meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"> 毛布おばけと金曜日の階段

毛布おばけと金曜日の階段

 あたりまえに暮らしていけることの幸せを、あたりまえの暮らしの中で感じることってとっても難しい。それはあたりまえの日常にとけ込んでしまっていて、誰の気持ちにもあたりまえとしか感じられないものだかから。

 けれどもあたりまえじゃない日常が訪れた時、とけ込んでいた幸せがくっきりと浮かび上がってくる。それがどんなに大切なものだったのかに気づき、逃げていってしまいそうなあたりまえの幸せを、つかみ直そうとして背を伸ばし、取り戻そうとして前を向き走り出す。

 本当だったらあたりまえの暮らしの中でも、ちゃんと幸せの存在に気づいて大切に守り育むべきなんだろう。難しいことなのかもしれないけれど、そんな時のために物語というものがある。物語がもしかしたら訪れるかもしれないあたりまえじゃない日常を見せてくれる。浮かび上がる幸せの大切さを教えてくれる。

 橋本紡の「毛布おばけと金曜日の階段」(電撃文庫、550円)も、そんな働きを持った物語のひとつだ。悲しいことをきっかけにして浮かび上がった幸せを、絶対に逃がしたくないと頑張る少年たち、少女たちの姿を見れば、きっと誰でも暮らしの中にとけ込んでいる生きている幸せ、恋する幸せを思い感じることだろう。

 父親がいて母親がいて姉がて妹のいる4人家族にとつぜん起こった大変なこと。父が事故で死んでしまい、ショックで母親は心を病んでしまって病院へ。さらにお嬢さん学校に通い家でもしっかりした子を思われていた姉のさくらが、父親の死んだ金曜日なると毛布にくるまって、階段の踊り場でうずくまってしまうようになってしまった。

 妹の未明は、そんな悲しい姉の姿にかえって冷静になったのか、落ち込みもせずごくごく普通に高校生活を送っている。そして金曜日になると、食べ物を買い込みお菓子をそろえ、高校生なのに大学生の姉とつきあっている和人という少年も呼んで、”毛布おばけ”になってしまった姉を囲んで話をしたり、騒ぎ会ったりして一晩を過ごすことにしている。

 物語では、そんな不思議な3人組を軸にして、とけ込んでいた幸せの大切さが輪郭を持って浮かび上がってくるエピソードが描かれる。「みちのながてをくりたね」で未明は、恋をしている同級生で女の子の真琴に、言い出せなかった恋心を告げるべきなのか悩みもがく。もっと幸せであるべきなのに、”毛布おばけ”になってしまった姉の姿に、自分の幸せを強く感じ取り、真琴への想いを強くして突っ走る未明の姿が微笑ましい。

 「花火の下、きみの微笑みを」では、金曜日こそ毛布にくるまって”毛布おばけ”になってしまうけど、普段は美人で頭も良いさくらにどこか心で引け目を感じている和人の葛藤と逡巡、そして解脱の様が描かれる。「缶コーヒーの行方」では、もやもやとした心をひきずり、仮面を被って生きていた未明が、めぐりめぐって自分へと返ってきた他人への親切に助けられ、勇気づけられる。そのどちらからも、どこか遠いところでも、高いところでもないすぐそばにある幸せが浮かび上がって来る。

 悩んだり迷ったりする未明や和人たちとは違って、ひとり自分の気持ちを外に出すことなく、金曜日には毛布にくるまって階段にうずくまるさくらのキャラクターは、ともすれば異様で不気味に見えるかもしれない。和人に思われことすれ、救われない姿には哀れみすら覚える。けれどもその突出したキャラクターがあってこそ、未明も和人も自分の気持ちに正直になり、他人の気持ちにも思慮を向けられるようになれた。

 一家を襲ったあたりまえじゃない日常が、未明や和人やさくらたちもたらしたものはたくさんあった。だからといって、あたりまえじゃない日常が訪れれば良い、続けば良いと望むのは間違っている。「缶コーヒーの行方」で未明は、階段の”毛布おばけ”囲んで騒ぐ金曜日を至福の時だと言う。ならばさくらにずっと”毛布おばけ”でいつづけろということなのか。折れた心を抱えて生きろということなのか。それは間違っている。ぜったいに間違っている。

 ”毛布おばけ”は消えるべきだと思う。未明も和人もあたりまえの日常に戻って、あたりまえじゃない日常で気づいた幸せの大切さを忘れないで生きるべきだと思う。ましてやこの現実で、あたりまえじゃない日常を無理矢理に望んで幸せをつかみ取ろうなんて願ってはいけない。

 ”毛布おばけ”はひとり不幸を一身に追って、未明と和人に幸せを運んだ。そんな”毛布おばけ”の物語を糧にして、このあたりまえの日々にとけ込んでいる、たぶんたくさんとけ込んでいる幸せを、思い、探し、手に入れしっかりと掴み取ろう。


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