メグル

 学生時代にやったアルバイトと言えば、ディスカウントストアで食品を補充する仕事を在学中の4年間、ひたすらこなした程度。そこから学んだのは、スーパーの利幅が販売価格の1割にも見たず、1つ破損を出したら10個売れても元がとれるかどうかという、厳しい世界だという知識くらいだった。

 だからといって商売の大変さが身に染みて、倹約を旨として生きるようになったかというとさにあらず。一生に残り人生を左右するというほどの経験にはならなかった。そんな一方で、数日のアルバイトが人生をかけるに等しい職務と教え、世に出ようとする時にその仕事を選ぶ人もいたりする。つまるところ、人生を左右するアルバイトとは、やった期間でもなければ職種でもないのだろう。

 乾ルカが連作形式でつづった「メグル」(東京創元社、1600円)の中で、大学から学生が割り当てられるアルバイトの数々は、短ければ数時間で、長くても数日といった一期一会のアルバイト。それこそ金を受け取ってはいさようならとなるのが普通の仕事ながらも、関わった者たちの人生を大きく左右し、時には命すら救ってのける。

 大学生の青年が、アルバイトを探して学生部の奨学係が担当しているアルバイトの斡旋コーナーに行くと、彫りの深い美人顔ながらも無表情で無愛想な女性の職員がいて、あなたにぴったりだからと半ば強引にアルバイトを押しつけてきた。「あなたは行くべきよ。断らないでね」とまで明言するその根拠が、いったいどこにあるか分からないまま青年がアルバイト先に行くと、待っていた仕事は死んでしまった老婆の手を握ったまま、一晩を過ごして欲しいというものだった。

 聞くと死んでも手が硬直しない状況は、誰かを引いていってしまう前兆であって、過去にもそうした死を迎えた老婆によって、親戚が何人も連れて行かれたという。もっとも、青年のように縁の薄い者は引いていかれないということで、そうした死体が出た時には外部にアルバイトを頼んで、それに青年が応じたというか、大学にいた女性に応じさせられた。

 暗い寺で老婆の手を握ったまま一眠りして、そのまま夜が明ければ、大江健三郎が短編に書いた死体洗いではないが、ちょっと不思議なバイトで妙な経験をしたという、何の変哲もない物語で終わったところが、「メグル」のその短編「ヒカレル」では、なぜか死体が夜中にしゃべりだし、青年に自分がそんな状態になってしまったことを嘆き始める。

 最初は自分のおかれた境遇と、青年が呼ばれた理由を察知して、自分は誰も連れていかないと良いながら、それでも浮かんだ寂しさに、自分は不細工だから死んでしまいたいと思って、大好きだった老婆が眠る夜の寺にやってきた孫娘を、いっしょに連れて行ってしまおうと言い出した。

 そのことに気付いた孫娘の父親や母親が、止めにやって来て寺は大混乱。そしてすべてが片づいた時に、青年は自分の身にとても不思議なことが起こっていたことに気付く。こうして始まった「メグル」は、大学の女性が奇妙なアルバイトを紹介する設定を元に、さまざまなストーリーが紡がれていく。

 指輪をなくし、夫に怒られ続けている母親の姿にうんざりして、すべてから逃げかかっていた娘が、アルバイトを通して打開策を見つけ、親子関係を回復する「モドル」。猛犬のために肉の餌をやりにいくアルバイトに行った青年が、何が起こっているのか分からない恐怖を味わう「アタエル」。人前で吐瀉した経験から、人前で食べられなくなってしまった青年が、誰かの家に呼ばれて、その人の前で自分だけ食べるアルバイトを通じて、人と交わる楽しさを取り戻していく「モドル」。不思議なアルバイトを通じて、身に大切な経験がもたらされるストーリーがつづられる。

 どうして大学にいる女性には、そんな奇妙なバイトの仲介が舞い込むのか。どうして彼女は、それを適切な人に紹介していけるのか。そういったあたりの説明はなく、女性自身も幾度となく不思議な体験をしていたりする話もあって、その裏にあるいは誰か超越的な存在が、いたりするのかもしれないという思いが浮かばなくもない。

 もっとも、そうした細かい裏事情は小説からあふれ出てくる達観なり、感動とはあまり関係がない。起こる出来事から自分のモヤモヤが吸い取られたり、無理をしたことで恐怖を味わったり、切なさを覚えたり共感を取り戻したりしていくことの、それ事態のすばらしさや恐ろしさを、感じ取り味わうのが、「メグル」という小説の正しい受け止め方なのだろう。

 自分だったらどのアルバイトをやってみたいか。得られる福音の大きさでは、死体との手つなぎが1番だろうが、ここで言う福音とはすなわち死の間際からの回帰であって、マイナスがゼロになる程度のもの。プラスが得られるものではなく、喰らう反動も決して小さくない。遠慮したい。

 食事をするアルバイト。これはメリットも少なくないが、食べられない人の前で平気で食べる図々しさがなければ逆に胃を痛めそう。他も似たり寄ったり。「あなたは行くべきよ」。そういう言葉が与えられる人にのみ、有効さを発揮するアルバイトなのだろう。

 教訓。アルバイトはやはり難しいことなど考えなしに、愉しくやれてそれでしっかりお金という対価が得られるものが良い。


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