Delta in the Darkness
黒猫の三角

 「犀川創平&西之園萌絵シリーズ」は強烈だった。徹底してクールな探偵役にして大学教授の犀川創平、知的ながも冷たさとは対極にある雰囲気の美貌を誇る助手役の西之園萌絵。2人が織りなす推理と冒険の数々と、それに絡む真賀田四季をはじめとした犯罪者たちの圧倒的なイメージに感化された結果、衝撃の最終巻でシリーズが幕を閉じた時、森博嗣に対する好感と関心のすべてが「犀川&萌絵シリーズ」に集約されてしまっていた。

 アニメで例えた方が分かりやすいかもしれない。「機動戦士ガンダム」、俗に言う「ファースト」をほぼリアルタイムで見た頭には、「W」も「X」も「V」でさえもなかなか容易には受け入れがたい。「Z」は別、ハマーン・カーンという稀代のキャラクターに感情を入れ込むことができたから。「ZZ」はしかし……これは判断に悩むことろだが、「ファースト」を超え「セイラ・マス」を上回る感情をそこに入れ込むことはやはり不可能だ。

 従って当初、「瀬在丸紅子シリーズ」がスタートした時、そのストーリー、そのキャラクターを含めた作品全体への感情面の思い入れを正直言ってスムースには行えず、違和感の中を手探りで読んでいった記憶がある。違和感は1冊読み終えても拭いきれず、結局は最初の2冊くらいを読んで以降、その後も健筆さ故か続々と刊行される「紅子シリーズ」を手に取り読むことはなかった。「V」も「W」も「X」も「逆A」でさえも連続し繰り返しては見なかったように。

 けれども変わった。というか変えられてしまった。皇なつきによって。皇なつきが描いた漫画版「黒猫の三角」(角川書店、680円)によって。崩れず歪まないデッサン力によって仕上げられた美形揃いのキャラクターによって演じられるストーリーを読み進むに連れて、なるほどこういった人々がいろいろなことを考え行動していたのだと分かり、描かれた世界観のイメージが一気に喚起されシリーズへの興味をかきたてられた。ビジュアルの力恐るべし、である。

 圧倒的想像力でもって活字から「瀬在丸紅子」という人物のイメージを脳裏に描いていた人にとっては、サラサラとした黒髪をたなびかせて歩く、レトロな雰囲気もあるお嬢ファッションで身を包んだ黒目がちな美女の紅子に違和感を覚えるかもしれない。資産家の娘として生まれながら没落し、今はかつて住んでいた屋敷の庭に立てられた小屋に、今は離婚した愛知県警の警部との間に生まれたひとり息子と、少林寺拳法の使い手でもある執事然とした老人と3人で暮らし、仕事に就くでもなく科学の実験などをして日々を過ごしている知的な美女のイメージに、すんなりとは重ならなかったかもしれない。

 事実、小説として最初に「黒猫の三角」を読んで抱いた瀬在丸紅子のイメージは、仲間内でのぞんざいな口調ともあいまって、鋭角的な面立ちのクールで理知的な美女というものだった。しかし今となっては皇なつきの描く紅子こそが紅子であり、男子ながらも華やかな女性の衣装に身を包むことを趣味にしている小鳥遊練無も、彼と同じアパート「阿漕荘」に暮らす長身でショートヘアで関西出身の美少女・香具山紫子もやっぱり皇なつきの描く姿がスタンダードになってしまった。と同時に、その生き生きとした描かれように、俳優の演じる姿を思ってノベライズを読む時のような感覚を、「紅子シリーズ」のすべてに抱くようになってしまった。

 かつて紅子が住んでいた屋敷で起こった殺人事件。これに重なる7月7日、6月6日のゾロ目の日に起こった11歳、22歳、33歳の女性が毎年1人殺された事件の真相に、紅子と仲間たちが挑むストーリーがそのまま漫画化されていて、読めば小説では手探りだった部分もしっかりイメージしながら追うことができ、衝撃的な真相にまで行き当たることができた。意味ありげな殺人事件の数々に秘められたその真相から放たれるメッセージには、何事にも原因があって結果があると考えたがる人間のある種の理性が破壊されるような思いを抱かせられる。英知を持ち感情を持った人間のその実上っ面だけでか中身はからっぽな存在かもしれないという可能性に、戦慄させられると同時に妙な納得ももたらされる。

 どこまでも耽美的で隅々まで美しく描き挙げられた皇なつきの絵が、そんな作品から放たれる虚ろで甘いイメージを増幅して現している。もし仮に別の誰かが漫画を担当していたとして、これほどまでの没入感を得られただろうか。どこか浮き世離れしたキャラクターたちが、漫画によくあるような永遠に続く日常といった感じの、まったりとしてのんびりとした雰囲気のなかで事件に巻き込まれ、解決へと至るエピソードが繰り返されるシリーズを他の誰が描いたとしても、これほどまでの一体感は得られなかっただろう。同じ森博嗣作品「すべてがFになる」を、絶妙な筆遣いで漫画にした浅田寅ヲでも、聖女と傑女の間を行き来する紅子の純粋性と天才性は描けなかったと思う。心のどこかが抜けてしまったような無垢で無機的な明るさを見せる萌絵を皇なつきの繊細な筆が苦手にするであろうように。

 文字だけではビジュアルをイメージできない、想像力の衰えを悲しむべきなのかもしれないが、もしかしたら漫画があって森博嗣ぎによるノベライズが後からついてきたようなはまり具合を目の当たりにした今となっては、残るシリーズのすべてのあの顔あの表情あの仕草がビジュアルとして浮かび、それを頼りに読み進んでいける。とりあえず喜ばしいと言っておこう。重ねて続編の漫画化も願おう。


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