猫泥棒と木曜日のキッチン

 大人になるってどんなに楽しいことなんだろう。女になるってどんなに気持ち良いことなんだろう。男になるってどんなに嬉しいことなんだろう。

 大人になればお金を稼いで好きなものが買えるようになる。どこにだって遊びに行ける。お酒もたばこも呑み放題で吸い放題。妻を得て夫を得て子を成し一家を構えることもできる。大人ってとっても楽しそう。

 女になれば彼氏を作れる。いつもいっしょにいられて楽し時間を過ごせる。化粧して着飾って見てもらえる。はやく女になりたいよう。少女は誰もがそう願う。

 男になれば力をふるえる。彼女をはべらせ自慢できる。もちろん楽しい時間を過ごすことも。その時間を力で永遠にすることも。だから少年は切望する。はやく男になりたいと。

 けれども。大人って楽しいばかりじゃない。何を買うにも酒やたばこを楽しむのにもお金が必要。稼ぐためには仕事が大切。そして仕事は楽しむ時間を奪い心を暗くさせる。ようやく構えた一家も時には重荷になる。

 女も気持ち良いことばかりじゃないし、男も嬉しいことばかりじゃない。彼氏彼女のいない女や男はたくさんいるし、彼氏彼女ができたっていつまでも彼氏彼女のままでいてくれるとは限らない。別れが来れば心は冷える。憎しみに気持ちよさも喜びも吹き飛んでしまう。

 やっぱり子供のままが良い? 難しいことなんて気にしないで遊んでいたい? 大人にも女にも男にもなりたくない? そうかもしれない。でもそれは無理。人間はいつか必ず大人になる。男になる。女になる。逃げることなんてできない。逃げれば果てには死しかない。

 どうすれば良いんだろう? どうすれば人生を楽しく気持ちよく嬉しさに包まれて生きることができるんだろう? 人間だったら誰もが抱くそんな人生への疑問の答えが、橋本紡の「猫泥棒と木曜日のキッチン」(メディアワークス、1200円)という物語の中に潜んでいる。

※     ※     ※


 川原みずきは17歳の高校生。母親と、父親のちがう5歳の弟のコウちゃんと一軒家に暮らしていた。みずきの父親は早くに死んでしまったし、コウちゃんの父親はいつの間にかいなくなってしまった。そしてある日、母親までもが家から消えてしまった。

 母親である前に女だっみずきの母。みずきの父と死別して、再婚したコウちゃんの父親がふるう暴力から子供たちを守ろうとしなかった。女としての愛が母親としての愛を超えていた。そしてまた、女として男を求めて出ていった。

 子供たちはそれでも困らなかった。理由はみずきが大人になろうと頑張ったから。家はみずきの父親が残したもので家賃は不要。少しの蓄えもある。だからしばらくは暮らしていける。コウちゃんを学校に通わせ自分も高校に通いながら、食事を作り洗濯をしてコウちゃんと自分の面倒を見ようとした。

 大変だとは思わなかった。それで十分だった。それで幸せだとみずきは思っていた。それが幸せなんだとみずきは感じていた。

 そんなある日、みずきは道ばたで猫の死体を見つける。それが何匹も続き、そのたびに庭に埋めてきたみずきの前に、こんどは瀕死の猫が現れる。放っておけないみずきは猫を拾い、獣医に見せて治療してもらい、それから猫の世話を始める。

 同級生の健一も、みずきとコウちゃんを心配して家を訪ねてくれるようになって、まるで家族のような団らんがそこに繰り広げられる。幸福が家からあふれ出す。

 けれども。子供が背伸びをして大人のふりをしていても、それは絶対に幸せではない。大人は辛いことも飲み込んで生きていかなくてはならない。猫の死にみずきのまとっていた大人の衣は剥げ落ち、むき出しとなった感情が流れ出す。

 そしてみずきは、大人だったら分別を保って取らない行動へと撃って出た。みずきの母親のように感情にまかせて女の振る舞いを見せた。サッカー選手になる夢を閉ざされ少年の殻に籠もっていた健一の男を引きずり出した。嵐が通った。後に痛みと後悔が残った。

※     ※     ※


   大人になるのは、女になるのは、男になるのはとても大変なこと。母親の家出に戸惑い健一とのサッカーに喜び、猫の訪れに笑いその死に悲しむコウちゃんのように、感情のままに生きる子供で居続けられれば、それがいちばん幸せなのかもしれない。

 だからといって嘆く必要なんてない。大人になってしまうことを、女になってしまうことを、男になってしまうことを悲しむ必要なんてない。大人になっても女になっても男になっても、人は人であり続ける。その生を人として楽しめばいい。辛いことや悲しいことがあれば、それを超える楽しいことや嬉しいことを見つければいい。

 母親が戻ったからといって、みずきの暮らしはそれまでの暮らしとは確実に違うものになっている。いつまた女に戻ってしまうか分からない母親がいて、盗んできた猫がいて、女として体を重ねた男がそばにいて、猫の死を通り抜けた弟がいる暮らし。幸福に見えても、それは危ないバランスの上に立った幸福でしかない。

 そんなガラスの幸福にこだわり続けることなんてない。大人になり女になり男になる。生きてそしていつか死ぬ。それが人間。だったら人間として生きれば良いのだ。子供のような純真さで、大人のような冷静さを持ち、女のように熱を抱き男のように力を漲らせた、ひとりの人間として生きれば良いのだ。と、「猫泥棒と木曜日のキッチン」は感じさせてくれる。

 猫として生きる。なるほどこれもひとつの手かもしれない。なるほど描かれる猫たちの、生殺与奪を人間たちに依拠して翻弄される姿は、大人や女や男や人間として生きるよりも大変そうに見える。猫になんてなるもんじゃない。そう思わせられないこともない。

 あるいはそうした痛みや悲しみをすべて呑み込んだ上で、日々を泰然自若として生きるだけの達観が、猫としての生には必要なのかもしれないのだと、読んで思う人もいるかもしれない。なるほど「猫泥棒と木曜日のキッチン」は、大人にも女にも男にも人間にも、猫として生きよと啓蒙する物語なのかもしれない。

 ともあれ人は生きていく。猫も生きていく。あらゆる生命が生まれ、生きていく中で起こるさまざまな出来事から、逃げず受け止め立ち向かいそして超えようとする気持ちを、「猫泥棒と木曜日のキッチン」からもらおう。読み終えて、ページを閉じた心にはきっと道が見える。


積ん読パラダイスへ戻る