ネメシスの杖

 神は無慈悲に悪を裁いて厳罰を下すか。それとも慈悲深く悪を諭して最善へと導くか。

 朱戸アイの「ネメシスの杖」(講談社、619円)という漫画から突きつけられるのは、悪と対峙した時に人が取るべき行動の是非。神ならば無慈悲であっても慈悲深くあっても、絶対的な意志として受け入れるしかない。けれども人は絶対ではありえない。迷いや懊悩を経て人が、神に代わって悪を裁こうと向ける杖の先に何があるか。それが「ネメシスの杖」という漫画によって示され、自分ならどうすべきかを問われる。

 厚生労働省の患者安全委員会調査室で、医療事故を調べる仕事に就いている阿里玲という女性にとって事故とは、システムの不全なり欠陥があって起こる歪みのようなものらしい。だから何が不全でどこが欠陥かを明らかにして糺さなければ、いくら当事者を罰しても、同じような事故はまた起こると考えていて、たいていは早急に原因を暴き当事者を罰して事態を収拾させたがる役所のスタンスとぶつかっている。

 それでも今は理解ある上司や同僚に恵まれ、自分の信じた道を歩めている阿里に、ひとつの告発を調べる仕事が与えられる。それは、シャーガス病に罹患した患者が、日本のとある病院にいるというものだった。シャーガス病とは主に米国南部や南米で発生する病気で、トリパノソーマ科の原虫がカメムシの一種のサシガメを媒介にして人間に入って、発病し、深刻な心臓肥大などの疾病を引き起こす。慢性化すると根治は不可能。それ故に早急の発見と対処が必要とされていた。

 もっとも、南米とは違う環境の日本で、シャーガス病が自然に発生することはない。16年前に死者7人を出して、届け出が必要なように感染症法を改正へと至らせたシャーガス病の大量発生は、アトピーなどに効くという触れ込みで発売され、特定保健用食品の認定も受けていた、南米原産の木の実を使ったジュースに、病原体となるクルーズ・トリパノソーマを含んだサシガメのフンが混じっていたことが原因で起こった。その時は製造元が罪に問われ会社は倒産し、以後の日本で大きな発生は聞かれなくなった。

 南米で感染した人が帰国して発病することがあっても、風評を恐れて隠すほどの病気ではない。それがどうして隠蔽されようとしていたのか。阿里は告発があった病院へと向かい、そこでシャーガス病らしい症状で男性が息を引き取る現場に居合わせ、その男性が16年前に怒った食害事件と深く関わっていたことを知り、さらに幾人かの関係者たちがシャーガス病に罹患していた事実に辿り着く。

 そこからストーリーは、優れた寄生虫の研究者として活躍しながら、今は箱根の植物園をまるまる買い込み、研究者として半ば隠棲して暮らしている紐倉という男を相棒にして、阿里が推理を重ね、告発者の声を聞き、関係者を訪ね歩いて真相へと迫っていくというミステリー仕立てで進んでいく。少なくない数の被害者を出しながら、罰せられたのが製造元だけで、宣伝したテレビ局も効能を訴えた学者もトクホに認定していた厚労省も罪を問われなかったことも改めて浮かび上がって、産学官が一体となって隠蔽した悪事を暴くサスペンスとしての要素も加わって盛り上がる。

 そんな2人の探索と探求の果てに浮かぶのが、何が本当の悪だったのかという疑問。16年前の食害事件では確かに真相は究明され、問題の原因は排除されて以後、シャーガス病の問題は起こっていない。けれども、事件が残した傷は確かにあって、それが16年を経て新たな事件を引き起こした。過去を清算していたら起こらなかったことかというと、それはとても難しい。人の感情は神の裁きだからとすべてを受け入れるようには出来ていない。

 だからこそ、阿里が好むようにシステムを完璧に整えて、罪にはその都度に厳罰をもって臨んで禍根を断ち、怨みや苦しみが残らないようにすればいいのか? そうしたとろで、納得できるほど人の感情は寛大ではないし、割り切れるものでもない。その事実を突きつけられることによって、阿里は己の傲慢さを知り、同じように読者も義憤から振り下ろされるネメシスの杖の裁定に絶対はないのだと知るの。

 何か理由があって片腕を亡くし、生体電流を感知して動く高度な義手を付けている紐倉という男が、どうしてそのような境遇に至ったのかが、この1冊からは伺えず関心事として後に残る。FBIの依頼を受けて調査に関わっていたこともあったという経歴を含め、彼の過去を描くストーリーがあったら是非に読んでみたい。

 もっとも、システムを担う回路であろうとしながら、時折感情をのぞかせる阿里のキャラクターがあってこそ、世捨て人のように世間を客観視しながら、興味から逃れられない紐倉のキャラクターも輝きを増す。鏡の裏表のような2人がこれからも、片や猪突猛進の行動力をフルに発揮し、こなた持てる知識と好奇心を存分に見せて動いた果てに暴かれる事件であり、救われる人々を見てみたい。あり得るか? それこそ神のみぞ知るといったところか。


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