都立水商!

 甲子園での高校野球の応援に、田中康夫・長野県知事が「やっしー」の着ぐるみを持ち込んで高野連から注意を受けたという記事が、2001年夏の新聞紙上を賑わせた。実体としては「いかがなものか」とご注進に及んだメディアの半ばマッチポンプ的な記事で、当の高野連は県知事としっかりスタンドに同席していて、その際にはとりたてて咎め立てしなかったにもかかわらず、騒ぎ立てたメディアに背中を押されたこともあってか、一緒になって「いかがなものか」と言ってしまったものらしい。

 高野連では後日しっかりと田中知事に謝意を告げたそうだけれど、この一件を見るだけでも、突出したものには絶対に何か言いそうだという雰囲気が、高野連にはあってそこに田中知事憎しのメディアの心理も加わって、マッチポンプのような格好になってしまったんだと言えそう。それでなくても部員でもない生徒が事件を起こしただけで、その学校の野球部が大会を辞退しなければいけないような空気を高野連は未だに作り出しているし、大学では認められた女性の選手の出場は今も不可能。危険だとか体力が違い過ぎるといった否定理由とは無関係の監督だって確か女性は存在しない。

 あれもダメ、これもダメ、いやなら出なくて結構と、権力でもって高校野球の世界に君臨して来た高野連に訪れた最大の危機。果たして彼らは高い道徳と激しい鍛錬によって健全な心身を育成しようとする自分たちに天から与えられた使命を守れるか……という話ではその本はまったくないけれど、高野連が直面したアイデンティティーの危機という部分は、描かれているテーマの結構大きなポイントかもしれない。

 その本、室積光の「都立水商!」(小学館、1300円)は、「東京都立水商業高等学校」という水商売のプロを養成する学校を舞台にした異色も異色の学園小説。「ホステス科」「マネジャー科」は言うに呼ばず「ソープ科」に「ゲイバー科」まであって、性技を教え込まれている女生徒がいたり、性別に戸惑う男子生徒がいたりして、高野連的な通念では異端も異端、理解の範囲を大きく逸脱した学校になっている。

 最初はやっぱり高野連ほどいかなくても、同調圧力に押されがちな一般レベルでの社会通念が働いたのか、普通に高校に進学できない落ちこぼればかりが集められスタートした「都立水商」。けれども勉強に落ちこぼれていたとしても、また性癖に特殊なものがあったとしても、人間としての善し悪しにはまったくもって無関係。これまた画一的な教育システムの枠組みからはみ出してしまってはいたものの、人間を教育することにかけては熱意もあり、技術も持っている優秀な教員たちの手もあって、「都立水商」の生徒たちは、本業ともいえる水商売の世界で敬われ親しまれる優秀な”水商売人”となり、一方でスポーツの世界でも柔道に、野球に活躍する人材を「都立水商」は次々と輩出する。

 そこで問題になるのが石頭どころかダイヤモンドヘッドな高野連。詰めかける応援団にはプロフェッショナル一歩手前の「手こすり千回」をマスターした「ソープ科」の生徒に、美しさを探求することにかけては女性だって上回るゲイバー科の生徒たちが混じって、華々しくもなめまかしい応援をスタンドで繰り広げて、教育がどうした道徳がこうしたと喧しい高野連の眉間にしわを寄せる。選手にだって「ゲイバー科」の生徒はいる訳で、丸坊主が決まりな高校野球の世界に混じり、長髪で見目麗しい選手が混じっていたりするから、眉間のしわはますますもって深くなる。

 さてどうするか? と言ってもそこはそもそもが「都立水商」なんて普通には絶対に設立されることのない学校が存在してしまっている世界。実にあっさりと、けれども本当に教育の世界、政治の世界もこうなってくれたら嬉しいと思わせるような解決がなされていて、読んで清々しくも晴れ晴れしい気持ちにさせられる。

 教育って何だろう? ということを、真正面から「3年B組金八先生」よろしく説教訓話の類でやられたとしたら、読む方だって正直、辟易としただろう。それを今の一般的な通念で言うところの「水商売=陰」といった価値観をひっくり返した舞台の上で、最初は一種のギャグとして水商売肯定論を徹底して貫き笑いを取りつつ、やがて自分に真っ正直に生きることの嬉しさと、スポーツを純粋に楽しむことの素晴らしさを浮かび上がらせていって、読む人の気持ちをほころばせる。

 加えていったん認知され持ち上げられると、今度は「水商売=陽」として徹底的に擁護され、エリート視されてしまう風潮にも、本当にそれでいいのかと疑問を投げかける冷静な目もあって、移ろいやすく流されやすい社会通念への警鐘として、読んでいろいろ考えさせられる。

 現実問題、いくら教育の多様化が言われたところで「都立」どころか「私立」でだって「水商業高等学校」は出来そうもないし、高野連だって全柔連だって「都立水商」のような学校が大活躍をしてみせたら、眉をしかめて排除に努めることだろう。幸いにして小説には天の声があり神の手が及んで「都立水商」はすくわれたけれど、水商売がオタクであっても果たして教育界は、政治は教育の多様化を、生徒の何かを成し遂げようとする意志を、教員の素晴らしい人間を育てたいという意欲を認め、守り育むことができるだろうか。

 「こんなのあったら面白いかも」という発想から生まれた存在が、どんどんとエスカレートしていく様の面白さに酔いしれたって読み方としては間違っていない。個性たっぷりのキャラクターたちの活躍に目を潤ませ、口元をほころばせるのも悪くない。ライバルがバスケットの強豪・能代高校という水商野球部監督のキャラクターの、何と秀逸なことか。

 けれどももしも心に余裕があったなら、あるいは学校に、社会に行き詰まって心がいっぱいになっていたなら、笑いで解きほぐされた気持ちの向こう、圧倒的な面白さを持つ物語に乗せて語られる教育界が抱える問題についても思いめぐらし、水商売の世界での将来が絶対視されている人間であっても、自分の想いのためにはその道を捨てる格好良さに惚れ、人が人として生きる上で大切なことは何だろうかと考えてみてはどうだろう。高野連の人も是非。だってもしもこの本で気持ちが解きほぐされれば、明るく楽しくちょっぴりなめまかしい高校野球が見られるようになって、あの鬱陶しい春と夏が待ち遠しいく感じられるようになるだろうから。


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