出発点[1979−1996]


 アメリカでスタジオジブリの作品が販売される、それもアニメの老舗にて本家のディズニーの手によって。日本人の自尊心をくすぐるこんな話が、内外のマス・メディアに発表される会場に、当事者の1人である宮崎駿は、さして面白くもなさそうな顔をして現れた。

 もう1人の当事者である、徳間康快・徳間グループ総帥が、喜色満面の表情で雛壇に並んでいるその横で、宮崎駿は時折目をふせ、明後日の方向を向いて、徳間康快の演説や、ディズニー関係者の話を聞き流していた。成果を喜ぶ記者からの質問にも、宮崎駿は「徳間社長にとって良かったことだと思っています」と答える程度で、かつてのアニメの王国に、アニメの王様の手によって自らの作品が運ばれることへの喜びを、決して現そうとはしなかった。

 過去の作品が評価されることよりも、宮崎駿にはもっと大切なこと、気がかりなことが山ほどあって、そちらの方を解決する方がより重要だと、考えているようだった。例えば「中心となるスタッフの年齢がどんどんと上がっていること」。宮崎駿は55歳、先輩で盟友の高畑勲は60歳近くで、美術や彩色や仕上げチェックや進行や、その他もろもろのヴェテラン・スタッフはみな、結構な年齢に達している。

 若い人材が育っていない訳ではないが、安い制作費にきついスケジュールを強要されている今のアニメ制作の現場には、彼らに報いる手段がほとんどないのだろう。同人誌の漫画家が年収で1000万円を稼ぎ出す時代である。同じ様な絵を、それもプロとして要求される水準の絵を、それこそ月に何千枚も描いて、月収が同じ歳のサラリーマンの半額に満たないといった扱いを受け続ければ、いかなる才能でもしまいにはキレる。

 人材は去り、簡単な仕事は賃金の安い海外へと出され、ために新しい人材が育たなくなるという悪循環を、アニメ制作の最前線で身を持って感じている宮崎駿が、そうした切実な事情に目をつぶり、「日本のアニメがディズニーによって海外に出ていく」ことだけを、ナショナリズムをくすぐるような言葉で褒めそやす日本のマスコミの報道、それを自分の手柄のようにいいたてる人々を、決して快く思っていないだうろことは、記者会見の表情からなんとなく想像が付いた。

 直後に発売された、宮崎駿の新刊「出発点 [1979−1996]」(徳間書店、2700円)を読み、宮崎駿が昔から首尾一貫して、日本のアニメ事情を嘆き、状況を変えようと孤軍奮闘してきたかが良く解った。1979年から1996年までの間に、雑誌やムックなどに寄せたエッセイや、講演会での発言、著名人との対談、はてはアニメの企画書にいたるまで、実に90本もの文章を収録した584ページもの大著だが、中身は分量にも増して濃く、しかも厳しい。

 「僕は、自分たちの作った映画がヨーロッパに出ていった、アメリカでビデオが何万本売れたとかいうことでね、「おめでとうございます」なんて言われると、実に腹が立つんですよね。そういうことでやってきたんじゃないですから。自分たちの身の丈に合わせていままで生きてきましたから」(35ページ)

 「いま、ある種の苦々しさなしに自分たちの商売を語ることはできない。自分たちが手本にした一九五〇年代のいくつかの作品と較べ、八〇年代のぼくらはジャンボジェット機の機内食のようにアニメーションを作っている。大量生産が事態を変えたのだ。貫くべき真情や想いは、はったりや神経症や、くすぐりに席をゆずってしまった」(103ページ)

 「日本のマンガがアメリカに進出してるなんて喜んでる人がいますけど、それは風呂場の隅の小さなタイル1個が日本のマンガになった位で、それだけの意味しか持っていない。アメリカ社会で、いちばん社会全体を繋いでいるのは、マンガじゃなくて彼らにとっては映画なんです」(134ページ)

 トップランナーの宮崎駿をして、かくも激烈な言葉を吐き出させるほどに問題を抱えた日本のアニメ界。しかしそこから生み出される様々な作品だけが、漫画と並んで、実写の映画や活字による文学ではなし得なかった、世界市場への展開を果たしている。アニメファン、漫画ファンであり、それらの海外進出を、宮崎駿と違って素直に喜んでいる自分でも、ときどきふと、「この国はいったい、どこに行ってしまうんだろう」と思う時がある。

 岡田斗司夫が「オタク学入門」で抜粋した、手塚治虫への追悼文も、本書には全文収められている。初出当時に「コミック・ボックス」で読んだときにも、相当に目を丸くしたが、今読んでもやはり相当に手厳しいと感じる。感じるがそれは、同じアニメーションという仕事をした者としての発言であって、漫画家としての手塚治虫は評価している。生前であろうと死語であろうと、いたずらに聖域化することなく、その業績のみを評価の対象とする姿勢は、自分も含めて多くのマスコミが見習うべき点だろう。

 「亡くなったと聞いて、天皇崩御のときより”昭和”という時代が終わったんだと感じました」という言葉からは、世代を越えて同じ共感を抱かせるほどに、手塚治虫という漫画家の存在は大きかったのだと思わせると同時に、宮崎駿もやはり、手塚治虫という人物を意識していたのだということがうかがえて、少しじんと来た。


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