袋とかいっぱいの仮装が集まって大騒ぎになった様子を見ることもなく、11月になっていたという。後にはまた渋谷あたで大変なゴミが残っていたというから、来年は規制も厳しくなりそうだけれど一方で、今年の騒ぎに乗ってさらに大騒ぎをしようとする人たちが集まって大変なことになりそう。問題は、そうしたハロウィンの仮装をコミックマーケットとかイベントとかに集まるアニメ系のコスプレと一緒に考えられてしまう可能性で、そのどちらが正義で悪かではなくって、現象として仮装=コスプレととられ、そして仮装が騒ぎゴミをまき散らすことが、イベントという場で粛々と行われるコスプレもそうしかねないという誤解を呼んで、少しだけ広がった居場所がまた狭められないかを心配してしまう。

 イベント会場だけでなくって、例えば遊園地だったり古めかしい洋館なんかがある庭園だったり古い建物なんかが並ぶ博物館だったりが、コスプレでの撮影を認め始めていたりする状況がここしばらくあったけれど、そして運営者もそうした拡大を積極的に勧めていたとしても、世間がコスプレ=仮装と認識してそして仮装にまつわる風評をそのまま受け取って「イカガナモノカ」と言い出した果てに、何か良くないことが起こらないかという不安はある。いくら頑張って身ぎれいに務めゴミは出さず露出も控えつつ理解も求める動きをしても、風評によって迷わされ惑わされた世間による指弾を跳ね返せるとは限らない。だって世間の方が圧倒的に“お客さん”なんだから。

 とりわけ一般市民の声とやらに弱い公共の施設に起こりそうな、騒がれるくらいなら閉め出してしまえといった、事なかれ主義からの排除なんかが始まったりしたらちょっと大変。だから今、この時期にこそ世間の誤解を解いておく必要があるんだけれど、すでに社会現象となったハロウィンの仮装の圧倒的な人数に、公序良俗を求めることが可能かって問題もある。成人式の正常化だってもう何十年も言われながら、そこで目立つことがすべてと挑み騒がれることが勝利と思っている面々はいなくならず、そうした人たちだけがクローズアップされてイメージを形成する。ハロウィンの仮装もそういう風にとらえられたら、仮装と同一視されがちなコスプレに及ぶ影響も少なくないだけに、ハロウィンの悪い意味での“成人式化”を防ぐなり、あれはあれで成人式の圧倒的多数が真っ当だと世間が認識するような雰囲気作りがあれば良いんだけれど。難しいかなあ、騒ぐのを見るメディアの好奇がある限り。

 追いつきそうだったオーストラリアも最後には引き離された叩きの、どこにターニングポイントがあったんだろうと思ってしまったラグビーワールドカップ2015イングランド大会の決勝戦「ニュージーランド対オーストラリア」。ダン・カーター選手という圧倒的に優れたキッカーが斜めからでも真っ直ぐに蹴り入れ決めるペナルティーキックによる得点から始まって、相手のキッカーもすぐに入れ返して拮抗しているかに見えたものの、奪うペナルティを確実に決めるダン・カーターの斜めからゴールを見上げるあの目つき、あの顔つきの迫力も乗って得点を積み重ねていくニュージーランドに対して、そうした反則を与えつつ自分たちはニュージーランドのディフェンスを突破しきれないオーストラリアは次第にじりじりと離されていく。

 そこでオーストラリアにとって幸いだったというか、ニュージーランドにシンビンがあって1人少なくなったところを、蹴り込んでは数が足りずに受け取り消し返せないところを攻め込んで最後はトライを奪ってニュージーランドの21点に対してオーストラリアは17点と、4点差まで詰め寄るんだけれどそこからダン・カーター選手のドロップゴールがあったり、やっぱりカーター選手のペナルティゴールがあって突き放され、最後ははオーストラリアが攻め上がったところからターンオーバーされてサッカーのようにキックから浮き上がったボールを手にしたニュージーランドの選手がトライしてキックも決まり、34対17とダブルスコアでノーサードとなりニュージーランドが史上初の連覇であり、そして3度目の優勝を飾った。

 前半のうちにもっと追いついていればとも思うけど、後半途中で迫ってその勢いで押し切れなかったところに守備を固めたニュージーランドの強さがあったってことなのかも。それとやっぱりダン・カーター選手。助走もあまり取らずにパツンと当てて真っ直ぐ飛んでくあのキックの弾道の鮮やかさ。ルーティンなんて過程に過ぎず結果こそすべてだということだし、そのダン・カーター選手だってボールを置いてから下がり場所をずれてクビを斜め上方と向けてゴール位置を確認する段取りを頑なに守っていた。キッと上を見据えるダン・カーター選手のあの目つき、痺れたなあ。

 そして、そういう段取りこそがルーティンであり、世間もこれがダン・カーターの所作なんだと注目すべきなんだけれど、ウィルキンソン選手ばりのポーズが持つ不思議さでもって五郎丸選手のルーティンにばかり注目が集まっているのが日本の現状。それで果たしてラグビーの凄さ面白さを伝えられたか、4年後の日本につなげられたか、ってあたりが今後の課題になるんだけれど、試合でルーティンをする五郎丸選手の姿を大きく取り上げ、蹴ったキックがどうだったかを紹介しない日本のスポーツメディアには無理かもしれない。五郎丸選手にはそういう環境から離れて、結果でのみ世間をねじ伏せられる環境で力を伸ばして欲しいかな。試合でやってこそ意味があるルーティングを試合じゃない場でやらないからと残念がられる環境にいたら、ペースを崩されるだけだから。

 さても大混雑かと思ったけれど、今の日本で現代美術を見に行列ができるはずもなくって六本木ヒルズの森美術館で10月31日から始まった「村上隆の五百羅漢図展覧」はチケットもすんなりと買えてそのまま会場へ。そして並ぶ村上さんの近作は、日本のあれは江戸時代とかそれ以前の戦国安土桃山室町等々、昔の絵画やら仏教彫刻やらから持ってきた意匠やデザインを引き継ぎつつも村上さん的に咀嚼して、箔押しとか削りとかいった地の上にデフォルメというのかアレンジというべきか、そんな感じに抽出されてリメイクされた者どもの乗せていく感じでもう15年以上は昔に、そうした削りを入れたDOB君の絵を出してきた時代から続くひとつの技法的探求と、そして工芸の上に現代のモチーフを乗せてミスマッチ感を誘う企みも捨て、日本のかつてのモチーフの再帰再生再興に挑む真っ直ぐさって奴が重なって新しい境地を見せていた。

 その集大成であり到着点ともいえるのが「五百羅漢図」という訳で、横幅が25メートルもある作品が4枚、四神の名を冠され描かれてあってそこには大小の羅漢がいて白虎やら青龍やら朱雀といった聖獣たちが描かれて圧巻の迫力って奴を見せていた。玄武が見えなかったけれどもそれは中央の山だか何かを本体に例えつつ傍らの龍だか何かを蛇に例えて玄武としているといった感じ。そうしたモチーフをあの巨大さの中にすかすか感を覚えさせないように配置し、それでいてぎゅうぎゅう詰めでもない安心感をもたらす構成力とかやっぱり凄い。小さい紙に描いたスケッチではどうしても明けるなり詰め込むなりしたくなるのを、どうやって捌いていったのかに興味が及ぶ。

 それほどの絵を、総勢で200人とかいう若い人たちを動かし、指示書にそれこそ罵倒に近い言葉も乗せて動かしながら、8カ月とかいう短い時間で仕上げてみせた工房的な作業工程に溢れただろうパッションも気になる部分。2011年3月11日という時間を経て得た境地をその場に描かなくちゃいけないという思いを発し、共鳴させつつそのモチーフとして五百羅漢を選び、けれども昔のまんまではなく今として、村上隆さんの作品として描ききったという、そのアート的な行為としては評価せざるを得ないし、大好きななけれどでも、ビジュアル面ではなかなか好きになれないという不思議な気分も同時に浮かぶ。そこが不思議というか、面白いというか。

 ポップなアイコンとしてのDOB君やら萌えの凝縮のKO2ちゃんやらには抱けた僕のモチーフへの愛が、達磨からこっち、あるいはその前の風神雷神的な、あるいは阿吽の仁王像的な「カイカイキキ」というキャラクターからこっち、和テイストを採り入れだした村上さんの興味の対象には抱けないというか、抱いてもしゃあないといった思いが続いている。曾我蕭白にしたって伊藤若冲にしたって狩野派にしたって五百羅漢の図にしたって完璧にクールなオリジナルがあってそれを見れば得られる興奮と快楽が、抜き出された村上さんの絵ではちょい削げてしまっているという気分。大仰にはなったけれど繊細さに欠けるとも言うか。

 それをやり抜く、やり切る、やり遂げるという行為への賞賛は惜しまないしできあがったものの凄さ素晴らしさは今世紀でも最大級なんだけれどでも、描かれているものがなあ。まあ多分それは僕がオタクでそこに鏤められているのがラムちゃんとかガンダムとかだったら喝采を浴びせていただけなんだろうけれど。だから僕は村上隆さんの弟子にあたるMr.の方が今は大好きなんだろうなあ。彼は本当に好きで好きなものに近づこうと立ち向かい好きの上に行ってしまったから。まあでも圧倒的な質量の前に惹いてしまっているだけで、見ていけば好きになれるのかもしれない五百羅漢たち。あるいは禅でいう円相図を現代に持ってきたシンプルな試みは好きなんで、通う内に全体から見えてくる何かがあるかもしれないんであと何度か通ってみよう。図録もまだ出てないようだし。


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