マレ・サカチのたったひとつの贈り物

 人が一生を、誰にも出会わないで生きることはできない。そもそも人は、必ず誰かから生まれ出る。それから先、ひきこもって人に会わず、人と話すことなく生きることはできないことももないけれど、それだって少なくない人が動き、働いて人を生きながらえさせている。

 もしかしたら人は、ひとりでは存在すらしていられないのかもしれない。主体という個人が自意識とともに存在しているとしても、それは人ではないのかもしれない。客体という誰かの関心が向き、働きかけがあってはじめて、人はそこに存在を認められるのかもしれない。

 誰かがあるから自分がある。他人がいるから本人でいられる。そんな風に、観測されて存在を許される人が、誰かを観測して存在を許していくという、無数で無限のつながりによって、人は人であり続け、人々として社会を作り、社会を作って歴史を重ねてきたし、これからも作っていく。人が存在する限り。

 そんな人と世界の在りよう、主体から客体へと向けられる線上の意識の広がりではなく、客体から主体へと寄せられる関心の編み目の連なりによって成り立っている、人の世界の姿を描き上げた物語が、王城夕紀の「マレ・サカチのたったひとつの贈物」(中央公論新社、1600円)なのかもしれない。

 量子病。いても消えてしまい、どこかへと移動し、現れて過ごしてまた消えてしまうという奇妙な病を負った、坂知稀(さかち・まれ)という女性の遍歴を通して、テロとデモにあえぎ、経済的に破綻していく世界の上で、どうやって立ち直ろうか、それともどうやって滅びていくのかを模索する人々の、さまざまな思いや動きが綴られていく。

 海辺の集落に現れた坂知稀は、巫女の少女と出会いその村で繰り広げられている祭りに列席して、奇蹟のようなできごとに触れる。ターミナル駅に現れた坂知稀は、ネットにつながった端末「ポタコン」の向こうに、待ち人がいると話す女性が感じる、自分の存在の希薄化を聞く。靴職人のいる街に現れた坂知稀は、誰かに履かれることが幸福だと感じる彼の最後の仕事をその足に引き受け、そしてどこかへと去っていく。

 砂漠で。森林で。都会で。海辺で。現れるさまざまな場所で、さまざまな人と出会った坂知稀は、それで究極の知性として進化していくことはない。逆に坂知稀と出会った人たちが、坂知稀から影響を受け、坂知稀を通して別の誰かの言葉を聞き、そして自分の言葉や経験を、坂知稀を介して誰かに伝えることによって、影響し合いながらそれぞれに進歩を遂げていく。

 誰よりもそんな進歩を得たのは、フランスに暮らすジャンという名の青年だ。ネットを通じて世界中から情報を集め、分析してこれから起こることを予測するリポートを書いて暮らしている。そのジャンの部屋に現れた坂知稀は、不思議とほかよりも長い時間をそこに居るようになり、消えてもまた戻ってくることを繰り返す。

 理由は分からない。ただ、誰かが求められばそこに現れる傾向があるようで、だから坂知稀はどこに行っても、絶海の孤島や灼熱の砂漠の真ん中に放り出されることなく、誰かの差し伸べられた手にすがり、救われて命を保っていく。そうやって得た命で見聞し、それを誰かに伝えながら世界中を飛び回っている。

 ジャンのところが長く、そして何度も現れたのはそれだけ、ジャンの坂知稀への思いが強かったからなのかもしれない。そんな坂知稀と触れあいながら、ジャンは経済がダウンして混乱を続ける世界にあって、資本側の統制が行われようとする一方で、反旗を翻す労働者もいる社会を見ながら、表層ではない裏側で誰かが何かを起こそうとしているのではと感じ始める。

 巧みに操作され、情報の出し方、転がしようで誰かの意図するがままに揺れて動き、傾くネット世論の姿といったものが示されていて、この世界が真に人の意志で動いているのだろうかと考えさせられる。陰謀の裏にうごめく陰謀。動いているようで動かされているかもしれない可能性に思い至らされる。

 それもまた、人が主体としては存在せず、客体の連なりとして存在させられていることの現れなのかもしれない。ただ、人には主観があって、それを与え合い繋げ合うことができる。誰かの意志にだけ頼らないで、誰かへと意識を向けることができる人の力をつなぎ合わせていくことで、うごめく陰謀に対抗できるのではないか。そんな未来への希望もわいてくる。混迷を極める世界にあってそれは、人が人としての存在意義を失わないでいるための、大きな武器なのかもしれない。

 なぜ量子病のような存在が生まれたのか。ほかにも変幻する顔の持ち主、生まれてすぐ哲学した赤ん坊など不思議な存在が現れるけれど、それらはいったい何が求めたのか、誰に求められたのか。個々人による主体としての意志よりも、人類全体を客体として誰か、何か別の存在による総意があって、その現れとして坂知稀をはじめとした不思議な人間たちが現れたのでは。そんな可能性が浮かぶ。

 物語の結末で人は、人類はひとつの道を選ぶけれど、それは本当に人が人の意志として選んだものなのか。誰かによって操作され、向きを変えられた意識がそこに向かってしまったけではないのか。人類全体を客体とする何者かの総意はそれを厭い、欲望に誘われるままに己を電子の海に混ぜ合わ人々を踏みとどまらせようとして、坂知稀を生み出し、他の不思議な人たちを送りこんできたのかもしれない。

 だから世界が激変した後も、人は、人々は生きて生き続けながら、出会い出会われることによって生き続けている。それを望んだ坂知稀が、世界に向けた贈り物のような言葉を噛みしめて。

 空間を超えて知識をふりまく坂知稀という存在からは、記憶を受け継ぎながら永遠の時間を生きるエマノンという少女の存在が浮かぶ。長い時間をかけて存在を続けるエマノンも、生きる人々に何かをもたらし、そこからの広がりをもたらすけれど、急変する世界、急進する技術の中で、もうエマノンでは遅過ぎる。坂知稀につきまとう量子病は、秒速で世界が動き変わっていく21世紀的な欲求に応え、人にもたらされた福音なのかもしれない。

 ラストシーンに近い場所に、映画として人気になった「楽園追放 −Expelled from Paradise−」へと至る世界の前段階に当たりそうなテクノロジーの描写があって、テクノガジェットへの興味をそそられる。ポタコンしかり、機械化兵しかりと、技術のこれからを想像させる描写もあって、そうしたものが好きな人、技術の可能性に歓喜したい人たちを誘う。

 一方で、「楽園追放」にも示唆された、技術の進化に身を委ねることの是非、人が人として存在し続けることの意義も問われる。ポタコンにすがり、その中だけが現実と思いがちな人たちをいさめ、現実を見るように誘う坂知稀の言葉には、人が人の中で人として生きていく大切さが漂う。

 読んで思おう、出会いの価値を、人が人として生きる意味を。


積ん読パラダイスへ戻る