むかしのはなし

 人生の価値なんてものは棺を覆うまで定まらない。山あり谷あり海あり宇宙あり。紆余曲折の果てに訪れる最後のその瞬間まで、人は惑い迷いながらも命ある瞬間を生き続けては、その価値を時間に刻んでいく。生きている人間の評価なんてだから誰にも出来はしない。本人にだって難しい。

 それ故にどんな事態に直面しようと、人はそれを新しい価値として受け止める。受け止めて受け止め続けることで人は自分の生きている証をそこに見る。やがて迎える最後のその瞬間に、本人が満足だったかどうかだけが重要だ。他人からどう思われたってそんなことは関係ない。そんな他人の決めた価値なんて、死んでしまっていたら知りようがないのだから。

 三浦しをんが連作を連ねて描いた長編「むかしのはなし」(幻冬舎、1500円)は、そんな”生きている価値”というものを改めて人に考えさせてくれる物語だ。第1話。5人の女性を幾重にもまたにかけていた人気ホストが、1人に去られ2人に消えられ自殺されした挙げ句に最後はヤクザの情婦に手を出していたことが分かり、追われ港の倉庫に隠れて本当に親しかった女性に、携帯電話でメールを送って辞世の言葉を告げるストーリーが描かれる。

 アクションと呼ぶにはドラマが足りないし、うぬぼれた男が破滅する話と言えば言えてもただそれだけ。とりたてて言う程の目新しさはそこにはない。第2話も似たようなもの。子供の頃、川から流れてきたその犬を助けて老いさらばえるまで飼った話を、知人の家にしのびこんだ挙げ句に逮捕された空き巣が取り調べで語るエピソード。犬の散歩中に溜めた家を観察するノウハウを活かして空き巣になった語り手の境遇は少し面白い。入った先で知人に出会い、挙げ句に訪れた運命にもそこはかとない可笑しさはあるけれど、メッセージなり教訓を得られるかというとそれはなく、読み終えてどことなく物足りなさを覚える。

 第3話は14歳も歳の離れた叔父に恋する少女の話。体も重ね結婚も希望するけど適わないといった、性の話を集めた実録の投稿集に載っても違和感のない、かといって性の最先端を読ませるには冒険の足りないもエピソードという印象を、読む人に与えかねなかったりする。もっともそこでページを閉じるのは早計だ。第4話。田舎の入江で暮らす男の所に都会から同級生が大人の女性を連れて返ってきたエピソードが綴られてから、物語は大きく転がる始める。暴走した挙げ句に大爆発する。

 ある日の午後。すべてのチャネルを使って政府から緊急放送が行われたことを境にして、世界の様相は激変し、世界や社会や組織や国といった中に埋没し翻弄されていた個人が、個人として屹立してはそれぞれが決断を迫られる。生きて生き抜くべきなのか。座して運命を受け入れるべきなのか。過酷な状況に直面した人間が取るさまざな行動が、読む者に流される生き方を是とするべきかはたまた非とすべきかを考えさせる。

 登場人物たちの身に降りかかったことは何だったのか。答えは「むかしのはなし」を読んでもらうしかないが、ひとつ言えるのは、どんな事態に直面しても己が己で有り続けることが出来るのか、という人生の価値を清算する上で大きな意味を持つ命題がそこに提示されているということだったりする。

 己を保ち続け得た人たちの潔さ、格好良さを見て惚れるのも良いだろう。格好悪さを省みず、徹底的にしがみついて未来を目指し突っ走るも良いかもしれない。小説の中に出てくる深刻極まりない事態ほどではないけれど、生きていれば1つや2つは必ずや直面する岐路を、重大な岐路に差し掛かって決断を迫られる人々の物語が、どう受け入れ咀嚼し脚を踏み出せば良いのか教えてくれる。結果、訪れる最後を笑って受け入れられれば、それは当人にとって存分に価値のある人生だったと言えるだろう。

 それぞれに短編に、桃太郎なりかぐや姫といった相応する昔話が添えられて、原型になっていることが示される。時代が変わって人の心や社会の仕組みも変わって、展開も昔話とは大きく様変わりしているけれど、人が抱く欲望、人が想う願いの強さや深さは、時代に関係なく変わりがないのだということを伺わせる。

 印象を語れば、吉野朔実の描いた短編連作漫画「いたいけな瞳」に近い雰囲気を持つ連作集。不条理だったり奇妙だったりするシチュエーションの中で、様々に振る舞う人間たちのエピソードが、キャラクターだったりシーンで少しづつ重なって、そこに1つの長編を現出せしめる手法に共通点がある。乾いて淡々とした雰囲気も似ている。

 漫画好きという著者だけに、吉野朔実の作品に何らかの影響を及ぼされるなり、シンパシーなりを感じてこういった物語を紡ぎだしたのかもしれない。そうではなくても少女漫画が描いてきた不条理で、けれども真摯な物語を読み込み心に重なった何かが、小説に形を変えて姿を現したのかも知れない。いずれにしても、小説としての優れた技巧と物語としての強いメッセージを持った第一級の単行本。読まなければ人生を飾り損なうとだけは、ここに明言しておこう。


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