ラブゆう

 どこにでもいる平凡な少年・神田俊が国民的な地位にあるPRG(ロールプレイングゲーム)の「ドラゴンブレス3 エテルナの姫勇者」を遊んでいたら、RPGの中に登場する勇者の姫君・ロザリーがテレビの中から現れた。

 目ざめたロザリーは、RPGの勇者なだけあってまずは当然のように箪笥を開け、部屋の中を荒らし回り玄関にある壺を割り、そこにいた俊に仔細を尋ね、答えがなければこれはただの物言わぬキャラクターだと感じ取り、別の誰かに何かを聞いて冒険を続けようとする。

 その瞬間、俊がぼそりとつぶやいた自分の名前がロザリーにとっては婚約者に等しい運命の人だったらしく、そのままロザリーは俊の家に居着いて俊を護り俊の世話を焼き始めるという、その世界に感情を移入し、キャラクターになりきってPRGを楽む人間にとって、願望がマックスを超えてかなってしまう内容の小説が現れた。

 その名は七月隆文の「ラブゆう」(集英社スーパーダッシュ文庫、619円)。願望が叶ってしまう内容なだけに、果たして作者のルサンチマンにも似た願望の垂れ流しになっていやしないか、それは当人にとっては心地よい世界であっても他の読者にとっては気持ち悪いものではないのか、といった懸念も浮かんで読み手を躊躇させる。

 しかし心配は無用。出現した勇者のあまりの可愛さと、勇者に言い寄られることになった少年を、弟のように慕い姉さん女房気取りでいるいとこの少女の健気さと、少年と同じ学校に通っているお嬢様な女生徒で、なぜか少年を言葉や態度で邪険に扱う美少女の居丈高さに攪乱されながらも、そんな強烈なキャラクターたちに引っ張られ、気が付くと話に引き込まれていたりする。

 壺を割ったり道行く人には逐一何かを訪ねたり、悪魔と聞けばそれがものの例えであっても気にせず突っ込んだ挙げ句に国会議事堂を破壊してしまったりと、RPG的なお約束を現実に当てはめた場合に現れるギャップを見せて楽しませようとしている部分は確かにある。RPGに対するパロディだがしかし「ラブゆう」の面白さはそこだけいある訳ではない。ありがちなキャラクターが登場するけれど、それだけに寄りかかっている訳でもない。

 登場するそれぞれのキャラたちが、生きた人間として抱いている信念めいたものがしっかりと読んでいてい伝わってくるから、ゲームの主人公になったように美少女たちから想いのベクトルを向けられ続け、ハーレムに放り込まれて肉まみれにされるという、幸福だけど似た設定の数多い状況に空虚さも浮かぶ複雑な感情を、「ラブゆう」の場合は強く味わわずに済む。

 無理矢理な展開に唖然とさせられることも少ない。猫耳生徒会長の唐突な変貌ぶりだけはちょっぴり奇妙さを感じさせるけれど、彼女がいなければRPGのお姫様が出現する代わりに、同じあらゆるゲームからお姫様が消えてしまった世界がどんな状況にあって、その状況を改善しなければ大変なことが起こるという、ドラマを駆動させる切迫感が出て来ないから仕方がない。

 自らが置かれた状況に気づき始めたロザリーはこれからどうなるのか。不思議な力を発動させてロザリーを現世へと引っ張り込んだ俊のこれからは。そして世界の行く末は。残された謎も多々あって、それらを解決するための続編が描かれていく可能性は高い。というよりなくては困る。

 姫にお姉ちゃんにお嬢様の3人が、意図するとせざるとに関わらず旬を囲んでお互いに牽制しあっていた状況が、3方から俊ひとりへと迫り腕を脚を握っては引っ張り合う、羨ましくも痛ましい状況へと移行したこれからの展開の中、神田俊が受ける数々の仕打ちに涙ぐみつつ嫉妬の炎をメラメラと燃やそう。

 しかしもしも仮に俊が熱中してい遊んでいたゲームがゾンビを銃で退治していくような作品だったら世界はいったいどんな様相を見せたのだろうか。憎しみの裏返しとしてのゾンビたちへの情愛が現実世界へとゾンビを引っ張り出して起こる阿鼻叫喚。それとも俊ひとりがゾンビに迫られ悲惨な目に逢っただけ? 偏愛するゲームも選ばなくてはいけないという教訓、謹んでお受けいたします。


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