know

 アスキー・メディアワークスが主催するライトノベルの新人賞「電撃小説大賞」で、新設されたばかりのメディアワークス文庫賞を「[映]アムリタ」(アスキー・メディアワークス)で受賞し、メディアワークス文庫として著作が刊行された時から、野崎まどは2つの未来を予測されていた。

 1つは、一般にライトノベルと呼ばれるカテゴリーから外れ、活動の範囲を広げていくという未来。ライトノベルに馴染んだ読者にも、すっと受け入れられるような読み口の小説を世の中に。そんな思惑から創設された部門であり、レーベルで受賞し刊行されたということは、ライトノベルの枠内に留まらない存在として、読み手から認知され、書き手としてもそう認識して、活動していく可能性は高かった。

 だから、アスキー・メディアワークスではない早川書房から、SFのジャンルに連なる作品として「know」(ハヤカワ文庫JA、720円)が刊行されたことに不思議はない。興味の対象を突き詰めていった時に生まれた作品を、それに相応しい場所から出しただけだとも言える。

 ポイントはだから、その興味の対象が「know」に描かれたSF的な主題にあったということだ。それは実は、「[映]アムリタ」というデビュー作でも示されていた。だから、いずれSF小説を書くだろうと思われた。これが、野崎まどに関して予測された未来の2つめで、「know」という作品によって、1つめと同時に達成された。

 なおかつ「know」は、「[映]アムリタ」から「2」へと至った一連の作品群で、手触りを変え、見せ方を変えつつも探られ続けていた、人間の脳が持つ可能性を突き詰め、発展させたという面からも、野崎まどの本来が純粋なまでに発揮され、盛り込まれた作品だともいえる。

 人間の脳が持つ力。それが限界を超えてしまった時に、いったいどんな奇蹟が起こるのか、あるいは、どれほどの災厄が訪れるのかを推察し、考察し想像して描いた物語。読めば知識というものへの激しい欲求が、誰の脳裡にも浮かぶだろう。一方でそのことがもたらす恐怖も浮かんで、ひどく惑わせるだろう。

 人はいったいどこまで行けるのか。行った先に何があるのか。想像するほどに興味深く、そして恐ろしい結論が繰り出されるのだから。

 「know」でまず提示されるのは、極度に情報化された2081年の日本のビジョンだ。頭に<電子葉>というものが埋め込まれるようになった人間は、<情報材>という情報を通信し、蓄積し、連携する素材を介して、あらゆる場所であらゆる情報にアクセスできる可能性を、技術的に会得した。

 とはいえ、誰もがどの情報にアクセス出来ては混乱も生じる。そこで人ごとに制限がつけられた。ランク0からランク6までの段階に分けられることになった。すべての情報をさらしながら、ほとんどの情報にアクセスできない0を最下層に、一般人レベルの2、その少し上の3といったレベルがまず置かれ、その上には高度な情報に職業的に触れる筆ようがある4があった。

 レベル5は国家の役人として超機密の情報にも自在に触れられる存在。その上のレベル6は内閣総理大臣と閣僚級で、他に何人もいない。主人公の御野・連レルは情報庁の審議官としてランク5にあった。信頼のおける部下を使い、自らも天才的な能力を発揮して、情報に関する問題をテキパキとさばいてみせていた、そんなある日。

 まだ中学2年生だった頃に数日だけ参加した、京都大学が主催するプログラミングのワークショップの最中、<情報材>を世に送り出し、<電子葉>も作りあげた天才科学者の道終・常イチ教授と出会い、薫陶を受けていたことに関連した事態に巻きこまれる。

 ワークショップの最終日に、御野・連レルにも親しい他の誰にも行く先を告げず、道終・常イチは失踪した。関わっていた会社での研究成果を持ち出し、残りは破棄していた。その行方をずっと追っていた会社が、御野・連レルに情報を求めて尋ねて来たものの、むしろ彼自身が知りたいくらいで、情報など一切持っていなかった。ところが、あることをきっかけにして、御野・連レルは道終・常イチの行方に気づき、再会を果たし、そして驚くべき展開を経て、御野・連レルは道終・常イチが遺したひとりの少女と行動を共にすることになる。

 展開から繰り出されるのは、あらゆる情報を自在に咀嚼し、操ることができる存在の可能性。すでに士郎正宗の「攻空機動隊」でも、普通の生活しているそのかたわらで、ネットを介して情報を引っ張り出して検索したり、紹介したり会話もしたり誰かにハッキングしたりして、自分をどこまでも拡張してみせる人間が描かれていた。「know」の登場人物たちも、<電子葉>を使いランクの差こそあっても、そうしたネットに外部化されている情報を、もはや外部とすら意識しないで、条件の合う範囲で利用してたりする。

 見た目は個体でも、見えないネットワークを介して巨大な情報の塊の中にいる。それが「know」という世界における人間という存在。そこにいずれ来るだろう社会の姿と、そこに存在するだろう”格差”がもたらす歪みめいたものの影響を、見て取ることも可能だ。今はまだ、スマホを持ち、せいぜいがARを使って情報を得ている現在から、将来にかけての社会の変化を、想像してみる楽しみを味わいたい。

 なおかつ「know」では、極限まで情報へのアクセスを許され、そしてそんな膨大な情報の処理を出来るようになった人間が、いったいどれほどのことをやってのけるのかが示される。それはどういう形をとって生まれ、育ち息をして立ち回り、何を考えて己をどこへと導こうとしているのか。ひれ伏したくなるような、おののきたくなるような存在の可能性。「[映]アムリタ」で示唆され、「2」で繰り出された主題とも重なるテーマだ。

 ネット上のデータベース等に限らず、人間ですらひとつの情報体として認識し、利用し吸収してしまえるような存在は、はっきり行って怪物以外の何物でもない。けれども、それを世界を脅かすためには使わないのなら、いったい何のために使うのか。それが人類に何をもたらすのか、といった部分でも、提示される様々な回答がある。むしろそこが重要なポイントになっているところに、「know」というタイトルの意味そのままに、“知る”ことへの賞賛と羨望が浮かぶ。

 本当にそうした存在は可能なのか。その正否を検証する楽しみもあれば、人類にもたらされるだろう超越が、何を意味するかを思索する楽しみもある。限界のその向こう側にまで視野を広げ、それこそ彼岸の彼方まで手の届いた物語。知って人間は、あなたたちは何を思い、どこを目指す? 


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