縮刷版2009年7月中旬号


【7月20日】 次の「機動戦士ガンダム」の新シリーズとして予定されている「機動戦士ガンダムUC」は久々にUC、すなわち宇宙世紀の延長に立つ正統派の新シリーズでありながらも未だいったいどこのテレビ局で放送されるのかがよく分からない。あるいは放送はなくネット配信だけということもあるかもしれないのが昨今のアニメを取り巻く放送事情でもあって、リアルにそうならないという保証はどこにもない。もしも仮にそうなってしまった場合、家庭においてブロードバンド環境に乏しい身では果たして見ることが適うのだろうかと考え、現状にネット配信されている作品から想像するに見もしなければパッケージも買わないのではないか、といった結論に至る。そうなのだ。「アキカン」も「いろはにほへと」も「FLAG」もまだ買っていないのだ。

 テレビ放送にはコストがかかる。その割に放送に必要な料金をテレビ局に収めてなお収益を得られるだけのリターンがパッケージ販売から得られない。放送されれば録画されてそれを見て良しとする人が多すぎる。ならば放送しないでネット配信かBSデジタルでの放送に絞って見てもらったあとでパッケージを買ってもらう。けれども地上波で見られなければどんな作品か知られないまま通り過ぎていく。そしてパッケージは買って守られないという矛盾が重なって今のこの状況を招いている。打破にしゃどうすればいいのか。どうあってでも見たいという作品を作れば良い。果たして「ガンダムUC」はそれだけの作品か。単行本の完結を待って読み終えてから考えてみるのが良さそうだ。ハマーン・カーンが出ていれば問答無用に買い、だったのだが。

 とはいえしかいブロードバンド環境でアクセスできない訳でもないので、そうした環境かにおいて「よくわかる現代魔法」の第1話をバンダイチャンネルで見たら一ノ瀬弓子クリスティーナがパンツをはいていなかった。す・ば・ら・し・い。いやでも後ろからだったんで見えたのは後ろだけだったけれどもそれでも本当に「はいてない」をやるとは。地上波では無理だったかもしれないなあ。お話はまずこよみの過去行きをやってそしてこよみが美鎖と出会う1巻へと戻るのかなどうなのかな。絵がよく動く訳でもないしビジュアルが圧倒的な訳でもなくって香りとしては「銀盤」に傾き掛ける可能性を感じさせるけれどもそこはそれ、踏みとどまって最終回までしっかりしたアニメであって欲しいと願おう。達成されればパッケージ、買っても良いかも。いやしかし。うーん。アラン・スミシーよ出るな。

 ってことで南々井梢さんって人の男子新体操部が舞台になった小説をひもとく。その名も「コカンセツ!」(徳間書店)はトクマデュアルEdgeの新人賞とかとった本。レオタード姿で踊るのが格好悪いと言われ続けた男子新体操部員たちがキャプテン顧問に反乱してヒップホップ部にしちゃおうって話しをしてて、インターハイにキャプテンが出ている間に理事長をだまくらかして部の変更届を出してさあって段階になって先輩がインターハイで優勝して、それを見たテレビ局が取材するぞって言いだしてさあ困ったって話。

 そんなに嫌ならとっとた辞めればいいのにやり続けていてそれでいて反発しようとしたのにしきれずうだらうだらしている奴らのマインドに、気持ちは分からないでもないけれどもちょっと共感しづらい。やって来る謎めいた美少女もとくに誰かを導くメガミさまて訳でも逆に悪女って訳でもなく、大人の走狗となっていただけのただの脇役。強烈さってやつが輝かない。そんな風に全体を通してキャラが飛び抜けてないってところが話をこじんまりとしたものにしているって感じがないでもない。

 けれども現実離れしたスラップスティックな物語でなければ、人間の心理がたどり着く範囲ってのは人間の限界を声はしない。無理に突拍子もない設定にして、ベタベタな青春の挫折とそして超越ってドラマにしてしまっては鼻白む人もいるかもしれない、って考えるとこんな辺りに落ち着くのもまあ悪くない。ライトノベルのレーベルの方から出なかったってところにも、割にリアルなストーリーとして読んでもらいたいって版元の意図もあったのかも。とりあえず男子新体操に興味を抱けることは確実な1冊。股関節が柔らかくなるならちょっとやってみたいかも。小学4年生の段階ですでに前屈で地面に手先が届かないくらいに体が固かったんだよ僕。

 人類破滅って事態に切羽詰まっているような世界にありながらも学園があって学生たちが青春していたりするんだけれどそこから背中合わせに死がのぞいていたりするっていう、ともすればとっても錯綜気味な設定が流行始めたのってやっぱり「ガンパレードマーチ」あたりからなんだろうか、それよりもさらに遡った「新世紀エヴァンゲリオン」辺りに根っこを求めるべきなんだろうか。まあそれでも日本が存亡の時期にあったって昭和20年に尋常小学校も立派に昨日して子供達は学んでいたりした訳なんで、案外に破滅の間際まで学校ってのはあって最期にして最後の授業なんてものが行われたりするのかも。

 そんな感じで市川丈夫さん「刹那のイグザルト1 かしずきたちの教室」(富士見ファンタジア文庫)って奴をさらりさらり。異世界からの侵略者を相手に戦う力を若くして持ったもののとある事件がきっかけになって監獄に閉じこめられて数年。空白となった2秒に何が起こったかのみならず、何かが起こったということすら一切合切黙秘するよう命令されて釈放された主人公の少年が、お付きの少女を得ながらそうした異世界からの侵略と戦う力を持った人々を育成する学校に転入して起こる事件を描いたストーリー。親切な同級生なんかに恵まれたように見えて裏でうごめく主人公を倒そうとする陰謀が、とりあえず暴露されたよーでその奥にさらに親切の皮を被った裏切りが控えていそうな予感が果たして当たるのか。圧倒的過ぎる敵を退ける術があるのかも含めて気になるシリーズだ。

 気にするから気になるんであって気にしなければ気にならないといったのはブッダだったか釈迦だったか。どっちも同じだ。違うそれは菊島社長の言葉だった訳だけれども物事を認識する行為の本質をついた言葉として深く心に刻まれていたりして、面倒なことが多いこの世界を、ストレスを感じないで暮らすためにとっても大切な言葉として実践していたりもするんだけれどそれでもやっぱり気になり過ぎる癖は直らない。達観が足りないなあ。けどしかしそれは超能力のようなものでも通用するのかってあたりが目下の疑問で、「円環少女」なんかだと異世界の人にとっては気にし過ぎるが故にとっても強大な力を持つ魔法が、地球人にとっては気にしてないから気にならないどころか存在すらしていないものとして扱われ、消滅させられていたりする。

 渡邊裕多郎さんの「暴力風紀委員のオキテ!」(朝日ノベルズ)の場合だと、事情がちょっと違ってて、一応は超能力が存在しているものとして認めるものの、気力でもってなかったことにしてしまうからむしろ凄いというか。実戦系のそれこそ生きるか死ぬかを争うような武術を学んでいるというより盗んでいたりする主人公の少年は、学校で正義を名乗って不良から煙草を取りあげ暴れるようなら肉体言語で言い聞かせるパワフルさでもって暴力風紀委員と呼ばれ恐れられていた。そんな彼の前に現れた転校生の少女と転入してきた女教師。なぜか2人で両手を向け合いにらみ合ったまま動こうとしない姿を見て、主人公は何事かと声をかけたら2人は驚き慌てながら吹っ飛んだ。

 どうしてだ。聞くと2人の間に超能力が行き交っていたらしい。でもって少年にも向けられていたんだけれどもなぜか力がすり抜けてしまって効果がない。なぜなんだ。超能力を信じない、という訳ではなさそうだけれどそれほど気にしないという精神、気にしたってねじ伏せるという強い精神が超常的な力が直接及ぶことを防いでいた。もっとも超能力で飛ばされる石礫に当たれば痛いし血もでるから決して無敵じゃない。おまけに敵として浮かび上がったのは超能力を教える道場を率いる男で、かつて傭兵もやっていたというレオナルド根岸。超能力に秀で体術にも長けた男を相手に普通の少年は勝てるのか。

 って辺りを核としたストーリーは、体力バカで傍若無人な男の主人公なり強靱な使命感を持った少女が戦いに明け暮れる物語を描かせては随一な渡邊さんの筆でもって、どこか脳天気でどこか愚直な格闘アクション(ちょっぴりコメディー)に仕上がっている。もしかして続くのか。だとしたら愉快だけれどもそれだったら過去の作品にも日の目をあてて欲しいなあ。「日出ずる国の吸血鬼」とか「プリンセスの一人軍隊」とか「紅伝説」とか「光速のMIB」とか。おもしろいぞお。おもしろいはずだぞお。何か弱気、ってかもうあんまり覚えてないんだよなあ。でもとりあえず「日出ずる国の吸血鬼」は確かに面白くってちょっぴり泣けた記憶も。必殺の合本復活とかないかなあ。ついでにだったら吉岡平さん「にんげんはじめました」「にんげんゆめみました」も。


【7月19日】 お台場に「機動戦士ガンダム」の等身大立像があるなら、横浜のみなとみらい地区にはザクの等身大立像があって、東京湾岸に屹立しつつ牽制し合えば名物になって愉快だという思考を延ばして、それなら幕張にはいったい何があったら相応しいのかと考えて、ガンダムにザクの2大ヒーローメカを奪われてしまった以上は、やはりヒロインをぶっ建てるしかないという結論に達する。ヒロイン。それはつまりセイラさんということになるけれど、等身大セイラさんなんて170センチが関の山で目立てないんで、ここはいっそ10倍サイズのセイラさんを幕張メッセの向こうにある千葉マリンスタジアム横の松林に建てれば、見に行く人もお台場やMMに負けないくらいいるんじゃないかという妄想がむらむらと浮かぶ暑い夏。ノーマルスーツが良いか制服姿が良いかは人それぞれか。見上げるんだしここはやはり……。

 と言うわけで夏本番の幕張メッセへと向かい、お笑いが大量に集まった「LIVE STAND」の大行列には目もくれないで横のホールで昨日から始まっていた体操の「JAPAN CUP009」とやらを見物。新体操は遠い昔の2001年にイオンカップって奴を見に行って、あのカヴァエヴァ選手とかが出場していてしばらく前に起こったニューヨークでの同時多発テロの被害者を追悼する集団演舞に、自在の調和って奴を感じたかというと何とも微妙な感慨を抱いた記憶があるけれど、体操の方は実はまだ見たことがなくって、せっかく近場でやっているんだし、ブラックサンダー大好きだという若きエースの内村航平選手も出場しているってんでこれは見て置かなくちゃといった気分でいっぱいだったかというと、むしろ気分は女子選手がいったいどんな感じかといった方に傾いていたって感じか。

 つまりはだからレオタード姿がどうってことでもあるんだけれど、それはそれとして昨今の、体操選手のこれはいったいどこの上海雑伎団(上海じゃん)かって思わされるようなアクロバティックな動きとそして演じている選手たちの小振りさに、もはや女子の体操ってのは一般的にそうと認知されている大人系スタイルの人たちが、美しさと力強さを競い合っていた時代ではなく、小さくても出っ張っていなくても弾んで刎ねて飛んで着地していれば素晴らしいと評価される世界へと、様変わりしているのかって懐疑もあって、いったい女子体操はどうなっているんだという興味もあって出向いたというのが事の次第の多分2割くらい。あとはやっぱり眼前で見るレオタードに惹かれたというのが大きかったりするのかしないのか。内村くんはだから理由の1割くらい? そのうちの9割が腋毛? なんと興味本位で即物的。でもまあそんなもんだよ、何かを始めるきっかけってのは。

 到着すると異様なまでの高い女子率のこりゃあうっちー、大人気って思ったかというとさにあらず、前日のフジテレビの中継を見てそこにやっぱりいたりした「嵐」の相葉くんの姿にこれはだから相葉くん目当ての子たちだって理解。バレーボールの中継だとかにこうしてアイドルを引っ張り出して盛り上げようとして大勢の観客を動員はするものの、現場では選手も競技もそっちのけでアイドルに見入り歓声を上げる人たちの大量発生に、集中できないって言い出す選手もいたりして顰蹙を買い、またテレビで見ているスポーツ好きにも鬱陶しがられて視聴率を下げてしまうデフレスパイラルがここでもまた引き起こされているようにも見えたけれども、調べたら相葉くん、すぐご近所の花見川区の出身でもあったみたいで幕張にまるで無関係なアイドルって訳でもなさそう。というか他にいるなかで相葉くんがピンって辺りに多少なりとも開催地と競技への敬意があるんだとここは了解してあげるのが大人ってものかも。

 でもってチケットを買って行列には並ばず、隣で開かれていたお笑いのライブではない恐竜のイベントを見物。でっかいのがいた。けどこれって別に化石って訳じゃなくって、化石を元に骨の模型を作って組み立て直した標本って奴で理科室にあるつり下がった骸骨と変わらないって言えば言えるんだろうけれども、何億年かの時を刻んだ本物に触れる重要さとはまた違った、何億年か前に確かに存在していた巨大な生物のビジョンを今に再現して見せて、そのスケールに圧倒される体験を与えるってことの重要さも、一方にはあってこういう展示になっているんだろう。実際のところ本物の化石ったって部分部分が欠けていて、そのままでは完成しないから補修がしてあって、それでもどこか痩せた感じになってしまいがち。だったら美しい模型でもって全体像を見せた方が見る方も理解が早い。

 一部にはそれでも発掘された化石を置いてそういう形で残るんだと分かってもらって、隔てられた時が繋がる不思議さと楽しさを味わってもらうことで、今というこの時代だけが、絶対的な時代じゃないんだと肌身に感じさせることで、未来もまた存在するのだという思考が育まれれば、それはそれで世界のためになるのだ、なんてことをちょっとだけ考える。まあ子供ってのは単純にデカくて凶暴そうだから恐竜が好きなんであって、古いかどうかってことはあんまり気にしてないんだけれど。それでも心に打ち込まれた1石が何年後、何十年後かに意味を持ってくればそれはそれで素晴らしいことだと思えばすべてに前向きに取り組める。目先の稼ぎに汲々として明日明後日のことすら考えられなくなったらもう終わりなんだだと知ろう。とうか知れ。無理かやっぱり。

 会場を出て戻って体操。まずは女子。なんだデカいじゃんロシアとかオーストラリアの選手たち。日本から出た鶴見虹子選手が140センチくらいで、やっぱり日本の上村美輝選手が149センチと小柄だから大きく見えるのかもしれないけれど、それでもスタイルとしては昔のナディア・コマネチ選手なんかよりも普通に大人系。それで動きが鈍重かというとそうでもなくってちゃんと飛ぶし回るし跳ねるし止まる。まあそりゃあ男子がそれなりのサイズで体操をやって激しく飛んで回って跳ねて止まっているんだから、女子だけが小さいゴムまりがはね回るような印象の競技に留まっているってことはないんだろうけれども、結果を見るとやっぱりサイズ的に小柄な中国の選手が優勝していたあたりから類推するに、体操女子の競技としての性格が、そちらで得点が出やすいようになっているのかもしれない。2位3位はロシアだから小さければ小さいほど良いってことでもないんだけど。ここに例えばテニスでいうならヴィーナス・ウィリアムス選手みたいに体格で小柄の男子並、筋力でも同等のボンバーな女子体操選手が出てきてダイナミックさと優雅さを兼ね備えた演技を連発したら競技の雰囲気も変わるのかどうなのか。ちょっと興味。

 目の前で見る平均台はなかなかに眼福であったと書きつつ、段違い平行棒も眼前で見たかったと慚愧を感じつつ場面転換後の男子を見物。眼前は鞍馬で床運動を終えた内村選手もやって来ては盛大なスピンを見せてくれた。テレビで見ると小さい場所でくるくるやってるだけの迫力に乏しい競技だけれども、腕だけで台の上を移動し周り時々逆立ちもしてそしてそのまま移動したりする技ってものに使われる、パワーとバランスの質はなかなかのもの。それをいとも簡単そうにやってのける体操選手たちの凄みって奴を、これほどしっかりとしてじんわりと感じさせられる競技も他にないんじゃんかろーか。まあでもやっぱり迫力じゃあ鉄棒か。ってことで3種目ばかり見て退散して帰宅して寝て起きたら内村選手が鉄棒で鮮やかな演技を見せて優勝していた模様。欧州チャンピオンを下しての優勝だから、今回が初開催で、会場が代々木の体育館のよーなデカい場所でなく、参加がたった12人しかいなかったとしても、相当の価値があったって言えるんだろー。ともあれ初体験の体操競技。面白かった。次ぎは男子新体操の番だな。イッツ・ア・コカンセツ。


【7月18日】 無理は承知で言うならもしも学習院大学に入っていたら秋篠宮殿下と同学年で同じキャンパスを行き来する中で知り合いになり学友となって妹君とも親しくなって「ルパン三世カリオストロの城」の話で盛り上がって仲睦まじくなって……といったルートもあるいはあり得た可能性は絶無ではないが、現実の問題としてまず学習院に入る学力がなかったという点がひとつと、仮にあったとしても皇室に連なる者に近づける機会などおそらくはなかっただろうとい点がひとつ、理由としてあってやはり可能性は完璧にゼロだったと断言したい。

 国にとっても大事な方々に、何をする訳ではなくても何をしでかすか分からない一般人を近寄らせないのが普通の展開。そう考えたときに「機動戦士ガンダム」で、まるで出自の不明なシャア・アズナブルが、ジオンの士官学校でどうして皇子とも言える身分のガルマ・ザビと親しくなれたのか? といった疑問がひとつ浮かぶ。新興国とはいえそれなりの年月を重ねて組織も整ってきただろう国の、最高学府に近い位置づけの学校に通う皇子にはそれなりの身分の学友たちがいて、がっちりを周囲を固めていたはず。そこに怪我をしていたとはいえ顔にマスクを被った男が現れたとしたら、普通は警戒して近寄らせないものだ。

 あるいはきわめて優秀な成績を示してガルマからの興味を誘い、向こうから近づけさせたといったことも考えられるが、その場合でも精緻な身辺調査が行われて出自を精査され、怪しければ即座に排除されたに違いない。これで普通に民間の出でしかない人間ならばそれが露見するだけだが、キャスバル・レム・ダイクンという本当の名前を偽っての生活。作られた経歴の人間が士官学校という誰でも入れるはずがない場所にいて、誰でも近づける訳ではない皇子の友人に果たして成り得るのか。成り得るとしたらどういった手法で身分や経歴の詐称を行い、それをどうやって世間に納得させたのか。決して無能ではな諜報の舞台を欺き続けられた理由が知りたいが、これは安彦良和さんの漫画版「THE ORIGIN」に描かれていることなのか。今までファーストの至高はテレビ版のアニメにあると断じて敬遠して来た漫画版だが、そろそろ読むべき時に来ているのかもしれない。

 偽っていても割に簡単に露見してしまっている可笑しさがニュアンスに出てきた田口仙年堂さん「本日の騎士ミロク」(富士見ファンタジア文庫)の第2巻。見た目は楚々として綺麗な声で流麗な言葉を紡いで国のイメージアップにつなげてきた王女様が実はとでもないじゃじゃ馬で、そんな王女のところに騎士として採用されながらもなぜかまるで下僕のような扱いを付ける親衛隊として回された少年ミロクが、実は近隣国の王子様で政変気味なことがあって母親や姉妹といったところを残して妹1人と召使いの少女1人を連れて脱出し、やんちゃ王女のいる国に暮らすようになっていたというのが明かされた第1巻。

 ミロクの出身国で行われている魔術絡みの胡乱な出来事の影響を受けた国がミロクの仕える国へと攻めてきたものの王子であり且つ剣士としても相当な手練れだったミロクの活躍もあって撃退に成功、国は守られたってところから始まった第2巻では、打ち破った国へと向かいミロクの出身国が行っている得体の知れない事態に対抗しようと王女が呼びかけるって展開が待ち受けていたんだけれどもそんな過程で実はミロクの身分が王女も含めてバレバレだったということが判明。それも昔どっかで見たって記憶からの判明だったりする辺りに、隠そうとしたって隠しきれないものがあるんだってことを教えられる、っていうかそんない王族って記憶力が良いのか?

 そうなると騎士というか下僕のまんまでいいのかって話にもなってくるけど元いた国に戻っても、王位を簒奪したっぽい次兄を相手に戦うことも出来ず戻れない。けれども残してきた母や妹のことも心配という気持ちの分裂になやんでいたら王女に見透かされ供にストレスに倒れそう。そこに現れたのがミロクの出身国でも異能の集団と見なされてる部隊。ミロクの周囲にいて普段は舞台装置の施行なんかをしているけれども実は手練れだったりする親衛隊の面々とも、五分に戦える力をもったその部隊を相手に戦う羽目になり、なおかつ率いていたシェンランという若者がミロクと関係のある人物だっただけに話はややこしさを増していく。居残るか戻るか。なやむミロクだけれど言いたいことはひとつ。お前モテ過ぎ。ともあれ何がミロクの出身国にいる兄王たちを誑かしているのか、その勢力が次ぎに狙うのは何なのかといった辺りに興味が沸く。続きを早めに。

 こっちも隠れた王子の物語。犬村小六さん「とある飛空士への恋歌」(ガガガ文庫)は風を操る少女ニナ・ヴェントをシンボルにした革命軍によって廃された王室で、父の王と母の王女を殺された少年カ・ルーエがこっそり牢屋から助けられて庶民の暮らしの中で育てられて5年とか6年とか。それでもしっかり把握している人はいたようで、革命後の未だ不安定な世の中でそんな血筋を担ぎ上げられてはかなわないと画策した勢力によってカルエルと名を変えていた王子は、空に浮かぶ巨大な島を船に見立てて世界の果てを探す旅へと送り込まれそうになるる。

 すでに王政復古の夢など消して現実に生きる術を覚えていたカルエルだったけれども、シンボルに過ぎなかっただけに用済みとなた今は政府から持てあまされているニナ・ヴェントが浮島にトップとして送り込まれると聞き、母の敵をとりたいという思いと育ててくれた家族に迷惑をかけたくないという思いから浮島への移住を決断。妹で自称姉のアリエルも空への思いからいっしょについて来た浮島で、カルエルはひとりの少女と出会って心を交わす。真面目そうで優しそうで何より可愛い少女クレア。互いに互いを思うようになった2人だったが残酷な運命がその先に待ち受けていた、ということで第2巻。

 未だ2人の“正体”は露見しないまでもクレアはクレアでカルエルの可能性について知って気持ちを惑わす。カルエルがクレアについて知った時にいったい何が起こるのか。クレアはクレアなんだと信じられるのか。さらに現れた神聖レヴァーム帝国の機影。「とある飛空士への追憶」に登場した世界を2分する国の存在がカルエルやクレアたちの冒険いnどんな影響を及ぼすのか。時代がそもそも「追憶」とどれくらい重なっているのかも分からないであの勇敢なお姫さまが出てくるかどうかは不明だけれど、世界がだんだんと広がっていく面白さなんかも味わえそう。何より互いを知らないからこそ結び合っていられた2人を待ち受ける過酷な運命が、2人をどこへと導くのかにも。続きを待とう。ラーメン食べながら。

 むっくりと起き出して鷲宮へと向かう。「らき☆すた」で人が集まるようになってからこっち、その人通りをどれだけ持続させるかってことに力を入れてきた鷲宮町商工会がやっぱり来てもらえるようなことをするのが1番と、企画して開いた「萌フェスIN鷲宮町」って奴を見物に行く。タイトルからしてどうにもいかにもって感じで、そんな上から目線のタクラミに誰が乗るものかって感じを持って、人もあんまり行かないんじゃないのかなあ、って心配もあったけれども午前10時半くらいに到着したら何と! 割にいっぱいの人手でちょっと驚く。だって別に限定グッズが出る訳じゃないんだよ。声優さんのイベントがある訳でもないんだよ。なるほど「らき☆すた」関連のグッズは並んでいるけれどもそれは前から売らているようなもの。そこでしか買えないものじゃない。

 だからマニアは別にわざわざ行く必要なんてない気もするイベントだけれどちゃんと人がやって来ている。何故なのか。多分それはそこにそうした空間があるってことへの共感が、醸成されててそこに行くことによって得られる幸福感や共生の感覚にひたりたいっていう人たちがしっかり育っていたから、なんだろー。よくあるコンテンツを使った街おこしって奴が、大河ドラマなんかの舞台になっているから来てくださいって感じで一過性で一方的で、ドラマが終わってしまったらあとは誰も見向きもしなくなってしまう状況に陥りがちなのに対して、鷲宮町では町が継続してそこに来てもらえるような空気づくりい取り組んでいた。「らき☆すた」はスタート地点ではなるほど強烈なフックになって大勢を引きつけたけれども、さすがに番組が終わって2年とか経って吸引力は下がり気味。そこでもういい加減に稼いだからと手を引く地元が大半な中で、鷲宮はしつこくそして地道にそこに来てくれれば楽しいんだという雰囲気づくりを行ってきた。

 地元の食堂なんかで出す限定メニューもそうだし、ストラップの販売なんかもそう。それらも言うなれば”モノで吊る”行為ではあるんだけれどそうやって誘っておいて売り切って終わりにしないぞっていう気概が、町にはあってそれがまた来たいっていう気持ちをファンに抱かせるようになった。だから別に声優も来ずクリエーターも現れず限定グッズが登場する訳でもない、せいぜいがお弁当とかの類に西又葵さんのイラストが描かれた掛け紙がつくくらいであとは痛車が並んでいたりするイベントに、朝っぱらからはるばる電車や車やバイクでやって来て、そこに留まり時間を過ごす人たちが大勢集まったんだろー。

 ある意味努力の賜であって、他の自治体なり商工会がいきなり「痛車100台集めましたよ」ってやっても人は集まらない。まずは地縁があってそれを断ち切らせない努力があって乗っかるファンがいて成り立つ成功の構図。言葉だけが流行っている「萌えおこし」なり「聖地巡礼」が、揶揄のニュアンスを含んで一過性のブームと見なされないためにも繰り出す側には真剣さが必要で、受け取る側も真摯さを組んで共生しつつ頭には乗らない謙虚さが求められている、ってことか。ともあれ成功、おめでとうございます。来年もあったらまた行こうっと。

 会場では秋田県の羽後で美少女イラストをつかった米とか地元を紹介するスティックポスターなんかを仕掛けた山内貴範さんの活動報告なんかをまとめた「町おこしin羽後町 美少女イラストを使ってやってみた」が売られていたんで購入。「萌え」という初期段階ではどこか揶揄のニュアンスが含まれがちな言葉を使わず、美少女イラストという言葉を使っているところがこだわりでもあり戦略でもあって、地元の子供が見て可愛いと思えるようなイラストを普通に使うことで地元の意識をまず変えて、そして効果を訴えつつ地元に働きかけて浸透させていったあたりに企画者としてのクレバーさを感じる。

 まっすぐで純粋なだけでは時にそれが鋭さを持って相手を突き刺し反発される。そうはせず、ネックになっている部分があるならそこを考え、けれども目標を曲げることなく説得によって目的を達成する努力ぶりには頭が下がる。本も出たことだしまとまって話をか聞いてみたいなあ。愛知大学文学部社会学科の出かあ。社会学科でも伊良湖岬までの踏破ってやっているのかなあ。居酒屋の大学亭とかパスタ屋のアルデンテとかまだあるのかなあ。聞いてみたいなあ。


【7月17日】 「機動戦士ガンダム」がSFか、という問題がはらむデリケートさについては実はあまり良く知らなくて、かつて論争があったということくらいの知識しかなくその論争の要点がどこにあって、だから「ガンダム」はSFに非ずといったロジックが成り立ったのかも分からない。これだけの伝説を今に残した論争なのだから、どこかでアーカイブ化されていて不思議がないのにそういった気配がないのは、つまり論争によって白黒つけることが目的ではなく、論争によってSFというものの定義なり範囲なりスピリッツを言語化して視覚化することの方に要点が置かれていた、からなのだろうかどうだろうか。

 未来でありテクノロジーの可能性についての探求がありそのテクノロジーがもたらす未来のビジョンがあってその上でくり広げられる人間のドラマがあるものをもってSFと言うか言わないかでは、個人的にはSFというといった考えがある。おそらくは多くもそういった捉え方を行っていて、にもかかわらず意見が別れる場合はこうした要件に適っていないということがあるのだろう。「ガンダム」の場合は個人的には適っていたと感じているが、人によってはテクノロジーの可能性について荒唐無稽さが気になったりしたり、未来のビジョンにアイディアがなく延長でしかないといった点が問題だったりして、SFに在らずと言った、といった見方もできないでもない。果たして「ガンダム」はSFなのか。30周年を記念したこの時に論争が再び盛り上がってくれれば、自分の中のSF観について考える絶好の機会となるのだが。

 なるほど。SFかという問いにSFとは何かを考えてみて、現在とは違ったビジョンを見せ、現在とは違った環境を創造した中で、現在とは変わっているだろう人々の情動なりを描いて、現在に生きる者たちに示唆を与え啓蒙し驚嘆と確信をもたらす類の作品を、SFと位置づけるのだとするなら平野啓一郎の「ドーン」(講談社)は紛うことなきSFだと言えるだろうし、人智の及ぶ科学なり人智の届かない超科学によってもたらされる革新のビジョンをSFと言うのだとしても、「ドーン」には立派に進化した科学が存在して、それによって起こる変化が世界に革新をもたらしているという点で、やはりSFなのだと言って良いと思う。

 とはいえしかしメッセージなり主題にそうした革新のビジョンを求めるのだとするスタンスなら、「ドーン」に散りばめられたガジェットはどちらかといえばコミュニケーションの部分であったり、アイデンティティといった部分に進歩をもたらしこそすれ、それが主題となって迫ってくるとうことはない。訴えたいのは突き詰めれば人と人との調和をいかにして成し遂げるのか、欺瞞にあふれ形骸化した正義の御旗のもとに覆われている世界にどんな言葉が効果的に働くのかを訴えた、強く激しくてそして純粋さにあふれた啓発の物語。小説であってSFというジャンルに特定されるものではないのではないか、といった声が挙がってもまた仕方がないという気もする。

 火星行きの有人宇宙飛行という誰も経験していない事態に起こる出来事から、それの遠因となっている家柄であったり人種であったりといった、人間そのものに関わる問題を描いてこの地球に未だ残るさまざまな偏見を浮かび上がらせてみせ、そうした人間が属する国といったものが持つ、正しくも残酷な側面を照らし出してみせて解消されないそれらの状況を強く問いただしてみせる。そして考えさせられる。自分はどうすべきなのかと。何をすべきなのかと。エンディングに向かって打ち出される、一般良識としての正義に近い行動や言葉に従いたいという気持ちはなるほど強いが、それを言って通る状況にないこともまた事実。個々のつぶやきの総体が政治を動かすような状況を、何によって生み出せばいのだろうかと深く考えさせられる。

 ネットのような集合知を顕在化させるテクノロジーか? それもあるかもしれないが、一方で自在に顔が変えられるテクノロジー、監視カメラのネットワーク化によってどこにいようと即座に判別され把握されてしまうテクノロジーが生み出すアイデンティティの揺れについての指摘は、これから来るべき社会において人がむしろ個性を埋没させていきかねない不安を醸し出す。自分という存在への確信が希薄になっていくだろう未来において、拠り所となる国が取るだろう愛国心の喚起が招く激しい状況。嫌でもそこに従わなければ永遠に下へと落ち続けていってしまう不安。まさしく「ドーン」に一直線ともいえる世界をでは、いったいどうやって上へと向かうようにひっくり返してみせれば良いのかを、紡がれた物語の中から人は考えていくしかない。それでしか未来は得られないのだろう。

 幸いにして物語には明日人という主人公を始め、火星に行って帰ってきたという英雄たちがいて、世界から注目を集めている立場に乗って世界に影響を与えうる発言を行って、世界を導こうとした。現実の世界にそんな世界的な英雄はいない。いたとしても特定の国家の特定の勢力に利する言動でもって英雄となった存在くらい。ワールドワイドでグローバルに英雄となれる数少ない人物だったマイケル・ジャクソンが死んでしまった今、誰が明日人やリリアンの立場を受け継ぐのか。平野啓一郎にはだからもっと世に出て積極的に言葉を発して多くを導くような振る舞いを、求め願って止まないのだが、果たして。

 だめだ分からん「ルービック360」。あのルービックキューブの開発者が新しく作ったって触れ込みのパズルなんだけれども絵や柄を合わせるんじゃなくって3層になった球体の中心部から穴を通して外縁部の球についた突起の中へと球を運んでいくだけの遊び。だけど竹みたく節のあるビニール風船の最上部から節に開いた穴を通して鈴を落としていくような感じにはなかなかならないのは、3層になったクリアボールの1点に重りがいれてあってひっくり返すとそっちが底になってしまって、反対側にある穴に入ったボールも元に戻ってしまう点。幾つか動かしているとそんな重りがストップして、穴が下になって球が入る場合もあるんだけれどそこから先のクリアボールでも同様に重りの反対側にある穴を通さないと行けないから、間違うとすぐにクルリと回って元の中心部へと球が戻ってしまう。

 運良く外側へと持って行けてもそこから先の、突起部に球を入れる時に色で合わせなくちゃいけないから難しい。そっちへとボールをもっていくにはガイドを通す必要があるんだけれどそのガイドはくるくると周回はせず特定の穴にしか届かないから間違えると別の穴に落ちてしまうし、6色あるうちの3色づつでガイドも異なるから違う方のガイドに入れてしまったら元の木阿弥、やり直しってことになる。ああ難しい。それでも適当にやっていたら3つくらいまではピッタリはめられたけれどもそこから先が進まない。進んでも今度は先に入れた球が飛び出て戻ってしまう。そんな繰り返し。果たしてこれに運ではなくってテクニックで完成させるルートはあるのか。それを使えばどれくらいの速度で完成させられるのか。研究しよう週末に。ゴロゴロと。

 アニメ化も決まった「戦う司書」シリーズの新刊が久々に登場。「戦う司書と絶望の魔王」(集英社スーパーダッシュ文庫)はハミュッツ・メセタの上司筋だった人が復活しては世界を滅ぼしに出て図書館の司書を全滅に追い込みハミュッツ・メセタも打ち倒してあとに誰も残っていない状態に至った前巻から、話しは大きくは進歩しないで復活した超人的な力の持ち主の内部に溜め込まれた“本”から魂が蘇ってはその超人へと挑もうとする話がまずあって、そんな超人が過去にハミュッツとの間でどんなやりとりをしていたのか、って所が語られてそしてそれならいったいどうやってオチを付けるのか、ってあたりに興味を引っ張ってとりあえず終わっている。次がラストらしいんでやっぱりあるのはハミュッツの復活か、それとも全員まとめての地獄行きか。最終となる次巻の発売が今から待ち遠しい。


【7月16日】 30周年ともなれば「機動戦士ガンダム」の商品にもあの等身大立像に負けないくらいのインパクトを持った品物があって当然という意識がまず浮かぶ。ならばと訪れた「東京おもちゃショー2009」の会場で並んでいた「ガンダム」関連の商品は、数こそ多々あったものの、30周年というグランドイヤーに相応しい商品があったかというとこれがなかなかに難しい。まず考えるなら何が記念すべき年にこれならと納得できる商品なのかということだが、等身大は無謀としてもせめて人間と等身大の「ガンダム」ならば、インパクトはそれなりにあっただろう。

 もっともそうした商品はすでに世に出ていて、且つ販売も終了してしまっている。再販する、それも30周年に相応しいディテールに改めて販売し直すというのならファンとしては喜ばしい話になるが、しかしやはりインパクトという点では二番煎じのそしりを免れ得ない。巨大なプラモデルもすでにパーフェクトグレードでやられてしまっている。バージョンを改めるにはしかし年月もそれほど経ってはおらず、また費用も莫大なものとなって収益面で決してよろしくはなさそう。黄金のガンダム。プラチナ製がすでにあった。木彫りも同様。つまるところ商品としての「ガンダム」はあらかたやり尽くされてしまっていて、30周年を飾るに相応しい、新しくて画期的な商品を生み出しづらい状況にある。

 話しかけると答えてくれる友だちのようなガンダム。ガンダムは「ドラえもん」ではない。別に友だちでなくてもいい、乗って動けばそれで良い、なぜなら人間が乗ってこそ初めて意味を持つ拡張された身体、すなわちモビルスーツなのだから。という理解から構想を敷衍して、よりリアルさを追求したモビルスーツとしてのガンダムを、ここで考案してみるというのもひとつの手だったかもしれない。ちょっと商品化には向きそうもないが。

 体を覆うスーツとして、そして肉体の限界を押し広げる機能を持ったスーツとしてガンダムを考えた時にいったい、どんな形状のパワードスーツ、モビルスーツが考えられ得るのか。3メートルほどと小さい外観になるのか。やはり18メートルが必要なのか。人間サイズにやや外回りをプラスしたサイズであり、しっかりと「機動戦士ガンダム」のテイストを受け継いでいる進退拡張スーツを作って売り出せば、カーボンとチタンの「マジンガーZ」に200万円を出すようなファンもいたりする状況下で、30周年という時期も後押ししてファンを買いに走らせたのではないだろうか。それともここはマイケル・ジャクソンに習ってパワードが付かない、モビルもつかないスーツを作るという手もあったか。見かけはスタイリッシュなヨーロピアンスーツの裏地がトリコロールになっているという。

 そんな「東京おもちゃショー」では「機動戦士ガンダム」関連というよりは一連のハイエイジ向け商品として「仮面ライダー」の中身に自分の顔を入れられる「自分魂」の第2段として「シャア・アズナブル」が登場の予定。元がアニメな顔なんだけれど過去にリアル系のフィギュアにもなっていたりもするからそれを土台に現実の人間の顔をあてはめることによって、シャアのコスプレをしたような雰囲気の自分フィギュアを作り出せる、ってことになるのか。

 元が日本人だった「仮面ライダー」はたいていの日本人の顔がマッチするけど、元が西洋人のそれも相当に美形なシャアに日本人日本人した顔をあてはめたらいったいどんな姿になるのだろうか。得も言われぬコスプレ野郎がそこに現れたりするのだろうか。女性だったらどんな雰囲気になるのだろうか。シャアってよりはキシリアじゃんってことになるのだろうか。発売が楽しみ、っていうか自分で自分の作っちゃいそう。

 バンダイではあと辻ちゃんが出てきて自分魂ではなく自分プラモを作ってお披露目。ぺらんぺらんな板から切り離すとあら不思議、手足が曲がってちゃんと立つようにんらう「ペラモデル」の宣伝に登場したって奴でさっそく自分の写真を撮られてプリンターでシールを印刷されてそれが張られたペラモデルを見せてくれていた。でも小さくってどんな感じになっていかは不明。まるで生きているかのような辻ちゃんだったらそのまま愛でたりするんだろうけどしょせんはペラペラなペラモデルなんでそれっぽさはあっても辻ちゃんっぽさとはやや違うって感じ。さわってもプニプニしてないし、って辻ちゃんに触ったことがないから分からないけど。

 というか辻希美ちゃんを間近にみるのってこれが初めてだったっけ。「モーニング娘。」が大全盛だった時代には人気の幾分かを確実に吸い集めていたスーパースター。半分くらいは加護ちゃんの人気と重なり合っていたかもしれないけれども、それでもトップに近い人気の持ち主だったあの娘が目の前のほんの数メートルん所にいたりするこの現実は、やっぱり幸運なのだと考えるべきなのだろうなあ。今だって別に辻ちゃんおご威光が衰えたって訳じゃない。名前をまったく知らなくなってしまった(誰がいて誰がいなくて誰が止めて誰が残っているのか?)まるで知らない現「モーニング娘。」よりも、あるいは一般層に対する影響力では上なのかもしれないし。スターに出会えた「東京おもちゃショー2009」。来年はだから加護ちゃんに会いたい。

 大手は割にしっかりと商品を並べてアピールしているけれども中堅中小零細はブースもこぢんまりとして展示もそれなりで説明もなあなあな感じだったりしてあんまり乗り気じゃなさそうなのは、そうした場所で目立ったところで実入りがあんまりないって分かっているからなのか。せめてそれがどんな商品かくらいは説明して欲しいよなって思った某ブース。土佐弟が歩いてた。逆に熱心だったダイヤブロックの河田では、あの直江兼続のカブトをブロックで作って置いていた。しっかり愛の文字。被れるよーになっていたのが凄い。売ったら幾らになるだろー。ナノブロックの方でも伊達政宗とか豊臣秀吉とか武田信玄を作ってた。どれもそれなりに見えるところが凄い。戦国ブームでそういう感じとこちらが掴んでいたからか、ブームでなくても緻密に作られていたからか。あんまりブームに接していない人に見せて反応を聞きたいところ。そのためにも作り方をプリーズ。

 引っかけられたか煽られたかしたんだろうと信じたいけど犬飼基昭・日本サッカー協会会長。この期に及んでもなおJリーグの秋から春までのシーズンへの移行を画策しているそーで、何をどうすればそれが可能になるかを独自に調査し始めたとか。ポケットマネーだよな、1度はリーグでは否定された案件をひっくりかえして合同チームを作ったとはいえ、それなりな時間もかけて出た結論に対して1人の責任で異論を唱えるからには、自分の個人的な費用を用いて個人的なリポートとして出そうとして欲しいもの。論拠もなしに思いつきのようにそうした方が良いんだと言っているようにしか見えないこの状況で、自分の頑固で意固地な直感を公の財布で補強するのは間違っていそうな気がする。

 だいたいが果てしなく激しいリーグの軽視ぶり。Jリーグが必死になって「夏休みはJリーグへ行こう」キャンペーンを展開しているのに、犬飼会長は「そう言っても来ないと思う」とか言って否定的な意見を述べたとか。それって会長が言うべきことじゃないだろう。下が頑張っていることを頭から否定して良いわけがないだろう。それを言うなら冬にだって来ない。というより行かないよ真冬にスタジアムなんて。夏の夜の方がまだ見やすい。だいいち日程を勘案すればスタートは7月くらいになって、8月も普通に試合をすることになるんじゃないのか。2月をウィンターブレイクにあてるならなおのこと、夏だって試合をすることになるんじゃないのか。それなのに「来ないと思う」なんて言ってしまったら7月スタートになんて出来やしない。でもってウィンターブレイクなんかとれやしなくなる。それなのに金科玉条のごとくに掲げる秋春制。いったい何でそこまでこだわりのか。そこに何かがあるのか。いずれ明らかになるのかなあ。明らかになて欲しいなあ。


【7月15日】 「機動戦士ガンダム」でストーリーの軸になっていた1年戦争がラストで終わってしまって、これで戦いも無くなると喜んだ人の方が圧倒的に多いことは確かだろうが、中には非日常的な戦いにこそ自分の居場所があって、それがこれからもずっと続いてくれたら良いなあと思った人もいたかもしれない。そんな人が宇宙人も未来人も超能力者も注目するような異能の力持ち主だったとしたら、いったいどのあたりを繰り返して欲しいと願っただろうか。

 最初のサイド7から地上へと降りるまでは、命が幾つ合っても足りないくらいの過酷さだったから多分外す。かといってガルマを退けたあともランバ・ラルの追撃を浴びて死人も出たからやっぱり嫌。となるとオデッサ作戦を経て南米ジャブローで英気を養い再び宇宙へと上がってから、ソロモンを抜きア・バオア・クーへと迫る連戦連勝の戦いをこそ何度でも繰り返し楽しみたいということになるのだろうか。そしてそれを楽しみ尽くした果てに最後の1つをやり遂げて、もう充分と感じるとしたらそれはいったいどんなイベントになるのだろうか。やっぱり愛か。愛を得てそして次に進むのか。というとやっぱり異能の持ち主はミライってことになるのか。「八洲ミライの憂鬱」。ちょっと変かも。

 えっとしかしマジに今が何週目なのか混乱して来た「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」。4回目だったっけそれともまだ3回目だったっけ。2回までは普通でちょい気がつく系で3回目で最後に何とかしなくっちゃとなって何も出来なかったって記憶があるから、それをやり直してやっぱり駄目だった今回はそれなら4回目か。それぞれに描く角度は変わり長門のかぶるお面も変わっていたりと細部に見るべき芸もあって、そうした差異をご苦労様ですと讃えることも可能だけれど、このシリーズはそれよりやっぱり見ている人たちをも含めて「エンドレスエイト」の悪夢に引きずり込んで意識を混乱させたまま、現実では7月の大半を引っ張り回してしまったことの方にとてつもない意味があるよーな気がする。

 間延びした展開から短いカットを畳みかけて、意識を混濁させるような手口は他のアニメでもあるし、真夜中の放送ってことを意識してなのかしていないのかはともかく、シュールで得体のしれない展開をぶつけて眠気に迷った意識を彼方に吹き飛ばすような手口も過去にはあった。けれども毎回をしっかりと描いて作り上げて、それでいてしっかりと意識を惑わせてしまう、それも1ヶ月をかけてやらかしてしまうアニメってのは初めて見たし、きっとこれからも出てこないだろう。画期的にして完璧。そして唯一にして絶対。ある意味で「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズ最終2話に勝るとも決して劣らない事件に、リアルタイムで触れられたことをまずは喜ぼう。んでもって次はいったい何回目の「エンドレスエイト」なんだ? 夏はどうやったら終わるんだ?

 でもって「化物語」は銅40グラム、亜鉛25グラム、ニッケル15グラム、照れ隠し5グラムに悪意97キロで構成されていた暴言も引っ込んですっかりおとなしくなってしまったひたぎに絶望したっ。途中ではもう見せるとか見せないとかってもんじゃないくらいに見せて見せつけて見せまくっていたけれども、そのビジュアルの素晴らしさとは別に叫ぶ絶望先生の声がとっても猛々しくって、あの世界から浮き上がっていて真夜中に滲んだ頭をメラメラと活性化させる感じ、って見たのは明けて朝になってから録画でだけど。これで蟹は終わりで次はいったい何なんだ。眼鏡っ娘はまた出てくるのか。うずくまっていた吸血鬼の幼女は立ち上がるのか、等々の期待を残してまずは終わりの巻。買ったデカくて薄いアニメガイドはやっぱり読んだ方が良いのかなあ。

 風が吹いてきたんですって、そりゃあ万城目学さんが作家になろうと決めたきっかけと一緒じゃんって思った「風が強く吹いている」の映画製作報告会での大森寿美男監督によるご挨拶。元来は脚本家の人なんだけれどこの映画では脚本を書いたあとであれやこれやとあって背中を押してくれる人がいて、初めてのメガホンを自ら取ることになったとか。そんな人がいったいどれだけの映画を残せるの? って懐疑もたぶん浮かぶんだろうけれども原作者の三浦しをんさんを送り出し、万城目さんを送り出したボイルドエッグズの村上達朗さんに聞くとこれがなかなかに素晴らしい映画とのこと。なあるほど。

 ドキュメンタリーを見ているような感動を味わえるそうで、前に見た舞台とはまた違った走りに対する情熱って奴を、きっと感じさせてくれることだろー。公開は10月だからもうすぐ先。これとあと誉田哲也さんの「武士道シックスティーン」の映画がスポーツ物として今から気になって仕方がない。どんな映画になっているかなあ。見たら走りたくなるかそれとも剣道をやりたくなるか。剣道をやりながら駅伝をしたくなる、ってんならそれはそれで凄い。ついでに「BOX!」の映画でボクシングもやりたくなったら体がちょっと持ちません、って多分見てもやらないけど。体力ないし。金ないし。

 今度はマンドラゴラというかマンドレイクが相手かよ。引っこ抜けば命が吹き飛ぶ危険な草。犬に引かせれば犬が死ぬけどそれはしのびないと思うとやっぱり自分で引っこ抜くより仕方がないけど鳥羽徹さんの「オルキヌス2 稲朽深弦の調停生活」(GA文庫)の場合は可愛らしい顔をしていて自分から地面から出てきてくれるから無茶な叫び声とか上がらず無事にコミュニケーションが取れたみたい。そんなマンドレイクなんていないよなあ。というかマンドレイクてどこに行けば採れるんだ。とかいった感じにオルカっていう幻獣たちが暮らす星へと赴き、オルカたちの間に起こる諍いを調停する仕事についた稲朽深弦。薄い旨を小馬鹿にしされつつ頑張ってケンタウロスの筋肉野郎をなだめて尊敬を浴びた前巻に続いて今度はマンドレイクがストレスをくらって発する花粉症の問題を解決に赴く。

 冒頭から細かいギャグの応酬が合って読んで楽しいストーリー。ドワーフだがゴブリンだかが作る槍に「ぐんぐにる」と書いてあって投げたら大変だったりと笑える描写に挟まった、彼らが作った携帯電話で楽しむゲームで上位争いをくり広げている物たちの話がストーリーへと絡んできては、全体を解決する方向にも働いたりとなかなかに展開を考えて描いてある。これはなかなかの読み物かも。同じ仕事に就く少女はやっぱり着ぐるみが離せないよーで、カンガルーの恰好をしたり自動販売機の恰好をして美しい姿を隠してしまう。ちょっと残念。でもそんな着ぐるみを毎朝の朝食前に作ってしまうとは。まさに朝飯前。ってそのギャグを言いたいが為にそういう設定にしてしまう潔さにも拍手。田中ロミオさんの「人類は衰退しました」とはまた違った異文化(ディス)コミュニケーションの愉快さを楽しもー。「ニャル子」さんの新刊読まなきゃ。

 万城目さんが受賞したら面白いと芥川賞直木賞の発表をのぞくものの芥川直木とも鉄板な西崎北村のペアが受賞。もはや文化と文壇の範疇であってサブカル&ライトノベルが割り込む隙間はないと現場を引き上げる途中で見かけたことのある人を見かけたような。戻るとNHKが午後9時のニュースで芥川賞だ直木賞だと大騒ぎ。選考開場に入っていく選考委員達に今のお気持ちは、じゃなかった選考のポイントは、なんて聞いてたりしてもはや何かとてつもない賞って感じを出そうとしている。選考委員も困っただろうなあ。知ったことかよっていうか。

 でもって話題性が何より重要だって出版ニュースの人の本を売るコツめいた話を紹介。ならば今、もっとも売れている「1Q84」を書いた村上春樹さんは芥川賞とは無縁に出てきて今に至った人であって芥川賞がナンボのもんだってことも一緒に伝えるべきだったんじゃないかなあ。それがニュースって奴なのに。かくして権威づけられた芥川直木ばかりが高みへと向かい三島山本は沈黙を保つと。やっぱりインパクトが欲しいよなあ。あっちがイラン人の美人ならこっちはアフガニスタン人のイケメンに出すとか、あっちが1年に2回ならこっちは1年に3回出すとかしないと埋没の一途だよなあ。


【7月14日】 バンダイにおいて「機動戦士ガンダム」がキャラクターとしての売上高で「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」をしのいで第1位なのは確かだが、その商品内容においてガンプラ以外に果たしてどんなものがあったのかを考えてみた時に、ガンプラに似たフィギュアの類は思い浮かんでも、その他のものはなかなか浮かばない。ガチャポンのようなカプセル玩具もフィギュアの延長戦。つまりはガンダムはロボットの格好良さを具現化した商品だけが人気の中心であって、遊びそのものを楽しむ玩具といった範疇からは、やや外れたところに位置しているのだとも言える。

 そんなガンダムがキャラクター別ではトップという状況は、つまりバンダイという会社が玩具メーカーというよりキャラクターをハンドリングして商品化して稼ぐマーチャンダイジングの会社であるといった認識を、改めて思い起こさせる材料になっている。それを言うなら「仮面ライダー」だってキャラクターではないかといった声もありそうだが、変身ベルトのような商品は形状も重要となる一方で、仕込まれた玩具的なギミックもまた重要なものとなってくる。そこに玩具会社としてのアイデアを入れ込む要素がある。ガンダムには残念ながら変身ベルトはない。着せ替え人形もない。ガンプラの精度向上にも当然ながらアイディアは必要だが、それは「トランスフォーマー」のような玩具的アイディアのカタマリとはベクトル的に反対の、緻密さの探求に属するものだろう。

 今はそうしたガンダム関連の商材が、売れているからバンダイも安泰といったところだが、果たしてこれからの30年をガンダムが最先端のキャラクターとして生き残っていけるのかというと、昨今のノスタルジーを旨としつつ管理を強化する方向へのシフトを鑑みるに、なかなか明るい展望を抱きづらい。「黒神」に「宇宙をかける少女」が終わったサンライズから、新たな未来につながる作品が今の時点で出てきていない状況も含めて、手塚プロダクションやタツノコプロのような版権管理会社への移行が進んでいった果て、手塚キャラの玩具がほとんど存在していないようにガンダムの玩具類もまた、市場から退潮していきそしてバンダイの存在感も下がっていく、といった可能性も想像の範疇で浮かんでよぎる。果たして打っている手はあるのか。東京おもちゃショーでの展示に注目が集まる。

 そんな「東京おもちゃショー2009」の発表会を見物がてら、「日本おもちゃ大賞」の発表なんかも見物。今を代表するトレンディ・トイの部門ではタカラトミーが売り出した「生キャラメルポット」が受賞し、数ある女児向けのクッキングトイにあってもアイディアに優れ製品に優れているところを見せつけた。革新性が求められるイノベーション・トイ部門ではエポック社の「TV地球儀」が受賞し、遊びの楽しさを求められるベーシック・トイ部門ではタカラトミーの玩具で復活の徒にある「メタルファイトベイブレード」が受賞。バリアフリーを旨とする共遊玩具ではセガトイズから出ている「なぞるおえかき ピカッとかけた!」が受賞した。

 見れば一目瞭然。バンダイがいない。グループではメガハウスが出している新しいタイプのルービックキューブ「ルービック360」が受賞しているけれど、本体からは何も選ばれていないということが果たしてたまたま偶然なのか、キャラクターに特化した結果としての製品力の低下なのかをいろいろと考えてみる必要がありそう。細かく見ればいつかの「無限プチプチ」から続くシリーズもあって好調だけれど、ムーブメントを起こすような新しい遊びの形を市場にまだ、提案しきれていないような雰囲気がある。

 今回はまだ秘匿されていて、「東京おもちゃショー2009」でお披露目される「ドラえもん」のロボットのようなものもあるか、開発力に関してはきっと大丈夫だろうけれども、値段の高い特別品ではないベーシックな部分で、何かムーブメントを起こすような品物を出してみせないことには、やはり玩具メーカーとしての立場に、どこか足りていないような印象を与えてしまう。化石を掘り出す「ゼルゲノム」があり、無限にジョイントさせていける「ムゲンバイン」のような借り物ではないキャラを使った商品もあるから、アイディア勝負では決して負けてはいなさそう。あとはそうしたアイディアが、キャラ物に埋没しないような展開を、やっていくことが多分これから求められて来るんだろう。来年こそは全部門制覇を。それはさすがに遠慮するか。会長会社だし。

  「CANNAN」はショートチャイナでレース付きニーソックスのリャン・チーの存在感がミンタオくらいに薄くなってて目立たず残念。かといってカナンもそんなに暴れ回ってくれなかったんで進展が今ひとつ見られない。世界を脅かすUAウィルスとやらが蔓延った中で生き残ったらしいマリア嬢ちゃんが何で狙われているのか、何か秘密があるのかどうなのか。拘束姿から暴れ出して逃げ出したアルファルドって、目つきのそんなに悪くないレヴィみたい。あれでズボンがカットジーンズだったらなおそっくり。戦ったらどっちが強いんだろう? でもレヴィってたぶんバラライカの姉御にはかなわないから、バラライカといっしょで組織のボスクラスのアルファルドの方がやっぱり強いのかどうなのか。どっちにしたってロベルタ最強なのは間違いない。うん。

 ああこれは永久保存版かなあ「BLEACH」。女性死神協会の面々が海水浴に行くとゆー話で当然ながら全員が水着。朽木ルキアも水着で彼女がやっぱり女の子なんだと分かる。着物の時はともかくワンピース姿でも女装っぽさが滲んでしまうもんなあ、色気皆無なだけに。でもって卯ノ花隊長はサイドが切れてるすっげえのを着用で見え方もすっげえけと歳を考えるとそれはそれですっげえ。乱菊は普通すぎ。ソイフォンはスク水っぽいけど本物のネムとキャラ被り気味。夜一ももーちょっと考えてあげればいいのに。競泳用にするとか。トランクスを渡すとか。って感じにお楽しみ回は続いても原作は進まず追い付いてしまったアニメの大人の事情とやらはしばらく続きそう。斬魄刀話になんていかず次は温泉でその次は学園祭とテコ入れのお約束をエンドレスで繰り返せば良いのに。いっそこっちでもエンドレスエイトをやり続けるか。原作が原作なんで納得度も高いと思うぞ。


【7月13日】 お台場にある「機動戦士ガンダム」の等身大立像の裏側にはガンダムの足跡らしきものが緑色でペイントされていて脚がだいたいこれくらいあるんだってことを分からせてくれる。ただ問題はたったの2つしかないことで、そこに至るまでガンダムはどこを歩いてきたのか、あとはそれが海の方がら続いているということでガンダムは東京港から現れたのかということが疑問として浮かんで脳裡を彷徨う。

 海から上がって来たのだとしたらびしょぬれになったガンダムには、上にワカメが昆布が垂れ下がっていて不思議じゃなく、コックピットから身を乗り出したアムロが口から水を吹き出す仕草を見せても不思議ではない。いやしかしそこはシリアルで鳴るガンダムにそうしたギャグがまかり通るはずもない。だからお台場のガンダムは中空から突然現れ2歩の足跡を残して台座の上に収まったと考えるのが良さそう。それはなかなかに神秘的なシチュエーション。

 脚といえばネコの脚にある肉球のプヨプヨとした愛らしさは誰もが知るところ。その愛らしさを写真集にまとめたら果たしていったいどんな評判を得るのだろうかと考える。近所に最近野良猫が現れ親子で涼んでいたりする姿を見ると、エサで招き寄せてその肉球を撮影すればすぐにそれなりに溜まりそう。数で言うなら21匹。それぞれに4本の脚があるから肉球の数は合わせて84個に至る。それをずらりと並べて柔らかいのか固いのか、白いのか黒いのかを説明した文章を添えた写真集。タイトルは肉球が84個ってことでもちろん「29Q84」。きっととても売れるだろう。さあ出そう。出すのだ。

 見忘れていた「プリンセスラバー!」をようやくやっと見たらなかなかの絵でこれは買いと判断、DVDもといいたいところだけれど10月からのリリース時で世界経済がどうなっているか不明なだけに判断に迷うところではある。けどでも馬車の中で衝撃から横に体を投げ出したお姫さまを描く絵にかかった霞のようなものの向こう側にあるものとか、学園でひっくり返った主人公が見上げた3人娘に見た、明らかに黒い陰でしかないものをピンクやら白と言ったことの真相なんかを確かめたい気持ちもあってちょっと買ってみたい気がもりもり。

 そのままでも大丈夫だけれどプラスアルファが期待できそうな奥ゆかしさが、すでにして見えているものに無理矢理湯気を重ねて画面を台無しにしてしまった「クイーンズブレイド」とは違って購入意欲をそそるのだ。あから人間の感情って難しい。それはなくても朝方に旦那をキッと見据えた主人公の母親の体を捻り胸が追従する場面の描きっぷりや、真夜中の庭で剣を振りまわして主人公に挑んできたヒロインその2の動きっぷりに臀部の丸みの描きっぷりは絵として眺めても流石な出来。黒つぶれしていないブルーレイでもって是非に細部を確かめたいところだけれども果たして出るのかな、出ないのかな。

 これだけの絵を作って見せたスタジオは調べたらサテライトの大阪から分離した会社ってことでなるほどやる時はちゃんとやる会社なんだろうなあと理解。でも途中でいろいろと体力の足りないことも起こるのがサテライトの醍醐味だっただけにこっちもで何か起こる可能性があるのかって妙な期待も膨らむ。さても楽しみ。若本押さえ気味。しかし「Fate/Stya Night」といい「乙女はお姉さまに恋してる」といいゲーム原作のアニメ化に妙にツボがはまってパッケージを購入してしまうものがあるのは何なんだろう? あざとさよりもむしろ作りの丁寧さに引かれている感じ。エロが見たいならゲームで十分、それ以上のものを探求しようとして果たせた作品だからこそパッケージを買って応援したいって気持ちが起こるのかも。パッケージ不振の時代にこれって割に重要なことだよね。

 腐女子による、腐女子の、腐女子のための物語、って大上段に構えるほどのことではないんだろうけれども読めばなるほど、腐女子といった存在の一端が垣間見えることだけは間違いのない三浦しをんさん「星間商事株式会社社史編纂室」(筑摩書房)。腐女子でやおいな本のそれもサラリーマン物を専門に書いて同人誌にしてコミケなんかで出していたりするOLが、社史編纂室に回され会社の古い歴史なんかを探る内に、なぜか社史編纂室でもって同人誌を作って売ることになってしまったとゆーストーリーなんだけれども、そんな合間で描写される腐女子っぽい人たちの姿が何というかいかにもといった感じで迫ってくる。

 それは腐女子という方々の趣味にかける情熱がにじみ出ているような文章。『「女の幸せって?」幸代は念のために聞いてみた。「かわいいなってみんなに思われて、お姑さんにも気に入られて、子どもを二人生んで、カルチャースクールでフランス語か手話を習って、それを活かして家事の合間に少々の収入を得て、週末にたまに夫と二人でカフェでランチしたりすることよ!」実咲の答えに、幸代と英里子は「げっへっへ」「げっへっへ」と笑いあった。「脳がどうかしたんじゃないの、あんた」』。そうかそうなんだ、腐女子の人たちって「げっへっへ」「げっへっへ」って笑うんだ。いやまあそれは大げさかもしれないけれども趣味に生きて体面とかは後回しな人たちの、いかにも口から漏らしそうな声音だったりしたものだから読んで思わず笑ってしまった。「げっへっへ」って。

 3人組の同人誌仲間のうちの1人が結婚を決意し離れていくのを止めようとして出来ずかといって諦められない感情の機微とかなかなかに絶妙。そんなストーリーがある一方で、メーンでは星間商事ってところが東南アジアの国で戦後補償として日本から流れ込んだ金を事業として受注するために行った所業を歴史の闇から掘り返し、探求していくミステリーっぽさも豊富なストーリーもあってスリルを味わえる。且つそうした過去の闇をそのまんま書いては会社の一派から止められると、同人誌に入れる創作として描いたものを実際に小説内小説として書いてみたり、また主人公の幸代が同人誌向けに書いているサラリーマン物のやおい小説をやっぱり小説内小説として書いてみたりと三浦さんの八面六臂ぶりも凄まじい。

 両方に関わらなくてはいけなくなった幸代が疲れた頭で自分の小説を執筆していたか、課長の書いた告発含みの小説をワープロで起こしていた時に、双方が混じり合ってしまって得も言われぬ珍妙な小説が出来上がったりする可笑しさも、自ら描いてみせたりするあたりの多才ぶりたるや。さらには過去に東南アジアの国で大統領に取り入るために行われていたとある出来事(その設定もなかなかに巧妙)で必要だった短い小説も小説内小説としてきっちり描いては、やおいOLが書きました風の続きも書き加えてみせたりするからもう凄いというより他にない。その労力をそれぞれ1本の作品として振り分ければどれだけの本になったのか。勿体ない感も浮かびまくる。

 でもまあ「格闘する者に○」の時代から小説内小説はお手の物だし持ち味でもあった訳で、それを叩き込んだ上にスリリングな展開も混ぜ込んで見せたサービス精神に溢れかえった小説だと、ここは理解するのがとっても良さそう。とにかくストーリーから設定から、描写から何から何まで揃った抱腹絶倒のエンターテインメント。願うなら悲運の女王の今に幸があることを、示唆して欲しかった気もするけれどもそれをやってしまうと出来すぎ感が高まりまくるんで、抑えたところで現代において、ひとつの幸せが成就したことで過去に涙を流した人も喜んでくれるのではなかろーか。しかしこれだけのエンターテインメントにして男女の機微にも通じたラブストーリーからでも、真の腐女子はカップリングを見いだして「げっへっへ」とほくそ笑むんだろうなあ。とりあえず部長と課長か。どっちが攻めでどっちが受けかはら流石に知らない。作者がいたら聞いてみたい。


【7月12日】 1979年あたりは「オフ・ザ・ウォール」でソロシンガーとして名を上げ始めたマイケル・ジャクソンがシングルカットされた曲を続々とチャートに送り込んでいた時期でもあった訳だけれども、それが「機動戦士ガンダム」の楽曲に影響を与えるようなことはやっぱりなく、アニメやSFのファンでも世界にマイケルというシンガーがいることを知るには、「スリラー」が出てそのタイトル曲の映像を「狼男アメリカン」のジョン・ランディスが撮るあたりまで待つことになった模様。もっとも「スリラー」後に作られた「Zガンダム」の中で登場人物がゾンビダンスを踊る姿を見せることもなく、つまりはやはり「ガンダム」においてR&Bもソウルも似つかわしくないという判断が、そこかしこにあったのだと考えるのが妥当なのだろう。

 じゃあ「スリラー」からこっち、マイケル・ジャクソンって何やってたんだろうという不思議も一方に浮かんだけれどもNHKでやってた「キング・オブ・ポップ」を観たらなるほど知ってる曲を結構やっていたりすることに気づく。代表作が「BAD」でこれはプロモーションビデオなんかも散々っぱら観て記憶に強く残っていたし、曲では「ブラック・オア・ホワイト」なんかもイントロのチャラチャラっとしたリフも含めてやっぱり記憶に残ってた。あとはビデオに使われている顔を自在に変化させていくモーフィングか。当時はまだコンピューターもCGも一般的じゃなくってそうした映像を生み出せるコンピューターへの憧れをこのビデオがそれなりに喚起したんじゃなかろーか。

 番組で驚いたのは終わりのあたりにロンドンで7月に始める予定だったコンサートのリハーサルが相当な錬度で進んでいたことで、踊るマイケルもほぼ完璧に近くってこれがこのままくり広げられていたら、エンターテインメントの歴史に新たなる金字塔が打ち立てられたんじゃないかって期待も募ったけれども現実は収録の2日後に死去。永遠にかなわなくなってしまった。人によれば一種のやるやる詐欺みたいなもので、行われる予定なんてなかったんじゃなのってことらしいけどあのリハーサルを観れば本気も本気だったんだなあと思うより他にない。いずれそうした映像がまとめて出て来るのかな。だったら追悼式も欲しいところ。スティービー・ワンダーの歌もブルック・シールズのトークも良いけどやっぱり最高なのはパリスちゃんの声と顔、か。あんなに可愛くってコケティッシュ。きっと遠からず世界のスターに祭り上げられるんだろうなあ。要追跡。

 鷹見一幸さんの「ご主人様は山猫姫 辺境駆け出し英雄編」(電撃文庫)なんかを読んでいると、国って奴はそのままでも次第に根が傷んで崩壊への道を辿るものだなあと思わされることしきり。平和が長く続くなかせ前線から遠い政治の中枢では楽観主義が蔓延って、軍備が不要不急とされて回されているはずの費用が何処かと消えて、重臣たちの私服へと周ってそしていざという時に軍庫を開くと、あったのは張りぼての鎧兜がネズミに囓られてチリと化したものばかり。戦おうにもこれではまったく戦えない。

 なおかつ最前線で辣腕を振るった救国の英雄を抜擢した存在に、得点を稼がれるのは嫌だとばかりに反対勢力が総出で英雄を反逆者扱いにしてしまうから何というか腐りきっているというか。そうまでされて尽くす意味なんてあるの? って憤りも浮かぶけれどもそこで真っ向から反旗を翻すのもお門違いとよく出来た英雄は、悪いのは王の周りで政治を壟断する重臣たちだと名指しして、排斥に回る挙に出た。

 なるほどここで暗愚であっても王を廃してしまえば、起こる混乱は泥沼と化す恐れも結構ある。国体を護持しつつ膿を出す。それが出来れば美しいんだけれども大概にして王は重臣たちと表裏一体となって、国の衰退に大いに責任を発揮していたりするからややこしい。ここで王だけを祭り上げて維持しても、その暗愚さにつけ込んで新たな壟断が起こらないとも限らないし、担ぎ上げられた王が王としての権能を発揮して、より悲惨な方向へと国を導かないとも限らない。かといって徹底した革命では起こる混乱も尋常じゃない。となるとやはり衰えた国にはもはや救われる道はないということか。うーん。どうなる山猫姫様ご一行。次巻の行方が楽しみ。

 とか書きながら王国を舞台にしたファンタジーを書けないものかと考える。決して大きくはない王国は、自国民に愛国心を醸成させることで結束を高めて、まとまりを作りだそうとしていたけれど、こういう場合に言説は、声高な者たちへの人気を集める方向へと傾いて、排外的な側面を強め始めていくのがいつの時代でも常道。そのままエスカレートした結果、愛国的ではあっても排外的な立場を潔しとしない多くの国民の信頼が次第に失われていき、外への人口の流出を招き、税収が滞って王国は衰退への道を向かい始める。

 かつてその王国には近隣に公領があって、工業を主に生業とする人たちが集っては、外の国々に広がるさまざまなギルドから需要を得て収入を確保し、王国をそれなりに支えて来た。けれども王国から送り込まれた新しい領主が、己の権勢を誇ろうとして、それまで広くあまねく生産していた品々を絞り、特定分野に特化するとともに特定のギルドのなおかつ特定の勢力だけが求める品物へとカスタマイズする所業に出た。相互に求め合っているうちは良かったものの、ここに起こった不景気で得意先は品物を次第に買わなくなっていく。かといって元のあまねく広く品物を供給する体制に戻ろうにも、得意先に偏る生産を進め過程で、仕事の場所をなくしていたり、仕事に不満を抱いた職人の多くが街を去っていたため、元に戻れないまま公領の財政は破綻の瀬戸際へと迫る。

 ここで王国では、送り込んだ領主を排斥する動きには出たものの、再び職人たちを育成するような道は選ばず、領民の職人達を自国へと招き寄せ、そこで仕事をさせることにした。もっとも与えた仕事は品物の生産ではなく軍部での任務。いわゆる剣士として攻めに守りに従事させようとしたものの、仕事内容に差異が在りすぎてなかなか溶け込めない。逆に剣士にも鍛冶の類を任せようとしたため、共に中途半端な仕事ぶりとなって、生産も滞れば軍事力にも衰えが見え、国全体に漂っていた衰退の傾向がより強いものとなっていく。

 ここに来て王国が取るべき手段は、訓練された剣士たちをより多く配備して軍事力を高めることであり、あまねく工業に通じた人材を育てて、さまざまな地域からの生産の要求に応えられるようにして、国力を高めていくことに他ならない。けれども、すでに国庫は空に近く他国からの借金も嵩む一方の状態では、未来に向かって布石を打つような施策は取ろうにも取れない。かといって放っておいては、遠からず起こるだろう革命的な出来事によって、王の首は刎ねられ重臣たちの首も断頭台の露と消えることは必死。ならばとここは見てくれだけでも、財政が回っているようにするべく、装備に費用のかかる剣士を減らし、育成に時間のかかる職人を減らして、全体での支出を減らして破綻を先延ばしにしようとした。

 もちろん、すべての剣士を廃しては明日にも攻め滅ぼされるだけだし、職人を減らしては売る品物が作れなくなる。ならばと剣士でも特異な才能を持ちながら、上官の命にたびたび背く扱いづらい剣士や、逆に平和を好んで話し合いで解決することを尊び、結果としてやはり上官にとって扱いづらくなっていた剣士を寄り集め、剣を捨てさせあるいは振るうことを禁じて、城の周りの草むしりや、薪集めや料理の手伝いや馬の世話といった仕事をあてがうことにした。巧く使えば国威を満天下に示すだけの働きをする異能の剣士たち。危急存亡の時に、あるいはとてつもない才能を発揮したかもしれないこうした面々が、前線から外れて草をむしり馬に水を与えている。

 もうひとつ、剣の腕を見せつつ街から物資を徴用して来る仕事を剣士に任せることにした。これまでは事務方が商人たちと語らい、正当な商行為として物資を買い上げ、対価を払っていたが、先立つもののなさに王国では、剣士が民主に対して醸し出す威圧感を露わにさせ、相手方がそれに恐怖して物資を差し出すような仕組みを考え、軍隊から一部の陣容をそうした仕事に従事させるべく、専門の部隊を立ち上げた。なるほど金は出ていかず、物資は集まる。けれども1度は危急存亡の時だと許してもらっても、度重なれば商人は疲弊し、町民は怒って街から出ていく。そして二度と戻っては来ない。守ってくれるはずの剣士に脅され、奪われて戻る意味などどうして王国に抱けよう。抱けるはずがない。

 草むしりや馬の世話に回された剣士について、上役に逆らったことが招いた自業自得と誹ることは簡単だが、そうした仕打ちを横目で見ていた一般の剣士に対しても、徒手空拳で敵陣に切り込め、それも部隊ではなく単身で、といった無茶な指令もまかり通り始めていた。そうした中で、明日の命が知れないプレッシャーに押しつぶされ、かといって逆らい草むしりに回るだけの気概も抱けない普通の剣士たちは、萎縮して大過ない日々だけを漫然と凄そうと不動を決め込む。あるいは精神を暗闇の中へと埋没させる。

 結果、前以上に志気は下がり軍事力も低下。いざという時の備えも持たない状況で、王国には滅びの時が次第にしだいに現実味を帯びて迫って来ている。そんな国を前提として考えて、ファンタジーとしてどんな展開にすれば読者は驚いてくれるのだろうか。スタンダードな展開なら、類希なる英雄が現れ国王を諭し、臣下を導き剣士や民衆の支持もとりつけて国力を高め、迫る危機から王国を立ち直らせた上で隣国へと攻め入り、版図を広げて世界にかつてない帝国を築き上げる、といった展開も考えられるけれどもそうした英雄が果たしてどこから生まれ得るのかを考えると、疲弊を漫然と見過ごした内にはなかなか見いだしづらく、かといって外からやって来た風来坊に任せるほどの鷹揚さもあまりない。

 ライトノベル的ならかつて王族に生まれながら、跡目争いの激化の中で幼少の頃に城より出され、出自を知らないまま庶民に交じって成長し、今は街の酒場で看板娘(美少女にして眼鏡っ娘)として人気を得ながらも、流れる血がときおり騒いでは天啓のようなものを彼女にもたらし、疲弊する国にいてもたってもいられず立ち上がるなり、出自を掴んだ参謀に軍師によって祭り上げられて御旗を担ぎ鉄球を振りまわし、旧体制を打破して新体制を打ち立てる、といった展開も想像が可能。とはいえ国を救ったとしても疲弊した国力を維持し拡大しようにも、周囲に迫る大国に好機とつけ込まれ、蹂躙されることもまた必至。この八方ふさがりを解決する手だてを考えないことには、なかなか物語としてまとめられそうもない。

 英雄の美少女が大国の王子に求婚されて、晴れて2つの国が手を結び、ひとつとなって帝国を打ち立てる、というのもファンタジーとしては在り来たり。膨れあがるだろう国民をあまねく幸福にするだけの経済を考えた時に、そうそうは道として選びづらい。ならばとより外に活路を見いだそうにも、俯瞰すれば世界の陸地は温暖化によって海に削られ減る一方。連携よりも収奪にこそ生きる道があると見る国々にとって、弱体化した王国など蹂躙して消滅させる方が自分たちの命脈を保つためにも必要と、そう考えた時に八方ふさがりの感じはますます強まる。うーん困った。困ったからこそここで大逆転の手を考えれば圧巻のファンタジーが生まれるんだけど。うーんうーん。

 平野啓一郎さんの「ドーン」はこれで割に本格的にSF的なビジョンとメッセージが立ち上がってきているような雰囲気。火星へと向かった有人宇宙飛行船の中で起こったとある出来事をめぐるおそらくは「冷たい方程式」のような対処がSFとしての想像力をかきって、それがまずはもたらされる上であっただろう飛行士の選抜にまつわるさまざまな思惑や葛藤や諍いに、宇宙船が帰還して後に起こっている世界をめぐる動きなどが人種や権力や経済といったさまざまな要素が絡んで転がる世界の複雑さって奴を垣間見せる。

 そんな世界で進む大統領選挙をめぐって起こる陰謀はミステリーとしての期待を煽り、そんな展開で用いられる世界がカメラによって監視され把握されている設定、それらが結ばれたコンピュータネットワークの上だけに存在するAR人格が生み出されているというビジョン、一方で人間も自分をさまざまに変化させて複数のキャラを持って世界と接し分けるという可能性なんかが未来への想像力をかきたてる。今とは違った世界の上で人はどんな心理を持って生きるようになるのか。政治はどう変わり経済はどう動くようになるのか。ネット化された人格は今とやっぱり変わらないのかそれとも相対の中で動くようになるのか。あるいは村上春樹さんの「1Q84」なんかよりも、よほど示唆に富んだ描写が多いかもしれない物語。あとは着地点がどこら辺になっているのかを確かめないと。頑張って読もう。


【7月11日】 1981年に始まった「うる星やつら」ではサウンドにピコピコとした電子楽器の音が入って時代がテクノを過ぎていたんだということを今に思い出させてくれるが、1979年に始まり1980年に爆発的なブームを迎えた「機動戦士ガンダム」の音楽にそんな時代性が反映されているかと考えると、あまり問い入れていないといった印象が浮かぶ。歌謡曲と演歌が音楽の表層的なムーブメントを作り出していた日本はこの際おくとして、日本も含めて時のサウンドに影響を与え易かった洋楽から見た場合、1979年のヒットチャートのトップに輝くのはビージーズであり並ぶのはロッド・スチュワートでありドナ・サマーといった具合にディスコサウンド大全盛。弾むビートに乗った陽気でパワフルな音楽が世間を席巻していたが、そうした雰囲気は「機動戦士ガンダム」からは感じられない。

 楽曲を手がけた渡辺岳夫さんがクラシック畑の人で割に荘厳でドラマティックな音楽と好んだから、といった想像も浮かぶが作品には「天才バカボン」もあれば「キューティーハニー」のあのビートの効いた主題歌もあるから決してディスコサウンドが不得手だったということではなさそう。作品世界にマッチした楽曲を提供することを旨としていた渡辺さんのポリシーに立てば、あの「ガンダム」の世界にディスコサウンドが入りこむ余地がなく、従って流行っていることを知っていても採用しなかったといったところになるのだろうか。もしもディスコサウンドが鳴り響く「ガンダム」だったらきっと誰もが陽気に減らず口を叩きながらぶちかましぶっ飛ばしていく楽しく激しい「ガンダム」になったに違いない。それって「ZZ」? 「G」? 時代と音楽とアニメーション。考えるといろいろ思い浮かぶこともありそうだ。

 1981年に「機動戦士ガンダム」の放送が移っていたとしても主要な曲はキム・カーンズやダイアナ・ロスといったR&Bからリック・スプリングフィールドのようなアメリカン・ロックやらシーナ・イーストンのようなポップスやらブロンディのようなビジュアル的ロックといったところでそこにフォークデュオの響きはまず入らなかっただろうけれども、1981年の音楽シーンは9月にニューヨークのセントラルパークで復活コンサートを行った「サイモン&ガーファンクル」の話題が年の瀬にかけて確か沸騰していてあれやこれやと昔の曲を引っ張り出しつつラジオで聴きつつそのユニゾンの素晴らしさに簡単していた記憶がある。コンサート自体を見たのはいったいいつだろう? NHKか何かで放送した記憶があるのだけれどはっきりとは覚えていない。放送したのかすらも。

 ただ人物像についてはその前だったか後だったかに「FMレコパル」という小学館から出ていたFM誌で、ミュージシャンを漫画で取りあげる連載があってそこに「サイモン&ガーファンクル」も確か登場していて2人の初期の蜜月からやがて方向性の違いからか、音楽的才能の違いによる収入面での差から、関係に変化が生まれて解散へと至る過程が描かれていて、とてつもなく凄い音楽的なグループが、いろいろあって崩れていく残念さの一端を、そこから感じたような記憶もあったりする。音楽に真摯なポール・サイモンにイケメンでやんちゃで神経質で開放的なアート・ガーファンクル。そんな違いから来る隔絶が埋まるはずはないと考えるのが普通だったのにセントラル・パークで2人は再び肩を並べて唄い、50万人を感動させた。凄いと思った。

 その後も2人いはいろいろとあったみたいだけれどもここに来て復活して来日してコンサート。こりゃあ行かねばならぬとウドー音楽事務所の先行でS席を申し込んだらなぜかスタンド席の最後列に近い場所だという微妙すぎる仕打ちを浴びて叫びだしたくなったけれどもまあここん家の手口らしいんで次からは注意。でもって待ちに待ったコンサートの日がやって来て勇んで入って登場を待っていよいよ始まった伝説のデュオのコンサート。心配だったアート・ガーファンクルの声はそりゃあ昔みたいな澄んだ高音は出ないけれども囁くような声音で高い場所を目指そうとする心意気にまず簡単。そしてかすれ気味ではあっても音程も発生も実に見事に唄いあげるその巧さを目の当たりにすれば、歳だの何だのとは行ってられない。

 ソロでの名作中の名作「ハート・イン・ニューヨーク」とか生で聞けたし「明日にかける橋」もしっかり浪々と唄いきる。これは単独ではなくポール・サイモンも絡んでくるバージョンだったけれど2人が3番からいっしょに唄るところで肌は総毛立ち、伝説が目の前にいて唄っている感動に打ち震えて知らずいっしょに口ずさみたくなったけれども実は歌詞、あんまり知らないのです。英語だし。

 ライブは「スカボロフェアー」もあれば「サウンド・オブ・サイレンス」もあり「ミセス・ロビンソン」もあり「アメリカ」も「ボクサー」も「コンドルは飛んでいく」もあってとヒット曲のオン・パレード。「早く家に帰りたい」に「木の葉は緑」と聞けば分かる美しいメロディーも奏でられて至福の2時間くらいを過ごせた。スタンドでも音は不思議と悪くない。もとよりガチャガチャと響かせる音楽じゃないんで音が混ざらず回らずしっかりとしたまま耳に届けられた。武道館だとさらに綺麗な音も楽しめるかもしれないけれども流石に平日では無理なんで、これを一生の思い出としてあの伝説に出会えたことを誇りにこれからの人生を生きていこう。

 ようやくやっと見た「化物語」。バナナの皮は捨てないようにと思ったというか眼を血走らせている男にも女にも近づくなというか。絵にさらに耽美さが重なれば「革命少女ウテナ」になりそうな画面だけれどもキャラクターの配置が耽美さとは無縁の学園猟奇異能眼鏡+白レースなんでやっぱりこれは「化物語」にしかなりそうもないか。いやあ冒頭からミせてくれてるねえ、これは50インチの大画面でブルーレイの超解像度で見たいねえ。出してくれるかな。

 原作はその辺にあるけど妙になぜか西尾維新さんって手が伸びないというか皆の手が伸びすぎていて今さら延ばすのも憚れるというか。ようやくもって手が伸びてきてそっちの手ばかり気にして頑張って盛り上げてきた人たちが眼からこぼれてしまってそれならそれで結構だ、大くて立派で移り気なところを相手にこれから30年プレゼンし続けてやっていって下さいと送り出してあげた「機動戦士ガンダム」とはまた違った縁のすれ違い。けどアニメ次第ではこれはいったい元はどんな文章なんだと確かめてみたくなりそう。どう描写してるんだ白レース。掘るか。白レースではなく、本を。

 そしてまた見た「大正野球娘。」は巴が入って静も引っ張り込まれてたまちゃんも加わってどうにかメンバーも勢ぞろい。巴はほっぺの赤い小梅が気になってしょうがないんだけれども、小梅は突っ張るけれどもどこかに隙があるたまちゃんが可愛くってそっちばかり。かなわぬ恋は辛いねえ。漫画版はあらゆる言動をギャグで絡めて落として引っ張り揺さぶるけれどもこっちは話は真っ直ぐな変わりに周囲での小さな芝居が面白い。

 画面の奥でゴロを取ろうとして小梅がでんぐり返ったり、いきなり野球部に入るといった巴に向こうの方で小さく立ってた新聞部の部長が大声を上げていきり立ったりする仕草が、ちゃんと描かれていて画面に視覚的ってこと以上の奥行きを与えていたりする。これが大画面にも耐えうる作画演出って奴? 1話は「東京節」にアテられそこの所をよく見てなかったけどもう1度見返す意味もありそう。掏摸に乞食にカッパライじゃなくなっていても。

 平野啓一郎さんの新刊が出ていて帯に「2033年、人類で初めて火星に降り立った宇宙飛行士・佐野明日人。しかし、宇宙船『DAWN』の中ではある事件が起きていた。世界的英雄となった明日人を巻き込む人類史を揺るがす秘密とは?」って書かれてあってこりゃあSFだと確信して購入して読み始めてやっぱりこれはSFだと感じ入る。「庭の芝生の上で、裸のまま俯せになっていた明日人は、スイッチが埋め込まれている奥歯を二度噛みして映像を停止した。コンタクト・レンズ型のモニターに転送されていたのは、NHKのドキュメンタリー番組《世界に羽ばたく日本人たち》の彼の回の放送で、丁度、冒頭に置かれた、シリコン・バレーにある日本人学校を訪問したシーンだった」。

 もうSF。とてつもなくSF。コンタクトレンズがテレビ! 操作は奥歯のスイッチ! 何というサイバネティック! チャンネルを変えたりボリュームを調整するのには何度奥歯を噛む必要があるのだろうか。ダイレクトリンクも添えられたウェブ型のインターフェースを持った画面らしいんだけれどスクロールにリンク先への移転はどの歯に埋め込まれたスイッチを押せば良いのだろうか。もしかすると上下すべての歯がコンタクト・レンズ型のテレビ操作に費やされるのだろうか。そういやあ音声はどこから取っているのだろうか。字幕なのか。イヤホン型のサラウンドスピーカーが耳にはまっていたのだろうか。考えるほどに想像力を掻き立てられる。間違えて加速装置のボタンを押してしまったらと心配にもなる。凄いなあ。とにかくSF。神保町の東京堂書店で「日本SF全集」の隣に並べてあったから絶対にSF。SFの人はだから絶対に読むように。僕はライトノベルの人だからあんまり気にしない。


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