深山さんちのベルテイン

 綺麗だから、格好いいから、そっくりだから良いだなんて価値観を、女の子の格好をした男の子とか、その逆で男の子になった女の子に持ち込むのは、たぶん間違っていると言っておく。

 体はそうであっても、心はそうじゃない段差に迷い、戸惑いながらも世の中が、体の方ばかりを優先して、そうあるべきだなんて押しつける空気と、戦っている。そんな人たちとって、綺麗だとか格好良いとか、そっくりだなんて見かけで価値付けされることは、何の助けにもならない。

 もちろん当人たちが、綺麗になりたい、格好良くありたい、そっくりに見せたいと努力することには、切実で大きな意味がある。そうあることが認識として、らしさを極めることだなんだと思われている以上、そうなろうと頑張るのは、当然なのだから。

 けれども、いくら頑張っても、なかなかたどり着けないところはやっぱりある。そのギャップに苦しみ、悩む人もいる。綺麗だから、格好いいから、そっくりだから素晴らしい。心とは無関係に、そんな価値観だけがもてはやされるようになった空気を、体でも外見でも、なかなかたどり着けない人たちは、いったいどう感じているのだろう。

 それを思うと、とりわけ綺麗だから、そっくりだからと言って“男の娘”なる現象を、ムーブメントとしてクローズアップしてはやしている昨今の風潮には、やはりどこか欠けている部分があるのではないのだろうか。

 そうありたいと切に願う心。それを含めて語っていない、考えていない物語に意味はないと断じた上で、逢空万太が新たに問うた、「深山さんちのベルテイン」(GA文庫、600円)には、ムーブメントにただ乗っただけではない、見かけだけではない心と体のギャップの問題、それを世間がどう受け止めるべきなのかという命題が描かれていて、世の中にひとつの解答を指し示す。

 クトゥルーの邪神が美少女の姿で現れ、名状しがたいバールのようなものを振り回し、少年を魔境へと誘って爆笑をとった「這いよれ! ニャル子さん」(GA文庫)が、アニメ化されるまでに大ヒットしている逢空万太だ。昨今のムーブメントをどれだけ面白おかしく描いているのかと、そんな期待で手に取った人には、予想外の驚きをもたらすかもしれない。

 深山琥太郎ことコタローは、名前のとおりに男の子として生を受け、育てられて来たけれども、いつの頃からが自分は女の子なんだと認識するようになった。高校に通うようになった今は制服も女子の着るものなら、家の中でも普段着から下着も含めて女性用のものを身につけ、日常生活を送っている。

 そんなコタローのことを、幼なじみの耕平は気にせずつきあい、クラスのほとんどもそういうものだと認め、女子などは体育の授業の着替えも別に、一緒で問題なさそうなそぶりをみせていた。

 もっとも、はやり幼なじみの理々は、琥太郎は琥太郎なんだと譲らず、体育の時の着替えも、女子の更衣室から追い出した。コタローは男子といっしょに着替えることになって、その見かけの女の子らしさで妙な視線を浴びることになり、それを耕平がガードする状況が続いている。

 コタローを認めようとしない人がもう1人いて、それはコタローの母親で、類い希なる才能を持った科学者として知られている。今回、海外から乞われて長く家を空けることになった母親は、コタローの世話をさせる目的で、1台ロボットを置いていった。

 それがベルテイン。メイドの格好をした女の子型のロボットで、普段は抱えられるくらいのサイズながらも、料理洗濯買い物と家事のすべてを巧妙にこなして、1人暮らしのコタローの面倒を見る。

 ロボットながらも食事が可能で、レンコンが好物だからと、毎度の食事にレンコン料理を出す癖はあっても、失敗はせず、理々の家にいる犬のディアナの背にまたがって、コタローの学校に忘れ物を届ける利発さ、かいがいしさを見せる。

 もっともそれだけでは、ただのお手伝いロボット。実はベルテインにはもう1つ、秘密の機能があったある程度家事をこなしてエネルギーが貯まると、ベルテインは人間と同じサイズに大きくなることができた。

 目的はコタローの男の子としての“目覚め”。けれどもコタローは、ベルテインの攻勢に耐えて、女の子になりたい、女の子なんだという自分の気持ちを貫こうとする。その強い意志を決して揺らがせず、コタローが普段から用いる一人称を「わたし」とし続けるところに、昨今のムーブメントとは確実に違った、複雑な人間の心理のひとつの形ともいえる状態を、内面も日常もしっかりと描こうとする意識が見てとれる。

 その意味では、シリアスで真っ当さを持った物語ながら、ストーリーの大半は、一風変わった言葉遣いでコタローの世話を焼くベルテインの、ちょこちょことした可愛らしさが細かいエピソードとして綴られていく形で進んでいく。

 そのなかで、最初はコタローの見てくれに難癖をつけようとした少年が、実は空手が強かったコタローに何度も挑んでは撃退されるうちに、新しい感情を芽生えさせていくエピソードや、琥太郎が琥太郎であって欲しい理々の、真正面から言い出せないまま、コタローを拒絶してしまう心理などが綴られていて、楽しみながら複雑な人間の心理へと迫っていける。

 そうした土台がある上に、描かれるコタローのビジュアル的な良さも乗って、そうありたいのだったらそうあれば良いと、応援してあげたくなってくる。瞬間風速的なムーブメントのなかで、似たタイプの作品が多く出て、そんな1編と見過ごされかねない心配もあるけれど、手に取られれば確実に何かを残してくれる物語と言えそう。

 コタローの真っ直ぐさに刺激され、自分もそうありたいんだと思い、そうあろうと願った少年少女が多く出て、そして耕平たちの優しさに触れ、彼ら彼女たちはそうあるべきなんだと認める空気が広まった先に来る、包容力のある社会の登場を、ちょっと期待してみたくなった。


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