クジラの子らは砂上に歌う1

 想像力に溢れて驚きと輝きを持った舞台を得れば、物語は果てしない広さを持って、読む人たちを無辺の境地へと誘う。意志に富んで行動力と洞察力に溢れた登場人物たちを得れば、物語はとてつもない奥行きを見せて、読む人たちを深淵のさらに底へと引きずり込む。

 このふたつが合わさった物語は、いったいどれだけの爆発力をもって読む人たちの心を捉え、燃やし、喜ばせるのだろうか。それを知りたかったら、梅田阿比の「クジラの子らは砂上に歌う1」(秋田書店、429円)を読めばいい。とてつもない舞台でとびきりの登場人物たちが繰り広げる物語が、かつてない昂奮を読む人たちにもたらしてくれるだろうから。

 水のかわりに砂で覆い尽くされた世界の上を行く巨大な漂泊船。500人を少し越えるくらいの人間がそこには暮らしていて、建物に寝起きし畑を耕し雨水を溜め工作をして生きるための糧を得ていた。そして、先に生まれた者が後に生まれた者を教え諭し導きながら、平穏な日々を送り続け、これからも送ろうとしていた。

 泥クジラ。住人たちがそう呼ぶ漂流船は、暮らすにそれほどの不自由はないようで、誰もが自分の役割を担って、畑仕事や教育といった活動に従事している。なにしろ泥クジラ暮らす人の9割ほどには、“情念動(サイミア)”と自らが呼ぶ異能の力が備わっていて、念動力に近いそれを力が必要となる仕事や、砂の海を渡って物資を集めに行くことに使っていた。

 ただ、サイミアの持ち主には短命という運命が待ち受けていて、冒頭でもまだ29歳のベニヒという名の住人が、息を引き取って砂の海へと流される。そのこともあってか、泥クジラを率いるのはサイミアを持たない人たちで、長い時間を生きて首長となり、やがて長老の列に加わって為政者として泥クジラのすべてを決めていた。

 そんな背景を持つ泥クジラで、というよりそこが世界のすべてだったともいえそうな場所で、14歳の少年チャクロは記録係として、生も死も含めた泥クジラの日常を綴っていた、そんなある日。遠くに島を見つけたチャクロは、仲間たちと砂の海を渡って島に行き、そこでひとりの少女を見つけて泥クジラへと連れ帰る。

 そして物語が動き出す。長老たちの言うことをあまり聞かず、サイミアが発動しない体内エリアに監禁されることが多かったオウニが常に訴えていたように、心地よくても行き場はそこだけの泥クジラの外に、広い世界があって人々が暮らしているだろうことが裏付けられた。募る好奇心。浮かぶ可能性。若い人には様々な思いが去来したことあろう。ところが。

 外の世界と関わりと持ったことで、泥クジラの存在する意味が、歴史の闇の底から浮かび上がって、平穏だった日常を大きく変える。隔絶された場所だからこそ保たれていた安寧が崩れ、泥クジラの人々を、そしてチャクロの書く言葉を、淡々としたものから感情と慟哭の入り混じったものへと塗り替える。

 地球のような、そうでないような星で、文明から隔絶されているようで、テクノロジーの残滓が住人の暮らしを助けたりもしているシチュエーションから浮かぶ、舞台となっている世界がどうして生まれ、ここに至っているのかということへの想像。泥クジラに生きる少なくない者たちが、サイミアという異能を力を奮うことと、そして外の世界と繋がったことで起きた事態、島から連れ帰った少女が呟く言葉が示す、泥クジラという存在そのものへの想像。果てしないビジョンが浮かぶ。

 砂刑歴93年7月2日。そう冒頭で記された、ベニヒを砂に流した日をチャクロが記録した年号が意味するひとつの可能性が、チャクロたち泥クジラの住人たちにこれから訪れるだろう苛烈な運命を予感させ、そして激しい戦いの果てにもたらされるだろう未来の様々な姿を想像させる。

 それが今より幸福なものになるのか、それとも悲劇の中に沈むのかは分からない。ただ、かつて描かれた萩尾望都の「スター・レッド」でも、竹宮恵子の「地球へ…」でも、差異がもたらす感情が生む悲劇を乗り越えて、人々は人類のとってより良い未来をつかんできた。そんな感動の物語が、泥クジラであり砂の海でありサイミアといった、他にない舞台や設定の上で繰り広げられる。興味を持って見つめるしかない。まだ序章でしかないこの先を。

 だからこそ、まずはこの第1巻を手にして、感じとり味わいそして想おう、「クジラの子らは砂上に歌う」という物語のの行く末を。果てに訪れる運命が幸福であれば嬉しいことだけれど、悲劇であっても仕方がない。人が生きる世界で誰もが幸せにはなれないことは分かっているから。それでも願う。正しく生きる彼ら、彼女たちに幸いをと。


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