漫画がはじまる

 残酷な事件、淫猥な事件が起こるとすぐに、マンガやゲームやアニメーションが影響しているという説がメディアの中にはびこりだす。法律で規制すべきだなんて話が政治屋どもの間からむわむわとわき上がる。迷惑な話だ。

 セックス描写は未成年厳禁。殺人描写はすべてダメ。パンチラも血しぶきも一切御法度。もしもそんな規制が発動されたとしたら、宮本武蔵の生涯を描く井上雄彦の「バガボンド」など、真っ先にやり玉に挙げられそうだ。

 とにかく人が死ぬ。大勢死ぬ。それも殺されて死んでいく。斬られ叩かれて血しぶきをまき散らし、あっけなくその生を死へと変える。そんな描写に溢れていると聞けば大人は想像するだろう。生が軽い。死が安い。影響されて人は人を殺して何とも思わなくなる、危険きわまりない漫画だと。

 だが違う。生と性を讃え、死と愛を紡いで比類なき詩人の伊藤比呂美は、これでもかと描かれる「バガボンド」の死にこそ、生命への慈しみが溢れていると解く。

 日本にバスケットボールのブームを巻き起こした「SLAM DUNK」に数年前にはまってしまって1年間。23巻で完結した大判の愛蔵版を何度も繰り返し読んでいたというから筋金入りの井上雄彦ファン。そんな伊藤比呂美が、文字で書かれた言葉以上に解釈のし甲斐がある絵で描かれた漫画を読み返し、そのたびに新しい発見をしたと断言する読み込みぶりでぶつけた質問に、井上雄彦は「『内臓』まで抉られて入ってきた」とおののいた。

 作品の底へと迫り、作品の裏側を暴き出すような質問は、井上雄彦すら自覚していなかった漫画家としてのスタンス、「SLAM DUNK」や「バガボンド」「リアル」といった作品が秘めている魅力を浮かび上がらせる。それらを語る漫画家と詩人の言葉の応酬が、これまでファンだった人にも、これからファンになる人にも是非に手に取ってみたいと思わせる。

 「SLUM DUNK」では、長髪で不良たちを率いて桜木花道や宮城リョータらを邪魔した三井寿が大好きだという伊藤比呂美。喧嘩に敗れ監督の安西先生に諭され心を改め「バスケがしたいです」と泣いて髪を切り、コートへと戻ってきた三井というキャラクターがあって「SLUM DUNK」の湖北高校バスケットボール部は、熱血と天才と強面の仲良しクラブから過去を越えて勝利を目指すチームへと成長した。

 そんな三井を描いていた時期に、井上雄彦はキャラクターに自分の思いを込めて描く術を覚えたという。パターン化したスポーツ根性熱血ストーリーにありがちな類型化したキャラクター分布に、悩み苦しんで葛藤し解脱していく人間を加えることに成功した。こいつはどんな奴なんだ? 何を考えているんだ? 過去を背負い今を思って行動し、未来をその手で切り開こうと走り出すキャラクターたちの内面を読む必要が生まれた。改めて見返したくなって来た。

 そんな「SLUM DUNK」を経て描かれ始めた「バガボンド」に描かれる死も、だから単なる刺激ではあり得ない。井上雄彦は語る。「人として描きたい」「ただの斬られ役A、B、Cっていうふうにはしたくない」。すべてのキャラクターの過去を想起し今を与えて未来を作り送り出す。底なしの慈しみを込めて描いた井上雄彦の漫画を読み込めば、人を殺せるはずがない。人殺しになんてなる訳がない。

 誰にだって人生がある。生きてる価値がある。それを奪うには覚悟がいる。生は重く死は金では替えられない。そんなとてつもなく大切なことを教えてくれる漫画をやり玉にあげる奴らにはきっと、世界にとっての本当の敵、人を人だと思いたくなくなるような社会を、環境を、仕組みを作りだしてそこに人を追い込んでいく本当の敵の姿が見えていない。あるいは積極的に隠そうとしているのかもしれない。

 だから自ら気付くしかない。井上雄彦と伊藤比呂美が「SLUM DUNK」について、「バガボンド」について、漫画について、生と死について語り明かした「漫画が はじまる」(スイッチ・パブリッシング、1500円)を読んで命とは、生とは、死とは何かを知って身を律するより他にない。

 漫画の強さ、漫画の深さ、漫画の凄さを世界よ、今こそ思い知れ。


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