こんなに緑の森の中
In a Wood so Green

 いくら浸っていたところで、想い出が蘇ることなんて絶対にない。けれども想い出はこらから幾らだって創ることができるんだと、そう教えてくれる素敵なファンタジーに出会えて前を向くんだという気持ちが湧いてきた。谷山由紀の「こんなに緑の森の中」(朝日ソノラマ、480円)のことだ。

 主人公の大内純一は野球選手としての才能を買われ、スポーツ推薦で野球の強い私立高校に進学した。けれども肩を痛めてしまってから、自分の居場所がないと思った純一は野球部を辞め高校も辞めてしまって、今はとりあえずスポーツ医学を勉強したいといううっすらとした希望を持って、大学検定を受けるための勉強を続けていた。

 反対を押し切ってまでスポーツ推薦で入った高校を、あっさりと辞めてしまった純一に家族は決して暖かくはなかった。母親は最初からスポーツでの進学には反対だったと詮無いことばかりを言い、父親も母親を心配させるなと怒るばかりで純一の悩みを解ろうとはしない。そんな家族との軋轢に疲れてしまった純一は、従兄が海外出張でいなくなる留守のアパートに、住んで猫の世話をしてくれないかという頼みに1も2もなく乗ることにした。

 だが、純一がそのアパート「グリーンハウスつだ」の従兄が住んでいた部屋に行くと、猫の虎造の姿は見えず、代わりに1人の少年がベッドですうすうと眠っていた。驚く純一に同じアパートの住人で、今は仕事に就かず雇用保険で暮らしている女性、坂口えりなが「きみもボビーが人間に見えるのね」と言って来た。猫なのか人間なのか虎造なのかボビーなのか解らないまま、奇妙な隣人たちに囲まれた純一の奇妙なアパート暮らしが始まった。

 何しろ猫が人間の格好をしているアパートだから、不思議なことが次々と起こる。アパートは知らず深い森に囲まれ、前庭が出来バルコニーが広がって喧噪の都会とは思えない雰囲気になる。そんな環境の中で住人たちはそれぞれに思い出に浸り、それぞれに過去を思い出しては感傷に苛まれる。

 管理人の津田さんは裕福だった昔に住んでいた懐かしい家をアパートに甦られせてしまった。老境にある菅野さんは仕事をしていた時代に自分の信念が知らず人を傷つけていた事実に気付いて、誰とも接触を絶ってアパートに独り身を潜めていた。そして坂口さんは自分の切ない想いを打ち明けられずに、悩みながらも耐えて明るくふるまっているように見えた。

 けれどもアパートで起こってしまった、立ち止まってしまおうとすることの醜さと、未来への希望を抱くことの嬉しさを感じさせる事件が、世を拗ねてアパートの変わらない日常に安寧を見出してしまっていた純一も含めて、アパートの住人たちの暮らしを大きく変えた。止まっていた時計は動き出したんだ。思い出に浸ることから抜け出して、新しい思い出作りに向かおうよ。と、そんなメッセージを感じて読者はアイドルになった純一に未来への希望を見出し、想いを抱えながらも少しだけ外に向かって心を開いた坂口さんに安心を覚える。

 ここより他の場所なんてない、だからここで新しい希望を見つけだそうよと、そんなメッセージを前作「天夢航海」(朝日ソノラマ、490円)で谷山由紀は 贈ってくれた。今度の話もやっぱり同じ。ファンタジックな世界に浸ることへの憧憬を見せてくれながら、でもやっぱり現実だって捨てたもんじゃないんだよ、だって私たちは現実の世界にしか生きて行かれないんだからって、厳しいけれども優しく背中を押してくれる。

 逃げているようで、ファンタジックなようで決して逃げない、リアルな世界を否定しない彼女の小説が、動き出そうとしない時代、動き出せないでいる人たちもっと読まれることを希望する。そして動き出そうとする意志を持った世界、動き出したら報われる世界が実現することを心から願う。


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