物語が、始まる


 「幻視力」という言葉がある。幻をみせる力であり、幻をみる力のことを指す。小説を読むときには、とくに最近の純文学を読むときには、作者と読者との間で、お互いの「幻視力」がせめぎ合うことになる。作者は読者をマボロシの世界へ誘い込もうとし、読者は作者の意図を上回る「マボロシ」を見ようと懸命になる。

 村上龍も村上春樹も笙野頼子も神林長平も、ともに「幻視力」に秀でた作家だと思う。彼や彼女が作り出す「マボロシ」の世界に、読者としてなかなか勝てない。1度は勝ったと思っても、次に読み返した時にはまた新たな発見をさせられる。2度3度と読み返してなんとか理解したと思っても、次に彼や彼女が出す小説によって、より深くより高い「幻視」の世界へとたたき込まれる。

 芥川賞を受賞した川上弘美の第1短編集「物語が、始まる」が出た。受賞作の「蛇を踏む」は当然のことながら入っていないし、パスカル文学賞を受賞した短編「神様」もやはり入っていない。収められた4編は、いずれも「中央公論文芸特集号」に発表されたもので、いずれも強い「幻視力」を持っている。

 表題作の「物語が、始まる」は、女性が雛形を手に入れた場面から始まる。男の雛形で、声も出せば文章も書く、運動もするしペニスだって持っている雛形で、女性はそれを自宅へと持ち帰り、本を読んだり物を食べさせたりして世話をする。女性にはつき合っている男性がいるが、どこかぎくしゃくとしている。ぎくしゃくは男性が女性の家にきて、雛形を見てからよけいに強まる。雛形は女性に興味を持ち、女性も雛形に興味を持つが、雛形ゆえに性交渉は持てない。

 巻末の「墓を探す」は、冒頭、「墓を探すことにした」と書かれた姉からの手紙が、妹のもとに届く。死んでしまった父が家に来たのをきっかけに、祖先の墓を探すことにしたと姉はいい、父の出身地である山村をたずねていくことにする。電車とバスを乗り継いで、ようやくたどりついた、親族がかつて経営していた旅館には、死んでしまった父や母や親戚一同が集い、姉妹に先祖の墓のありかを伝える。

 日常的なシチュエーションに、なんの説明も前置きもなく、非日常的なシチュエーションが登場する点が、両作のみならず他の「トカゲ」「婆」の2編にも共通する。しかしいずれの作品でも、登場人物達は驚き慌てることなしに、非日常的なシチュエーションを受け入れて、非日常的な日常を過ごす。

 村上龍や笙野頼子のような強さはない。村上春樹のような虚無感もない。たぶん意味はないのだろう。あるいは暗喩でもないのだろう。読者を啓蒙しようとか、読者を惑わそうとかいった下心なしに、ただひたすら己が「幻視力」を駆使しているだけなのだろう。挑戦する気でいた読者は、振り上げた拳をおろせないまま、作者の作り出した「幻視」の世界を、ざらざらとした感触を味わいながら、流されていく。

 ざらざたとした、というのはたぶん、全部の作品を通じて流れている日常への嫌悪と非日常への憧憬のようなものを感じたからだろう。現実の世界から逃避したいと思う願望が、それが積極的なものであるか消極的なものであるかは関係なく、なんとなく嫌だなあと思っている気持ちが、雛形を拾わせたり婆に出会わせたり墓を探す姉につき合わさせてりしているような気がして、どうにもやるせない気持ちにさせられるのである。

 そんななかにあって、個人的には「トカゲ」が1番気に入った。お隣さんからペアの片割れとしてもらった「座敷トカゲ」が、セールスマンの言うこととは違ってどんどんと大きくなっていく。別の奥さんから「息子が受験なので貸してくれ」と言われて貸すと、そこでは受験に合格するようにとエサをやり、さらに大きくしてしまう。お隣さんのトカゲも大きくなっていく。3人の主婦がトカゲに惹かれていく様に、日常の非日常であり、非日常の日常を描くことに長けた作者の真骨頂があらわれているように思う。

 ラストの1行、現在進行形で終わる文章に、そのまま「幻視」の世界へと連れていかれそうになった。そして、自分のなかの日常への嫌悪感が見すかされているような気がしてはっとさせられた。

 似通ったパターンの作品が多く、読者の「幻視力」に勝る作品を、これからもずっと作り出していけるかというと、少し疑問に思う。ここはゆっくりと、そしてじっくりと自身の「幻視力」をため込んで、圧迫感でもいいし虚無感でもいいから、強いパワーを持った作品を書いて、読者を圧倒して欲しい。


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