ミシン

 今にして思えば流感のようなもの、だったのだろう。月々のアルバイトで稼ぐ金が5万円にも満たない大学生の懐で、「ワイズ・フォーメン」の2万5000円のカーディガンに1万5000円のシャツに9万円のスーツを買った帰りの電車で、本当に自分はこれを欲しかったんだろうかという自戒の念、かくも大金を注ぎ込んで買うだけの価値があったんだろうかという悔恨の念に押しつぶされそうになった。

 けれども翌日。ブランドネームがプリントされた袋から取り出し、身に着け大学の講義へ向かう時には前夜の自責も悔恨もすっかり吹き飛び、間もなく振り込まれる奨学金で何を買おうかと算段している懲りない人間の姿がある。その様は、ブランドの魔力に魅入られていない人から見ればまるで病気としか思えない。あるいは宗教とも。

 それでもサラ金ならぬ学生金融から金を借りることもなく、身の丈の及ぶ範囲で踏みとどまれたのは、生まれながらに染みついた貧乏性のおかげとも言えるし、ハマりかかっている自分を客観的に見られる冷静さ、というよりは自分を中心に世界を考えようとする過剰なまでの自意識があったから、とも言える。自意識過剰で本当は自分が1番だと思いたがっている人間ほど、宗教にハマりにくいことと似ているのかもしれない。

 宗教が欠けた心を補い、存在を慰撫し、世界に身の置き所を与えてくれるように、ブランド物のファッションにも、自分という存在を大きく見せ、世界に肯定してもらえるようにする効果がある。時にデザイナーのポリシーだとか、業界ヒエラルキーにおける位置づけを価値基準の拠り所にして高額のファッションを肯定することもあるけれど、それを言葉で説明しているうちはまだまだハマり切ったとは言えない。身に染み付いて離れないくらいにまでなったこだわりは、そういった情報を言葉で理解するのではなく、見た瞬間そして身にまとった瞬間に肌と心で感じ取る。これもまた宗教の、教祖と信者との理想的な形にどこか通じる。

 「ヴィヴィアン・ウエストウッド」という、英国で生まれたファッションを全身にまとった美少女が存在したとして、その少女が得られた心の安寧はいかばかりのものだったのだろうか。嶽本野ばらという、少女というよりは「乙女」についてのエッセイなり評論なりで知られる”男性”が初めて書いた小説「ミシン」(小学館、1000円)に収録されている短編「世界の終わりという名の雑貨店」に登場する少女が、まさしく「ヴィヴィアン・ウエストウッド」で魂を救われた存在だった。

 主人公の青年は、ライターの道をあきらめ京都にある寂れたビルの一室に「世界の終わり」という名の雑貨店を開店した。品物が売れると売れないとに関わらず、服装は「ヨージ・ヤマモト」か「コム・デ・ギャルソン」、食事は名曲喫茶のお茶とサンドウィッチと決め、午後1時に店を開いて夜になれば閉める毎日を繰り返している。そんなある日、店の名前の由来にもなった「ヴィヴィアン・ウエストウッド」で全身を包んだ少女が姿を見せるようになり、やがて主人公と親しくなっていく。

 どうして「ヴィヴィアン・ウエストウッド」を着るのか、君にとって「ヴィヴィアン・ウエストウッド」とは何なのかと聞く主人公に、口のきけない彼女はペンで紙の上に「多分、矜持」と答える。顔に痣があり、そのせいで常に憐れまれているような感情に陥っていた彼女は、ショーウィンドーで見た「ヴィヴィアン・ウエストウッド」に釘付けになり、親の金を持ち出してすべてを買い、「人から罵詈雑言を浴びせられようが」平気な心を手に入れた。

 システムから堕した青年と自らを律した少女が出逢い惹かれ合った挙げ句に至る悲劇は、ともすば浮き世離れした者たちのふしだらな戯れに映るかもしれない。けれども「ヴィヴィアン・ウエストウッド」を身に着け、青年とともにいた時にだけ自己を律していられた少女の壊れかかった心が見えてくるに従って、ブランドでも青年との邂逅でも、欠けた心を埋められる存在、自分を肯定してくれる存在の大切さが浮かび上がって来る。

 パンクバンドのボーカリストの少女に運命を見た少女が最後に示す純粋にして歪みきった情愛を描いた表題作の「ミシン」では、「ミルク」というブランドが欠けた心と心とをつなぐアイティムとして登場する。誰にも媚びないボーカリストがこよなく愛するブランド「ミルク」。そんな彼女に近づきたい、愛してもらいたいと願う少女は同じ「ミルク」のファッションに身を包み、ボーカリストの行く先々に表れては、自分の心をその姿で訴える。

 複雑な生い立ちを持ったボーカリストが彼女を慕う少女に頼んだある行為の凄まじさに、あるいは身を振るわせる人もいるだろう。けれども同じ「ブランド」を愛する人間の間にある奇妙な共犯関係が、心の壁をうち破って2人の少女を1つに溶かし合い、はた目から見れば悲劇でも、当人たちにとっては共に幸福へと至る道を選ばせる。これが少女なのだろう。大人にも男にも理解不能な高潔さを持った、純粋無垢な少女の姿なのだろう。

 ファッションブランドに対するパースペクティブを持たない人に、どこまであの「想い」、あの「空気」が伝わるのだろうかという懸念があるし、宗教に似ているといっても心境宗教にありがちな血走って殺気だった雰囲気とは少し違うから、誤解されるのではという心配もある。ただ、自分という存在に常に懐疑的になりながら、どこかに魂のかけらを、心の拠り所を見つけようとして彷徨っている人たちだったら、ファッションブランドという媒介、宗教というニュアンスとは無関係に、どこか惹かれるところがあるはずだ。そして読み進むうちに感じるはずだ。

 魂と、心の在処を。


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