きつねわな
狐罠


 「開運なんでも鑑定団」の大ヒットからこっち、素人ながらも目利きなふりをして、骨董店やギャラリーに立ち寄っては、置いてある皿をヒョイと持ち上げてコンコンと叩き、音を確かめる人が増えたとか。けれどもプロなら叩き方にだって、一工夫して皿が痛まないように気を配っているものを、素人の悲しさかゴンゴンと余計な場所を叩いてしまい、欠いたり割ったり落としたり、そこまでいかないまでも見えないヒビを入れたりと、ろくでもない所業を繰り返しているらしい。そういう意味では「鑑定団」、なかなか罪作りな番組だといえる。

 もっともたかが茶碗、たかが皿に価値を見いだしては、喜び慌て驚き悲しむ人々の姿を、ブラウン管を通じてお茶の間に見せることで、人々の「目利き」と呼ばれる人たちへの関心を惹起し、そうした人々の変わった生態を世に知らしめたという点で、「開運なんでも鑑定団」の果たした役割には、なかなか大きなものがある。そしてそんな「目利き」たちが、怒り笑い泣き楽しむ小説が、世の中に問われてなんら不思議ではない、むしろ人々に面白がって読まれるような世の中にしてしまったという意味でも。

 「狂乱廿四考」で鮎川哲也賞を受賞して推理小説界に颯爽とデビューした北森鴻が、世に言う「目利き」の世界を舞台に描いた最新作「狐罠(きつねわな)」(講談社、1900円)を書いた。なにも「鑑定団」ブームにあやかったものではなく、例えばアーロン・エルキンズの一連のキュレーター物にも通じる美術品をめぐって騙し騙され殺し殺されるストーリーを、日本に置き換えようとしたのが始まりだったかもしれない。がしかし、流行言葉ともなった「目利き」を流行言葉にしたのはやはり「開運なんでも鑑定団」。書き手の真意はともかくとして、読み手としてはどうしても番組に登場する「目利き」たちの姿を意識してしまう。

 ただし「狐罠」の「目利き」は、皿をたたいて「いい仕事」を連発するヒゲの店主のようにはムサくないし、西洋アンティーク最大の「目利き」のようには脂ぎってもいない。もちろん日本画の大家に学んだ模写が専門の老人のように耄碌もしてはいないが。むしろ耄碌とは対局にある「若さ」が、「狐罠」では主人公の「目利き」に、感情的には勇気と賞賛できる、しかし理性的には愚挙としたいいようのない行動をとらせてしまった。

 「目利き」の名前は宇佐見陶子。東都芸術大学で美術を学んだ彼女は、教授だった「D」に惹かれ結婚したが、「審美眼」と「鑑定眼」だけを陶子に求める「D」との間に、少しづつ気持ちがズレ始め、やがて2人は離婚して教授はそのまま大学に残り、陶子は一人「旗師」と呼ばれる店を持たない骨董商となって「冬狐堂」を興した。主に日本の陶器や工芸品を扱っていた陶子は、その美貌と確かな「目利き」によってたちまちのうちに名を挙げ、その評判を伝え聞いたのか、ある日銀座1丁目に店を構える骨董商「橘薫堂」の主人、橘から電話を受けた。

 「発掘もの」という「唐様切子紺碧椀」を見せられた陶子は、並々ならぬ陶子の目を通しても一級品にうつった。だが自宅に持ち帰ってそれが贋作であったことに気付き、「目利き殺し」を仕掛けらたことを知った陶子は、プロとしての力量が試されているのだと感じ、橘薫堂に対して逆「目利き殺し」を仕掛けようと決断。そして「D」のツテを辿って贋作のプロに品物を依頼した。

 いっぽう橘薫堂の身辺でも、のっぴきならない事態が起こり始めていた。まずどこからともなく現れた細野という男が、するどい鑑定眼と確かな贋作の技術を使って橘薫堂の懐刀として活動を始めた。また橘薫堂で営業部員として働いていた女性、田倉俊子が刺殺体で発見され、橘薫堂に恨みを持っているものとして、陶子が殺人事件の犯人と目されたてしまった。警察の追求をかわし、着々と「目利き殺し」の仕掛け作りに奔走する陶子は、やがて30年前、同じように橘薫堂に「目利き殺し」を仕掛けられ、憤死した一家があったことを知ったのだった。

 「D」と旧知の贋作師が陶子の依頼で品物を作っていく時の手順といい、また架空のコレクターをかたって自分のお気に入りの品物を市に出してまで、贋作の出自に信憑性を付けようと努力する段取りといい、陶子が張っていく「目利き殺し」のための主線と伏線の巧妙さには、ただただ感嘆するばかり。それを描き切った北森鴻の勉強ぶりにも、ただただ頭が下がる。

 しかし、騙し騙されが常道の骨董業界。騙されたことを次への糧としてぐっと呑み込んだままにする「目利き」が多いなかで、どうして陶子がかくも執拗な復讐心に燃えたかが解らない。ストーリーの発端となる部分だけに、釈然としない思いを抱くが、多分それは、陶子の「若さ」から来る「美」への純真さ・純粋さ故のことであり、また「若さ」から来る生き残りたい、もっと高みへ上りつめたいという、強い意志によるものなのだと理解して、とりあえず納得することにする。

 陶子の元夫で、滞日15年におよぶという美術史家であり、「リカちゃん人形」の研究家として知られた「プロフェッサーD」が、物語に主体的に関わることをせず、その頭文字しか与えられていない名前に象徴されているように、はなはだ希薄な存在感しか持ち得ていないのも、不思議といえば不思議だ。贋作についての知識は並ではなく、現役の贋作者とも親好のある「D」は、それこそ橘薫堂について贋作に手を染める細野よりも、また陶子の周りに出没して、贋作に関する知識を披露する保険会社の美術監査部員の鄭富健よりも、知識だけなら遥かに上を行っている。アームチェア・ディティクティブとして事件の解決にあたらせれば、それはそれで面白い存在になったかもしれない。

 物語の主人公はあくまで陶子であり、物語の主眼が陶子自身の失敗と成長を描くことに置かれている以上、「D」の存在が陶子のコンプレックスを引き出し、1人になった陶子に業界で生き残ろうとする強い意志を惹起させたという点で、十分にその役割を果たしているといえるだろう。ただ該博な知識といい、その語り口といい、なかなかに魅力的な人物だけに、もっと表に出てきて主体的にあれこれ活躍してもらいたかったと、ちょっとだけ残念に思っている。

 あるいは「冬狐堂」シリーズとして、北森鴻によって次回作が用意されているのだとすれば、そのなかで「若さ」で突っ走る陶子に苦笑しながらも、時には諌め、時には叱咤し、時には激励しながら物語を前に進めていく重要な役所として、その謎めいた表情の一端をさらしてくれるかもしれない。


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