きみといたい、朽ち果てるまで 〜絶望の街イタギリにて

 草花が生えた地面に仰向けで横たわっている全裸の女性は、腹が割かれて内蔵が露わになっている。下腹部には子宮もあって胎児が見える。日本画家の松井冬子が描いた<浄相の持続>がそんな絵だと聞かされて浮かぶのは、痛みや死への恐怖といった感情だろう。だが、実際に絵を見ると、不思議と死体につきまとう腐臭のようなものは感じられない。むしろ美しいとさえ思ってしまう。死んでいるはずの女性の佇まいに、生きてきた証を訴える意思のようなものが伺えるからなのかもしれない。

 腹を切り開かれて流血も尽き、あとは腐り朽ちていくだけの死体が、恐怖や嫌悪ではなく、屍姦的なものでもない純粋な恋情を誘うことがあるのか? そう疑う者たちに、<浄相の持続>と同じ肯定の意識をもたらしてくれるのが、坊木椎哉(ぼうき・しいや)による小説「きみといたい、朽ち果てるまで 〜絶望の街イタギリにて」(1350円))だ。第23回日本ホラー小説大賞で<優秀賞>を獲得した来歴に、残酷で血塗れな描写が連続して、恐怖の縁へと引きずり込まれる内容を浮かべてしまう。けれども、読めばきっと好きになる。朽ちていく死体が。腐臭などまるで感じず、死への恐怖も覚えることなしに。

 幹線道路と川に囲まれた狭い区域に、ビルが隙間なく建ち並んでいる街・イタギリ。どぶと汚物とごみの臭いにまみれた薄暗い街には、様々な事情を抱えて流れて来た人間たちが住み着いていた。そんなイタギリで酔っ払いの父親と暮らす少年の晴史は、ごみを回収し、時には死体も運ぶ仕事をしながら、街で見かけるシズクという似顔絵描きの少女へのほのかな恋心を支えに日々を生きていた。

 実は幼娼でもあるシズクと、汚物や死体の腐臭にまみれて働く晴史という、底辺に生きる2人が知り合って恋に落ち、お互いが抱える痛みを分け合うようになっていく。毎日を生きるのに必死な少年少女によって繰り広げられる純愛の物語が、イタギリを満たしているはずの悪臭、暮らしている者たちの絶望を脇へ追いやって薫風を嗅がせる。

 晴史とは昔馴染みの月丸という男が、イタギリで起こっている、娼婦たちが切り裂かれて殺される事件の犯人を探す仕事を持ち込んで来たことで、物語にミステリーのような味が乗ってくる。<シナズ>と呼ばれる、死んでいるはずなのに脳はまだ生きていて、体を動かし続けるゾンビのような存在も登場して、ホラー小説らしい雰囲気も出てくる。<シナズ>が生まれる理由は、人間の妄執の厄介さを現しているようで興味深い。

 そして、娼婦殺しの犯人が見つかって一件落着と思われた矢先に繰り出された真相が、成功を夢見ながらも挫折し、歪んでしまった人の心の厄介さを改めて突きつけてくる。晴史を雇っていた竹林という名の老人が、過去を悔いて身をイタギリに起き続けた潔さを一方に感じて、自分はどちらの側にあるのか、絶望から暴走しないでいられるのかを自らに問いかけたくなる。

 そして訪れるラストシーン。松井冬子が<浄相の持続>を含めた作品で、人が死に朽ち果てるまでを描いた仏教画の<九相図>を現代に蘇らせ、諸行無常の教えだけではない、人が生きて誰かに想いを残す強さを示したように、朽木椎哉もまた<九相図>の新たな形を紡ぎ出す。腐臭に臆さないで死体に向き合い、死に恐怖しないで見守り続ける恋情の強さが、シズクと晴史との凄絶で美しいやりとりから浮かび上がってくる。

 選考に当たった綾辻行人が、野性時代に所収の選評で「原稿を読みながら、ぼろぼろ泣いてしまった」とコメントしているとおり、感涙を誘われるシチュエーション。それは悲嘆の涙ではなく、出会い互いに惹かれ合って何かを残し合えた喜びの涙だ。流して味を噛みしめながら、生ある者として今をしっかり生きていくのだと決意しよう。


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