模造人格

 3歳くらいの時に、犬と追いかけっこをして遊んでいたという記憶がある。しかし妙なことに、その記憶は、自分が犬に追いかけられている場面を、第3者的な立場から見ているというものだ。なんのことはない、父親が撮った写真を成長してから見て、それをあたかも、リアルタイムに経験したこととして記憶したように、錯覚しているだけなのだ。

 あとから写真や第3者からの口伝によってインプットされた記憶であっても、実際に経験したことに変わりはないと言うことはできる。だが口伝によって伝えられる過去の記録には、そこに語り手の主観が反映されていていないとも限らない。無防備になんの疑いもなく受け入れてしまうことで、語り手の都合に合わせて、自分の記憶が改変されてしまう可能性があることを、忘れてはいけない。

 写真だっておおいに怪しむべきだろう。コンピューターを使えば写真ですら容易に改変できてしまう時代だ。あの時お前はこうだったなどど、見せられた写真が合成されたものでないとどうして言える? 今、この瞬間に経験していることだけが、もっとも絶対に近い記憶なのだ。そして次の瞬間、その記憶は曖昧な存在となって、改変される可能性を膨らませながら、どんどんと絶対から遠ざかっていくのだ。

 デビュー作「僕を殺した女」(新潮社)で、人の記憶の曖昧さ・不確かさを軸に、アクロバット的な論理を展開して読者を驚天動地の境地に追い込んだ北川歩実が、同じように人間の記憶と人格との曖昧で不確かな関係を衝き、読者をいっそうの混乱へと叩き込む最新作、「模造人格」(幻冬舎、1800円)を発表した。

 母親といっしょにホテルに宿泊していた少女が、ひとり置き去りにされた。翌日、母親からの手紙をもらったと言って、男たちが少女をたずねてやって来たが、自分を「木野杏奈」と名乗って生い立ちなどを語る少女に、男たちは口をそろえて「そんなはずはない」と断言した。なぜなら少女と同じ名前や生い立ちを持った人物が、4年前に殺害されていたからだった。

 ホテルにやってきたのは、1人が自分だと名乗る人物、木野田杏菜の兄であり、残る2人は杏菜といっしょに殺人鬼によって殺された少女の父親と兄。そして杏菜の兄は、殺された妹の姿を実際に目にしていた。

 「木野杏奈」と名乗った少女は、3年前に交通事故によって記憶を失った後、母親から写真や口伝によって、子供だったころの話を聞かされて育った。自分の「木野杏奈」としての記憶が、後から母親によって植え付けられたものであることは知っていたが、ホテルに集まった男たちの話を聞いて、自分が「木野杏奈」であることに確信が持てなくなって来る。さらに少女を紛れもなく杏奈自身だと訴える人物も出てきて、「木野杏奈」の混乱はいっそう強まる。

 「あなたは誰?」「わたしは誰?」 問いつめられ自問自答する少女が自分を取り戻す果てにあるのは、おぞましい惨劇の記憶か。それとも忌まわしい過去の経験か。登場人物たちがそれぞれに語る、自分の都合に合わせて改変した記憶の数々に接していると、立場の数だけあるという真実を「薮の中」で探す、ある種の徒労感にも似た感情に襲われる。そんな中で、自分の記憶は自分自身の経験に基づいた正しい記憶なのだろうかという妄想に捉えられ、疑いの眼差しで過去を振り返り、自問自答を続けている自分に気がつく。

 すっきりと収まったように見える結末にも、少しばかりの毒が仕込まれているような気がして、読み終わった後も、結局どっちなんだろうと考え続けて今に至っている。結論はこれまた「薮の中」。ひとまず自分の都合に合わせて解釈して納得しても、再びわき起こってくる懐疑の念にとらえられ、そのまま抜け出せずにぐるぐるぐるぐる・・・・。


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