氷の囁き
MY SOUL TO KEEP

 子供の頃に死んでしまった友人があなたにはいるだろうか。いるとしたらあなたは、その友人がどんな顔をしてどんな声を持っていたかを覚えているだろうか。最後に遊んだ時のことを、最後に交わした会話の内容を、今も忘れず思い出すことができるだろうか。

 幸か不幸か、私には死んでしまった友人が1人もおらず、従って最後の会合も最後の会話も思い出さずに済んでいる。あえて言うなら保育園に通っていた時に、おなじ歳の子供が交通事故で死んでしまったが、それが何歳の時で彼がどんな声をして最後に何を喋ったのかを、今はまったく思い出すことができない。

 もし仮に、彼の死に自分が強く関わっていたのだとしたら、記憶はもっと鮮明に、決して忘れえぬ事実として、頭に焼き付けられていることだろう。あるいはあまりに強烈な経験故に、記憶の奥底へと押し込められて、事故があったことはおろか、そんな友人いたことすら思い出せなくなっているかもしれない。

 ジュディス・ホークスの「氷の囁き」(ハヤカワ文庫NV、820円)に登場する主人公のナン・ルーカスは、子供の頃にいっしょに遊んでいた友人が死んでしまったという強烈な経験を持っている。経験があったこと自体は今も鮮明に覚えていて、その記憶は、彼女がニューヨークでの夫との生活に疲れて、息子のスティーヴンを連れてテネシー州の祖母の家へと移り住むことになった時も、心に刺となって引っかかっている。

 けれども彼女の記憶と、彼女が田舎の住人たちから聴いた事故の時の様子とでは、一致しない部分が幾つかある。例えばナンはその友人、タッカー・ウィルズと遊んだ時期を夏だと覚えていたが、実際に事故が起きたのは冬だったという。またどうして事故が起きたのか、どうして彼女だけが助かったのかも、ナンは現場で実際に経験したことであるにも関わらず、よく思い出すことができなかった。

 決して楽しくない思い出のある土地でも、ファション写真家として名をなしながら、夫だったゲイブとの離婚によって疲れはてたナンには、多少とも休まる土地だったらしい。最近急逝した祖母アナベルの家にしばらく住むことになり、親戚の男性スカイ・バーネットとのアバンチュールを楽しみながら、ナンは田舎での生活にとけ込もうと懸命になる。

 そんなナンに心を休める暇を与えず、次々と不思議な出来事が彼女を襲う。かつてタッカーが指にはめていたのと良く似た指輪が、アナベルの家の中で見つかったり、ニューヨークに住んでいた当時にスティーブンに良く見られた、空想上の友人を作って遊ぶ癖が田舎で復活したり、タッカーと見られる少年が、田舎の町のあちらこちらに出没したり。かつての友人ナンにタッカーが会いに出てきたのか、それとも自分の死の一因になったナンにタッカーが復讐しにきたのか。

 真相を求めてナンは、失った妻の幽霊を見たと信じる商店主のクーパー・チャーマーズや、山に住む霊媒師としての資質を持ったフルーティーとその姉ペンのラーキン姉妹らを尋ね歩く。やがてスティーヴンの空想上の友人ウッディがタッカーかもしれないと気付き、タッカーにスティーヴンが連れていかれるかもしれないと恐れ始めたナンたちを、スティーヴンの失踪という事件が襲った。

 スティーブンを軸にして、母親としてのナン、そして女としてのナンの心の動きを追うことによって、ジュディス・ホークスは「氷の囁き」という小説を、単なる田舎の幽霊話に止めることなしに、父親と母親の結婚と浮気と離婚、そしてその間で心を傷つけられる子供という、社会が抱える問題の痛ましさを描き出すことに成功している。真実に近づくために奮い起こした勇気の源、封じ込められた記憶の扉がこじ開けられ、やがて気づいた真相に慄然としながらも、しっかりと自分の居場所を踏みしめようとするナンの力の源が、息子スティーブンへの強い愛情だったように、家族の絆の大切さを描き出そうとしている。

 ナンの元夫でスティーヴンの父親のゲイブが、迷信や怪談を一向に信じようとはせず、何かにつけて心理学を持ち出す男に描かれているのは、父親ではないにしろ同じ男として釈然としない。がしかし、何事も頭で考えがちな自分の行動性向は、まさしくゲイブのそれであり、ジュディス・ホークスの人物造形の巧みさを、改めて思い知らされる。

 それにしてもジュディス・ホークスの描くテネシー州の田舎に住む人々の、何とおおらかで優しげなことか。何かにつけて面倒を見にやってきては、お茶だのお菓子だのを持って来てくれるし、週末には納屋でパーティーを開いて、親戚だけでなく近所に住んでいる友人知人たちもいっしょになって、踊り食べ飲み明かす。幽霊にもただいたずらに怯え騒がず、幽霊の心を慮ってその死を悼み慰めようとする。親戚も友人もなく、ただ1人都会で暮らすこの身には、不便だけれど心温まるテネシー州での田舎暮らしに、少なからず憧れを抱く。


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